第十八話 空白の系譜
「失礼します」
エミール助祭はグランツ司祭に呼び出され、少しばかり気の重い足取りで司祭の私室に入った。
(最近は別に、悪いことしてないんだけどな……)
自分の胸に手を当てながらそんなことを考えていたが、部屋に一歩踏み入れた瞬間、空気の重さに息を呑んだ。
「……どういたしましたか?」
いつもより硬い表情の司祭に、エミールは問いかける。
グランツ司祭は静かに息を整えると、エミールをまっすぐに見つめた。
「鐘楼の件です」
「ああ、何者かに紐が切られそうになっていたあの件ですね」
努めて平静に返すエミールに、司祭は深くうなずく。
「さよう。あの時に明言はしませんでしたが、その何者かはどうやら教会の古い名簿を狙っていたようでね」
「名簿…ですか」
グランツ司祭は静かにうなずく。
「さらに」
司祭の声が低くなる。
「現場で見つかった古い上着……気づいていると思いますが、ヴェルツ正教がこの地に普及する以前に使われていた信仰のものでした」
「つまり」エミールは思わずつぶやいた。
「その者は、ヴォルツ正教が来る前の、この土地の誰かを探している……と」
グランツ司祭はかすかに眉をゆがめた。
「確かなことはわかりません。ただーー」
眼差しがより厳しくなる。
「大した目的もなく、こんな危険なことはしないでしょう。教会のものを故意に破壊するということは、ヴェルツ正教に叛くのと同義。今回は幸いにもすぐに異変に気付き、教会内までは侵入できなかったようですがーー」
「……また同じことが起こるかも、と?」
エミールの問いに、司祭が口を軽く緩める。だが、それは笑みというにはあまりに冷たいものだった。
「本当に察しがいいですね。しばらくの間、警戒するようお願いします」
「かしこまりました」
エミールは真剣な表情で答え、深く頭を下げる。
そのとき、司祭の声が低く静かに落ちた。
「…無用な詮索はしないように」
声色にわずかな冷たさを含んだ忠告だった。
エミールは顔を上げ、司祭と短く視線を交わす。
「承知しております」
言葉少なにそう返すと、エミールは部屋を後にした。
***
「古い名簿……ねぇ」
収穫祭から数日が経ち、村はすっかり日常を取り戻していた。村の道には、穫れたばかりの麦を運ぶ荷車が行き交い、広場では子どもたちの歓声が響く。
秋の風が涼しく、乾いた穀物の香りを運んでくる。
エミールはふと思い返していた。先日グランツ司祭に呼び出されたときの、あの意味深な忠告を。
(『無用な詮索はしないように』って言われてもねぇ…。何を隠してるんだか…)
そう思案しながら教会の書庫に向かった。
*
重たい扉を開けると、先客がいた。
「おい、ルーシュ。何してんだ?」
ルーシュが静かに振り返った。
「この前の鐘楼の件がどうにも気になって…。古い服が落ちてたでしょう?昔住んでた人に関係あるのかと思って」
思いのほか核心をつく答えに、エミールは苦笑した。
(まあ、そのくらいは考えるよな)
「それで?何かわかったのか?」
ルーシュの眼差しが変わった。
「この古い名簿のここ、見てください。明らかに故意に名前を消した跡があるんです」
エミールはルーシュの指差すページを覗き込んだ。そこには明らかに不自然な空白があり、よく見ると削ったような跡が残っていた。
「変だなと思って、新しい名簿と照らし合わしたんですけど、そっちには初めから記録されてないんですよ」
ルーシュが何か手掛かりを見つけたのではないか、と興奮気味で説明してくる。
(確かに変だな。古い名簿はヴェルツ正教以前のもの。もともと土着の信仰で記されていた記録だが……普通なら、そのまま引き継ぐはずだ)
エミールがしばし考えを巡らせていると、ルーシュが訝しげに尋ねてくる。
「何か心当たりがあるんですか?」
ルーシュがじっと見つめてきた。好奇心の炎が揺らめくまなざし。
その顔に、幼かった頃の面影をかすかに思い出しつつ、エミールは肩の力を抜き、苦笑いを浮かべた。
(これは深入りさせたくないな)
「……教会が変わったとき、記録の混乱があったからな。慌ただしい中で抜けたのかもしれん。古い村ではよくあることだよ」
「でもわざわざ消すなんて、何かあったんじゃ?」
「村に残る者もいれば、出て行く者もいる。中には名前を記すことすら望まない者もいるんだよ」
言いながらエミールは、努めて穏やかな声色を保った。
「…そう言うものですか」
ルーシュは納得いってないような顔をしながらも一応頷いた。
そんなルーシュの頭を幼い頃のようにガシガシ力強く撫で回した。
「…何するんですか!」
「そんな顔ばっかしてると眉間の皺が消えなくなるぞ」
茶化すように言いながらも、内心は静かなざわめきが消えなかった。
そうして部屋を出たあとも、回廊を歩きながらエミールはふと空を仰いだ。
(名簿から消えた名前、か……気になるな)
陽光にきらめくガラス窓が、妙に冷たく感じられる。
(ちょっと、調べてみるか)
ぽつりと独りごちると、エミールは軽やかな足取りで教会の奥へと消えていった。




