第十七話 揺らぐ鐘紐
陽の光が、朝霧のかかった村をやわらかく照らしていた。
秋の収穫を祝う日曜礼拝の朝。
村の空気には清々しさと、ほんのわずかな緊張が混じる。年に一度、時の神へ感謝を捧げる「収穫時計祭」が、これから始まろうとしていた。
ルーシュは教会の鐘楼を見上げながら、息をひとつつく。
この日は特別な鐘を鳴らす習わしだ。いつもより低い音程の鐘を使い、時の流れと大地の実りに祈りを捧げる。
「今日は鐘を鳴らす係だよな?準備は大丈夫か?」
エミール助祭が声をかけてくる。
「はい、昨日のうちに点検しておきました。でも、念のためもう一度、確認しておきます」
ルーシュは微笑みながら応じる。どんな小さなことでも気を抜かない。それが教会で学んできた姿勢だった。
村の広場では、すでに人々が集まり始めていた。子どもたちは栗色の麦わら帽を手に走り回り、農民たちはとれたての果実や野菜を並べる。
年長者たちは教会前に腰掛けて談笑し、婦人たちは腕にたっぷりのパンやチーズを抱えて動き回る。
「ルーシュ!」
少し離れた場所からエルザが呼びかけてきた。
篤実な信徒であるお嬢様も、今日は年に一度の祭りのために大忙しである。藁を束ねたかごを抱え、頬にうっすら汗をにじませている。
「これで最後の麦の飾りよ。鐘楼の下に置いておくわね!」
秋の収穫時計祭では時の神のために振り子状に結えた麦を供える。そのための麦の準備を頼んでいたのである。
「ありがとう。助かるよ」
いつもの勝ち気な口ぶりも、今日はどこか晴れやかだった。
しばらくすると、朝の祈りの時間が訪れる。七振の鐘が、清らかな響きを空へと放った。
「時の神よ、この地に実りを与えたまえ」
グランツ司祭の声に合わせ、村人たちが頭を垂れる。
ルーシュも胸に手をあて、静かに祈った。
(大地の恵みが、時とともにありますように――)
光に満ちた秋空の下、穏やかな祈りが、村全体を包み込んでいた。
***
午前の礼拝が終わると、村の空気は一層祭りの熱気に包まれていった。麦の束で飾られた広場では、子どもたちが手を取り合い踊り、大人たちは豊穣の神へ感謝を込めた祈りを捧げる。陽の光はやわらかく、穏やかな風が黄金色の麦穂を揺らしていた。
ルーシュは午後の鐘の準備のために鐘楼に登った。
年に一度、収穫祭のこの日だけ響かせる低音の鐘。その音は、実りの季節の終わりと新たな時の巡りを告げる神聖な響きだった。
「ルーシュ、鐘の準備は問題ないか?」
エミールが問いかける。
「はい。一応もう一度確認しておきます」
ルーシュが麻紐に手を伸ばし、点検していると、昨日はなかった黒い焦げ跡が視界に入った。
「エミール、ちょっとこれ……」
ルーシュが声をひそめて呼ぶと、エミールがすぐさま確認に来た。
「……燃えたような跡だな」
エミールはさらに床に目を落とす。
「ここ、鉄の部分も黒ずんでるぞ」
「…なんで?」
「正確にはわからないけど、何かしらの溶剤が撒かれたのかもしれない。強い酸の可能性があるな…」
エミールの声が低くなる。ルーシュは緊張が走るのを感じた。
「どういうーー」
ルーシュの言葉を遮ってエミールが続ける。
「今は時間がない。予備紐を取りに行けるか?」
「はい!」
ルーシュはすぐに予備の紐を取りに走った。
祭りの喧騒から少し離れた教会の備品庫。そこに準備されていた替え紐を取り出すと、青年たちにも声をかける。
「手を貸してください!時間がありません」
冷静に、けれど無駄のない動きで指示を飛ばすルーシュの姿をエミールは鐘楼から見下ろし目を細めた。
「よくぞ落ち着いているものだ……。しかし、誰がこんなことを」
そう呟いてエミールは焦げ跡の残った麻紐を見上げた。
「紐に有害な液体がついているかもしれません!触れないように気をつけて!」
ルーシュの声が鐘楼の中に響く。
青年たちとともに慎重に古い紐を取り外し、新しい紐を手早く取り付ける。考える暇もなく、祭りの定刻が迫っていた。
「ルーシュ、終わったか!」
「はい!」
息を整え、しっかりと紐を握る。
正午、村の鐘が高らかに鳴り響いた。
重く、低く、村の谷間を渡る鐘の音。
祭りに集まる村人たちが笑顔で祈り、互いに祝福の言葉を交わす。広場の誰一人として、鐘楼で起きた小さな異変に気づく者はいなかった。
青年たちは胸をなで下ろし、緊張を解いた。
問題なく鐘を鳴らし、青年たちが広場に戻ると、ルーシュは青色のリトマス試験紙を持ってきた。
麻紐の焦げた部分に当てると、青がたちまち赤に変わる。
「やっぱり強い酸性の溶剤がかけられたみたいですね」
「ああ、朝露と反応して燃えたんだろう。これなら音も立てず、短時間の滞在時間で紐を傷めることができる」
「でも、こんな液体、簡単に手に入るものなんですか……?」
エミールは顎に手を当てしばし考え込む。
「周辺を確認してみよう」
ルーシュとエミールは教会の庭に何か痕跡が残っていないか確認しに行った。
すると、教会の庭の隅に見覚えのない古い上着が落ちていた。
「これは…」
「見たことない紋章が入っているな」
三日月と星が組み合わさった不思議な意匠。
エミールはじっとそれを見つめ、しばし黙考してからルーシュを振り返る。
「とりあえず、この件は司祭様に報告しておく。おまえは終わりの鐘の準備を頼む」
「…わかりました」
ルーシュは釈然としなかったが、エミールの指示に従った。
ルーシュは再度鐘楼に上り、鐘の紐をしっかりと握り直した。祭りの終わりを告げるために、もう一度鐘を鳴らす。
鐘楼の中で響く振動が、ルーシュの胸の内で波紋のように広がっていく。見えぬ誰かの思惑が、静かにこの村を揺らし始めている。
けれど、結局誰が何のために仕掛けたのか、事件の核心は霧のなかだった。司祭やエミールからも特に何の知らせもない。
(一体何が起ころうとしているのか…)
ルーシュはまるで濃霧の中をさまようような心地で、静かに鐘楼を後にした。




