第十五話 赤く染まる井戸2
夏の終わりの風が、畑の稲穂をさわさわと揺らしていた。陽射しはまだ強いが、吹き抜ける風にはどこか秋の気配が混じりはじめている。
ざわめく葉音と虫の声が交じる中、村のはずれにぽつんと佇む古びた井戸が見えてきた。石組みはすっかり黒ずみ、ところどころ苔が生えている。使われている様子はあるが、どこか寂れた雰囲気をまとっている。
その井戸の縁に数人の村人たちが集まり、不安げに顔を寄せ合って囁いていた。
遠目からでも、その表情が硬く曇っているのがわかる。
「……こちらです」
案内してきた老人が小さく声をかけた。
エミール、ルドルフ、ルーシュは頷き合い、井戸へ歩み寄る。風が稲穂を撫で、村人たちのざわめきもかすかに耳に届いた。
「水が、赤く染まったままだ」
「あの妙に鮮やかな鳥も……やはり不吉だな」
「昔の疫病のときも、井戸の水がこんな色になったと聞くぞ」
ささやき合う声には恐れが滲んでいた。
だが、ルーシュはその空気に流されることなく、井戸をじっと覗き込む。
水面は薄く赤みを帯び、陽光に照らされて生々しくも映える。
鉄のような匂いが漂う中、微かに卵が腐ったような腐敗臭が風に乗って鼻先をかすめた。
「鳥は、あそこの麦刈り跡の畑に倒れていました」
そう言いながら、先ほど案内してくれた老人が奥の畑を指差した。
倒れた鳥は赤、青、緑と色鮮やかな色をしており、余計に不気味さを際立たせている。
エルザも静かにその光景を見つめた。気丈な彼女も、この場に満ちる緊張を感じ取っているのだろう。
「さ、まずは鉄分が疑わしいな」
ルドルフはさぞ当たり前のように腕を組んで呟いた。
ルーシュは井戸から慎重に水を汲み上げた。匂いを嗅いでみるとやはり錆びた鉄のような匂い。そして、微かな腐敗臭。
水を小瓶に移し、そこに教会から持参したドクダミ茶を入れる。鉄分はカテキンと反応し黒色の沈殿物を生成するのである。
しばらく待つと、予想通り黒色の沈殿物が小瓶の底に溜まった。
「やはり鉄分が原因ですね」
ルーシュが小瓶を見ながら呟く。
「この前の大雨で地下水位が上がって、鉄分の多い層に水が触れたんだろうな」
ルドルフが付け加える。
「では、あの見たことのない鳥は?悪魔の使いだなんて噂も……」
恐れる老人を見てエミールが穏やかに返す。
「大丈夫ですよ。あれはインコの一種で、変わりもの好きの貴族なんかが国外からよく取り寄せてるんですよ。それが逃げて住み着いたんでしょうね」
エミールは鳥が倒れている畑の方に顔を向け目を細める。
「あの鳥は鉄に弱いらしくて、赤土で育った麦を食べてしまったのが原因でしょう」
次々と不安が晴れていくことに村人たちは驚きと戸惑いを覚えつつも、安堵と信頼の色を深めていく。
「…では、この井戸はこのまま使っても?」
ルドルフがやや渋い顔で首を振る。
「今は鉄分の量が多くて体に影響が出るかもしれません。正常に戻るまで少し休ませましょう」
「自然に元に戻るのですね!」
村人たちは安堵し、明るい声色に変わった。
しかし、ルーシュは何か違和感を感じていた。
(何か鉄とは違う匂いがしたような…)
ルーシュはもう一度井戸から水を汲み上げ匂いを嗅いだ。
(やはり、少し腐敗臭を感じる)
ルーシュは懐からハンカチを出し、その上に井戸の水を垂らした。
「ルーシュ、何してるの?!」
その行動に驚いたエルザが声をかける。
「ちょっと待って」
その声にルーシュは落ち着いて返す。
「ルーシュ、どうした?」
エミール助祭もエルザの驚いた声を聞いて声をかける。
「水から鉄以外の、なにか腐敗臭のような匂いがしたので、もしかしたらと思って…」
ルーシュはハンカチの上に残った小さな何かを指差す。そして、徐にルーペを取り出して覗き込んだ。
「何が見えるの?」
「これは何か細かい…麦の種皮かな…?」
見せてみろ、とエミールがルーシュに手を差し出し、ルーペを覗き込む。
「これは種というより麦殻の繊維片だな……収穫後の残渣物だろう」
ルーシュは先日見回りした村の様子を思い出した。
「確かに、今年は収穫後の片付けが遅れている畑がありました。それが雨で流されて地下水にまじったのか」
「それで腐敗臭の説明もつくな」
エミールはルーシュの方を見てニヤッと笑いながら短く頷いた。
「井戸はひとまず閉鎖して、教会で管理しましょう」
エミールは凛とした声で宣言したあと、周囲に集まった村人を見渡して低い声で続けた。
「収穫後の残渣物はすぐに処理するよう決まっていたはずです。先人たちが残してくれた知恵にもしっかりとした理由があるのですよ」
そのいつもとは違いすぎる鋭い眼光に心当たりがある者たちが気まずそうにうつむいた。そして、いつもの柔和な笑みを浮かべて続けた。
「皆さん、神は理をもって時を進めてくださる。恐れをただの恐れで終わらせず、知恵に変えて歩むこと。それが私たちに託された務めです」
静かながらも力強いその言葉に、村人たちは深く頷いた。ヴェルツ正教の教えが、心の奥底から彼らを支えていた。
エルザがふとルーシュのまっすぐ前だけを見つめる横顔を盗み見る。少年だったはずの幼馴染が、知らぬ間に頼もしい青年へと歩み始めている。
(私も置いていかれたくない)
エルザは唇を固く結び、再び視線を村人たちのほうへ戻す。
ルーシュはその視線に気づくことなく、最後まで村人たちの問いにひとつひとつ真摯に答えていた。
ふと空を見上げれば、雲間から光が降り注ぎ、畑や村をやわらかく照らしている。その光景はまるで、次の季節への静かな導きのようだった。
こうして、赤い井戸の騒動は、人々の手と知恵によって幕を閉じたのだった。
***
村人への説明が終わり、今後の方針も決まると、一行はほっとしたように教会への道を戻っていた。傾きかけた陽が長い影を落とし、踏みしめる土の道には朱が差している。
帰り道、ルーシュがふと思い出したようにエルザに声をかける。
「ねえ、教会のリンゴの木がいい感じに実ってるんだ。食べてこうよ」
教会の裏庭には小さな果樹園があり、村の畑ほどではないが四季折々の恵みを育んでいる。
「おいおい、ルーシュ。それは盗み食いってやつだぞ」
横からエミール助祭が軽口を飛ばす。
「いいじゃないですか。たくさん実ってるし、腐らせる方がもったいないですよ」
ルーシュは笑いながら言い返した。そんなやりとりに助祭も苦笑しつつ肩をすくめる。
けれど、そのやりとりを静かに見つめていたエルザは、ふいに口を開いた。
「今日は、帰るわ。最近ずいぶん勉強を疎かにしてしまったし」
いつもより低く沈んだ声だった。何気ないようでいて、どこか張り詰めた響きがある。
ふとルーシュが顔を見ると、夕陽のせいだろうか、エルザの瞳がわずかに潤んでいるように見えた。
「……どうした?」
思わず手を伸ばす。けれどその手が触れる前に、エルザは一歩、ふわりと後ろに下がった。
行き場のなくなった手をルーシュはそのまま下げるしかなかった。
「じゃあ、行くね」
エルザは振り返らずにそう言った。その声はわざと明るく装っているようで、どこか震えていた。
夕暮れの光の中、家路を急ぐエルザの背中をルーシュはじっと見送るしかできなかった。
「おまえ、なんかしたのか?」
エミール助祭が軽く肘でつついてきた。冗談半分の口ぶりだったが、その表情にはかすかな心配が滲んでいる。
(特に何かをした記憶はないんだけど……)
自分でもはっきりしない胸騒ぎが残っていた。
いつも一緒に笑っていたはずのエルザが、遠く感じる。そんな違和感が、胸の奥にじわりと広がっていくのだった。




