第十四話 赤く染まる井戸1
教会の鐘が、朝の空気を切り裂くように響いた。
七度。
ヴェルツ正教の「七振の鐘」――一週間、七徳、七惑星を象徴して毎日、朝・昼・夕に鳴らされる。
ルーシュは冷たい水で顔を洗いながら、鐘の音を聞いた。
(日曜日か。村のみんなが教会に集まる日だ)
祈りの準備に追われながらも、彼はどこか胸が躍るのを感じていた。
毎週この日だけは、教会に集う村人たちの顔が揃い、広場はちょっとした祝祭のような空気に包まれる。
朝の祈りの時間。
礼拝堂には、見慣れた村人たちが静かに腰を下ろし、司祭の声に耳を傾けていた。
「時は、すべての者に平等に流れる。我らはその時の中で、正しく歩むことを誓おう」
グランツ司祭の穏やかな声と、香炉の甘く淡い香りが、教会堂に満ちていた。
その後、子ども向けの福音朗読と時計解説では、ルーシュの周りに子どもたちが集まった。
「長針と短針が重なる時、それが『時の均衡点』だよ。今日の正午、鐘が七回鳴るとき――それが一番、特別な時間なんだ」
彼の説明に、子どもたちは目を輝かせる。
正午。
第二の重なり――短針と長針が重なる、最も神聖な刻。
村の広場には、農夫も職人も、子どもたちも集い、教会の鐘楼を見上げていた。
カラン、カラン、カラン……。
七度の鐘の音が、谷に響き渡る。その瞬間、村はまるで時間が止まったように静まり返った。
ルーシュは祈りながら、村人たちの穏やかな横顔を見渡していた。
(今日も、時は正しく流れている)
それが、この村にとって、何よりの幸せだった。
そんな日曜礼拝の昼下がり。
祈りと祝福の声が静かに響き、教会の広場にはほっと緩んだ村人たちの笑い声が戻っていた。風は心地よく乾いていて、鐘楼の上では風見鶏がくるくると軽やかに回る。
ルーシュは助祭とともに片付けを手伝いながら、賑わう広場に目を走らせた。
子どもたちは追いかけっこをし、大人たちは新しく刈り取られた麦束を手に収穫の話に花を咲かせている。
祭壇の側ではカタリーナ修道女の指揮のもと、村の青年たちがひとつひとつ道具を丁寧に布で拭っていた。
穏やかな、いつもと変わらぬ日曜の午後――。 まるで、振り子が安らかに刻む「調和の時」そのものだった。
だがその均衡は、ふとした声で破られることになる。
「教会の皆さん……少し、来ていただけませんか!」
鋭く割って入る声に、ルーシュはすぐ顔を上げた。
村の入り口から、ひとりの老人が駆け込んでくる。背筋を丸めた体が息を切らせ、額に浮かぶ汗が午後の陽光に濡れて光っていた。
何かに追われるような焦りの色が、その顔にはっきりと刻まれている。
「どうかされましたか?」
ルーシュは急いで老人に駆け寄る。
老人は胸を押さえながら、必死に呼吸を整え、震える声を絞り出した。
「……村はずれの畑で、井戸の水が……赤く染まったんです」
空気が、ぴんと張り詰めた。
広場で笑っていた村人たちも、次第にざわめきを止め、耳をそばだてる。
「赤く……?」
ルーシュは問い返しながら、無意識に息を呑んでいた。
老人は頷き、さらに言葉を続ける。
「それだけではありません。変わった鳥が二羽、井戸のそばで倒れていて……年寄りたちは『前の王朝が滅んだときと同じ兆しだ』なんて口にしてるんです」
ざわり、と人々の間に不安が走る。
たちまち、小声の波が広がった。
「そんな馬鹿な……」
「本当に井戸が赤く染まったのか?」
「まさか……まさか呪いでは……」
ルーシュは静かに息を整え、老人の話を頭の中で組み立てる。
前王朝が倒れた時、村でも似たような話が噂されたと聞いたことがある。だが、今は恐怖や噂に流されている場合ではない。まずは事実を見極めることが先だ。
「行ってみましょう」
エミール助祭は村人たちを落ち着かせながら穏やかに促した。
「事実を確かめなければなりません。ヴェルツ正教は、理と知をもって恐れを祓うことを教えています」
その言葉に、広場に集まった村人たちも少し落ち着きを取り戻しはじめる。
ルーシュは頷き、すぐに準備にかかった。
そのとき、後ろから肩を叩かれた。振り向くと真剣な顔をしたエルザがいた。
「わたしも行く。何かできることがあるかも」
白い袖を軽く払いつつ、気丈な面持ちで一歩踏み出す。
ルーシュは一瞬、言葉に詰まった。だが、彼女の真剣な瞳を見ると、無下にはできなかった。
「……分かった。でも危険があるかもしれない。絶対に、無理はしないで」
彼はそう告げると、エミール、ルドルフとともに村人たちを引き連れ、老人の案内で村はずれへと歩み始めた。
広場に残った村人たちは、祈るように彼らの背中を見送る。その視線を背に受けながら、ルーシュは歩みを進めた。
胸の奥にはひとつの思いだけが灯っている。
(必ず、理由を見つける)
ゆっくりと傾き始めた午後の陽が、彼らの影を長く地面に落としていた。




