第十三話 寄り添う筆先
朝の光が、教会の大きな窓から柔らかく射し込み、石床に幾筋もの輝きを落としていた。
広間ではエミール助祭が鐘の綱を整え、カタリーナ修道女が祭壇の布を滑らかに伸ばしている。
「ルーシュ」
背後から穏やかな声が響いた。
振り向くと、グランツ司祭が書簡の束を手に立っている。
「明日の礼拝に向けて、信者の名簿を整えておきたい。書写室で新しいものを書き直してくれないか」
「はい、わかりました」
ルーシュは素直に頷きつつも、書簡の厚みに少しだけ肩がすくむ。なかなか骨の折れる作業になりそうだ。
ヴェルツ正教の日曜礼拝は「時の始まりと巡り」を祝う特別な祈りの時間。
朝の鐘が七度鳴ると村人たちは教会に集まり、それぞれの週の終わりと新たな時を感謝とともに迎える。
司祭はふっと目を細め、やわらかな笑みを浮かべた。
「できれば今日のうちに仕上げたいところだ。お嬢さんにも声をかけておこう。礼拝の準備なら授業を休めて喜ぶだろう」
赤子の頃から見知っている少女を思い浮かべているのか、その表情はどこか父親のようだった。
「飛んできそうですね」
エルザが家庭教師を堂々と休んでスキップしてくる様子が浮かび、ルーシュもつい笑みをこぼす。
「それでは、頼んだよ」
司祭から書簡を受け取ると、ざらりとした羊皮紙の感触が掌に馴染んだ。
回廊へと歩き出すと、外の光が静かに降り注ぎ、石造りの廊下に静かな陰影を落としていた。
***
昼下がりの書写室は、穏やかな光に包まれていた。窓から差し込む陽光に舞い上がる埃がきらきらと浮かび、静かな時間の流れを照らし出している。
ルーシュはペン先を慎重に走らせながら、ちらりと隣を見る。
「エルザ、疲れてない? まだ時間はあるから、無理しなくていいよ」
集中してペンを動かしていたエルザが、区切りの良いところで顔を上げた。
「ううん、大丈夫。普段からペンはよく使うし、任せて」
腕をくいっと上げ、にっと笑うエルザに、ルーシュも自然と笑顔になる。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
軽やかな返事のあと、ふたりは再び黙々と書写を続けた。
「ねぇ。次の名簿はどこ?」
ひとつの名簿を書き終えたエルザが尋ねる。
「ああ、そこの棚の上に置いたんだけど、とれる?」
「なんであんな高いところに……」
本棚の上段を見上げ、エルザは小さく嘆いた。
「汚したくなかったし。ほかに置く場所がなくてさ」
背伸びをして指先でかろうじて触れるが、引き出せば崩れ落ちてしまいそうだった。
(これじゃあ無理かも……)
そんなふうに考えていると、後ろからルーシュの声が届く。
「ごめんごめん、取るよ」
ふと、すぐ背後にルーシュの気配を感じた。
棚に手を伸ばす彼の腕が、すぐそばにある。耳元で息遣いが聞こえた。
ルーシュは軽々と棚の上から名簿を取って、ふわりとエルザに差し出した。
「……ありがとう」
受け取ろうとした瞬間、思っていたより近くにルーシュが立っていて、エルザはわずかに息を呑む。
「……なに?」
じっとこちらを見て動かないルーシュに、耐えきれず声をかけた。
すると彼は、おもむろに肩に手を伸ばしてきた。エルザは驚いて身をこわばらせる。
「埃、ついてるよ」
そう言ってルーシュは肩を軽く払った。そして、ふっと笑みを浮かべる。
「この前のお返し」
そのまま何事もなかったかのように、席へと戻っていく。
ぽかんとその背中を見送っていたエルザは、やがて静かに息をついた。
(……ほんと、心臓に悪い)
胸の内で呟きながらも、自分の中にふわりと灯ったぬくもりに気づく。もう、自分の気持ちに嘘はつけないなと、静かに観念していた。




