第十二話 歯車は嘘をつかない2~エミールの記憶~
夕暮れの教会の工房。
ルーシュは机に突っ伏していた。バラバラになった歯車とネジが机の上に散らばっている。指先には、慣れない作業でできた小さな傷。無言でじっとそれを見つめていた。
そんなルーシュの背中を見かねてエミール助祭が声をかけた。
「まあまあ。歯車が回らないときはな、無理に押すより一回分解して掃除だ」
ルーシュは顔を上げて助祭をにらむ。
「……さっき、それやってもっとバラバラになりましたけど」
「はは、そうか。そりゃご苦労さん」
エミールは気楽に笑って椅子に腰掛ける。ワインの入ったグラスを傾けながら、ふっと目を細めた。
「でもな、歯車は嘘をつかない。ちょっとやそっと間違えたって、噛み合うときはちゃんと噛み合うもんだ。人間より正直だからな」
ルーシュは苦笑いしながらも、その言葉をかみしめるようにうなずいた。
エミールはその横顔を見つめながら、ふっと目を細める。ルーシュの頬に薄く刻まれた疲れと、それでも消えない炎のような目。
(大きくなったな……)
***
幼い日の記憶がよみがえった。
王都。
名門の屋敷。
重たげな絹のカーテン、食卓に並ぶ銀器の列。
格式ばかりの毎日に、息苦しさを感じていたあの日々。
エミールは、貴族の長子として望まれた生まれだった。けれど周囲が求める「優等生の跡取り息子」に、自分がどんどんすり減っていくようでたまらなかった。
そんな時だった。
連れて行かれた教会で、ひとつの言葉が胸に刺さる。
「歯車のように、人もまた、役割を持って生きる」
歯車は噛み合う場所を探して回り続ける。無駄な回転などひとつもない。
その教えに、不思議と救われる思いがした。
迷うことなく神学校への道を選び、身を投じた。周囲は驚き、親は嘆いたが、あの閉ざされた屋敷よりはるかに自由だった。
そんな頃、親の書斎で「地方教会人員増員」の計画を見つけた。名前の欄に見覚えのある司祭の名がある。
グランツ司祭――
幼いころに王都で声をかけてもらった、懐かしい優しい笑顔が頭に浮かぶ。
「ちょうどいい」
そう呟いてその村への赴任を希望した。
息苦しい屋敷を抜け出して、自分の歯車がようやく噛み合う場所を見つけるつもりで。
そして出会ったのが、まだ幼いルーシュだった。
(弟と同じくらいかな?)
そんなふうに思いながら声をかけた。
「君、名前は?」
「……ルーシュ」
「ルーシュか。今日からよろしく」
そう言って手を差し出すと、ルーシュは少し戸惑いながらも小さな手を重ねた。
ルーシュはとても素直で実直だった。けれどその子供らしくない姿が気になった。まるでがんじがらめの生活を送っていた、昔の自分を見ているようで。
「ルーシュ! 今日は川に行こう」
「川……ですか?」
「おう! 魚でも捕まえたら今夜の夕食が豪華になるぞ」
「……頑張ります!」
口を結んで小さく拳を握ったルーシュをエミールは裸で川に放り投げた。
「うわわわわっ! 何するんですかっ!?!」
「何がって、魚を捕まえてくるんだよ。さっき言ったろ?」
「素手で!?!」
「他に何があるんだよ?ほら、早く行け」
「服は?何か着たいです!」
「お前みたいなお子ちゃまは裸でいいんだよ。ほらさっさとしないと帰れないぞー」
笑いながら手を振ると、ルーシュは観念したのかぷるぷる震えながら魚を探し始めた。結局一匹も捕まえられず、悔しそうに目を潤ませるルーシュを引っ張って帰ったが。
踊りを教えたこともあったっけ。
よく一緒に遊んでいた幼馴染のお嬢様がいないことを尋ねると、
「今日はダンスの練習だってさ」
と気のない返事が返ってきた。
「お前もダンスくらい踊れないとな。教えてやろうか?」
「いいよ。踊ることもないし」
心底興味なさそうに答えると、ポケットから古い懐中時計を取り出し目を輝かせる。
そういえば倉庫の片付けのとき、ルドルフから『もう使わないから分解していい』と渡されていたなと思い出す。
もうこちらに見向きもせずに、夢中で工具を準備し始めるルーシュ。
「ダンスくらいスマートに踊れないと、モテないぞ?」
からかうように言うと、ルーシュはため息混じりに振り返る。
「別にモテなくてもいいし」
「ってことは、お嬢様がいつか名前も知らない男と手を取り合って踊るのも構わないってわけだ」
少し意地悪に言ってみると、ルーシュはわかりやすくむっとした顔をする。
(ふーん。それは嫌なんだ)
しばらく地面を見つめた後、ルーシュは小さい声で呟いた。
「別にやってもいいけど……練習」
「ほらほら、そこは『教えてください、先生』だろ?」
笑いながら頭をくしゃくしゃと撫でると、ルーシュは頬を赤らめながらも小さく「お願いします」と呟いた。
まあ、箒相手に形だけ教えただけだったし、ちゃんと踊れるようになったかは知らないけど。自分だってその手のレッスンはサボってばかりだったししょうがない。
そういえば、一緒に遭難しかけたこともあったな。
ある雪の日。山の麓の家に使いに出されたとき、ふと思い立って声をかけた。
「ルーシュ! 暇なら一緒に来い」
「いま授業が終わったところなんだけど」
明らかに嫌そうな顔をする。それが妙に可笑しくて。
「じゃあちょうどいいじゃないか」
そう言って半ば無理やり連れ出す。
「うわー、結構積もってて歩きづらい」
「おまえ、この村で育ったんだろ? 甘っちょろいなぁ」
ジトっと睨まれると、指を突きつけられた。
「装備が違いすぎる! 僕は授業受ける格好しかしてないのに、エミールはブーツ履いて外套きて手袋までしてるじゃないか!」
「子供は風の子だろ?」
「せめて、その手袋貸して!」
近寄ってくるルーシュに、代わりに雪玉をぶつける。
ムッとした顔をしたあと、ルーシュは雪玉を作って投げ返してきた。
そのうち夢中になって雪合戦が始まり、気づけば道がわからなくなっていた。
教会に戻ったころにはすっかり日が暮れていて、ルーシュを遅くまで連れまわしたことをグランツ司祭にこっぴどく叱られたっけ。今思い出しても苦笑いしてしまう。
(……けれど)
歯車とにらめっこするルーシュの横顔に、ふと思う。
(心を閉ざしていたあの少年が、こうやってたくさんの人の気持ちを受け止めて導くようになるなんてな)
「ま、俺のおかげかな」
冗談めかして呟くと、すかさずルーシュが顔を上げて首をかしげる。
「何の話?」
「いや、こっちの話」
軽く肩をすくめ、ルーシュの肩をぽんぽんと叩いた。
「そんなにこん詰めるな。おまえはちゃんと成長してる。歯車なんかよりずっと複雑な人の心を動かしてきたじゃないか。大丈夫。歯車は嘘をつかない」
そう告げて、くしゃっと笑うと部屋を後にした。
***
翌日、教会の塔では朝の鐘が七度、谷に響き渡った。
鐘の音を背に、ルーシュは再び教会裏の工房にいた。机の上には、昨日分解して失敗した懐中時計。細かい歯車、バネ、ネジ。ひとつひとつを、今日はあえて急がず、時の流れに耳を澄ませるように触れていった。
(時計は、時を刻むだけじゃない。僕は、今までそれを「直すもの」としか見ていなかった。)
エミールの言葉が、心の奥に響いていた。
『歯車なんかより複雑な人の心を動かしてきたじゃないか』
そうだ。
沼の青い炎も、大木の倒壊も、迷信や不安も、誰かのために自分は動いてきた。
(なら、歯車だって、動かせるはずだ。)
指先に意識を集中し、一枚ずつ、歯車をはめ込む。順番を確かめ、ズレを許さず、しかし焦らず、慎重に。
やがて、最後の部品を収めたとき――
カチリ。
時計の心臓部が、小さく鳴った。振り子が動き、秒針が、一度だけ静かに前へ進む。
「……できた。」
思わず、ルーシュは微笑んだ。
その日の午後、工房に顔を出したルドルフは、机の上に整えられた懐中時計を見ると、口元だけで小さく笑った。
「やっと、動かせたか」
「はい」
ルーシュは、照れくさそうに頭をかく。
ルドルフは、完成した時計を手に取り、ゆっくりと蓋を閉じる。
「忘れるな。歯車は嘘をつかない。だが、それを動かすのは、人の手と心だ。昨日の失敗も、今日の成功も、お前の中にあったものだ」
その言葉に、ルーシュは静かに頷いた。




