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第三十九話 開かれた扉、閉ざされた決断

 ルーシュは明かりを灯すのも忘れ、静かに椅子に座っていた。どうやって帰ってきたのだろう。気づいたら自室の机の前に腰掛けていた。

 左手の人差し指を眺める。そこにはまだ、先ほど自分で切った小さな傷跡が残っていた。この傷が、大きな現実を突きつけてくる。

 ──レオント家の末裔ではないか。

 そのことは琥珀のペンダントがあの振り子時計にぴたりとハマった瞬間から、何となく自覚はしていた。だが、今思えば、どこか他人事だったような気もする。しかし今、祈灰の青白い光を目の当たりにしたことで、ようやく、逃れようのない事実として自分の胸に落ちた。

 ルーシュはゆっくりと息を吐き、立ち上がると、机の燭台に火を灯した。ふっと生まれた橙色の炎が、彼の横顔を揺らしながら照らす。明るさは心許なく、部屋の隅には深い影が残ったままだ。

 炎は静かに揺れていた。まるで、揺れ動く心の奥底を映すように。

 ルーシュは『時告げ歯車』の概要書を机の上に広げた。ずっと気がかりだった装置の操作に関する項目。

 そこには、『50ml以上の血液を受容皿に投入する』と書かれていた。

 ──血液を起動媒体にする。

 ただそれだけでも、今までのどんな装置とも一線を画していた。だが、その血は誰のものでもいいのか、という疑問が拭えずにいた。

 注釈には、こう記されていた。

・鉄イオン濃度:190μg/dL以上

・pH値   :7.35〜7.45

・導電抵抗:1.0〜2.0S/m

・粘度:3.0〜4.5cP(37℃)


 ルーシュはこの数値について、医学に明るい司祭に聞きに行っていた。彼が言うに、数値的には血液が最も当てはまるが、血液にしては、鉄の濃度が高すぎる、とのことだった。だから、この数値に、別の意図が含まれているのではないかと、考えを巡らせていた。

 まさか、こんな展開で解明されるとは。要は、この装置は、レオント家の血液で動く、ということである。答えが出されてみると、何とも単純な結果である。

 ルーシュは、いつだったか、エミールが祈灰について説明してくれたことを思い出す。

『祈灰はルミノールを使っているから、鉄イオンに反応して青白く光る。でも、この光は『聖なる反応』と呼ばれていて、一信徒の血程度じゃ反応しないように、反応閾値が調整されている』

 ──聖なる反応。

 ヴェルツ正教はどんな気持ちで、この灰を祈灰なんて呼んだのだろう。レオント家の血にしか反応しない灰。


「まるで、炙り出しじゃないか……」


 そこに明らかに存在する悪意にルーシュは身震いする。


「そんなに憎んでいたのか……」


 ルーシュは椅子の上で膝を抱えた。


「生きる意味……」


 レオンハルトの言葉が蘇る。自分が生まれる十年以上前に起きた革命。どこか遠くの歴史の話のように感じていた。でも、彼……彼らにとっては一生忘れられない出来事。あの時からずっと悔やみ、自分自身を責め続けている。

 ルーシュは顔を伏せ、目を閉じた。

 教会で育ったルーシュにとって、ヴェルツ正教は生活そのものだった。日々を過ごす中で、教義を学び、体験し、祈って過ごしてきた。しかし、蓋を開けてみると、自分は恨まれ、命を狙われる存在でしかなかった。

 時を戻す。それが正しくない行為であることは、理屈では理解できる。だが、彼らは、ただ純粋に祖父の時代を求めている。もっと楽に生きる方法はいくらでもあっただろう。祖父はもうこの世にいない。命の危険を冒してまで、忠義を全うする必要なんかなかったはず。

 目を閉じると、すぐにレオンハルトの熱の籠った言葉が、哀願な眼差しが思い返される。情熱と哀しみの詰まったあの声が、耳の奥に焼きついて離れない。


「……やめてくれ」


 ポツリとこぼれた言葉とともに、頬を一筋、雫が流れた。


***


 アウグストは朝早くから馬車に揺られていた。行き先はいつもと同じく王立神学校の教員寮。

 今朝、朝一番であまり喜ばしくない報告を受けたのである。

 ──アウグスト様。昨晩、ルーシュ殿が何者かと密会されておりました。

 馬車の窓から流れる街の景色を眺めながら、アウグストは重く息を吐いた。

 国王に真っ向から進言して以降、アウグストはロイエンタール臣下にルーシュの監視をさせていた。別にルーシュを疑っていたわけではないが、陛下の懸念はおそらくレオント家遺臣の動き。であれば、ルーシュを監視することで、その影を辿れるかもしれない、という考えの元だった。だがしかし、本当に接触してくるとは──。

 会話が聞き取れるほど近づくことはできなかったらしいが、相手は最後、ルーシュに対して明らかな臣従礼を取ったという。ルーシュにそれをする者など、レオント家の遺臣以外に考えられない。

 力尽くで連れ去るような連中ではなかったことだけは、せめてもの救いか──。

 アウグストはいつも通り、できるだけ普段と変わらないように、ルーシュの部屋の扉をノックした。だが、反応がない。


(まさか、すでに遺臣のところに……?)


 アウグストはサッと血の気が引くのがわかった。彼がそんな軽率な判断を下すとは思えない。しかし、今まで孤児として小さな村で育ってきた彼が、突然、主君として持ち上げられ、忠誠を誓われたら?命懸けの彼らに協力を仰がれたら?戸惑いも、揺らぎも当然だ。

 アウグストにはわからなかった。生まれた時から忠臣に囲まれ、それが当たり前と育った自分には、その心の揺れを想像することさえできなかった。

 アウグストは拳を握り、もう一度強く扉を叩いた。


「ルーシュ!いないのか!」


 何度か叩くと、部屋の中から微かな気配を感じた。アウグストが一歩下がって待っていると、ゆっくりと扉が開かれた。


「……どうした?アウグスト」


 眠そうに目を擦ったルーシュが扉を開けた。顔色もあまり良くない。


「体調、悪いのか?」

「……大丈夫。昨日、あまり眠れなくて」

「……そうか」


「散らかっててもいいのなら」とルーシュは部屋の中に案内してくれた。

 部屋の中は普段のルーシュでは考えられないくらい散らかっていた。アウグストは、ひとまず、床に散らばった書籍を棚に戻す。


「……悪い」


 ルーシュが椅子に腰を下ろし呟く。アウグストは努めて冷静に言葉を発した。


「いや、いいけど……どうした?」


 ルーシュは床に目線を向けたまま、ただ口を固く結んだだけだった。


「……言いたくないんなら、いいんだ。話したくなったら、話してくれ」


 アウグストはそのまま無言で床に散らばった物を片付けた。ルーシュがレオント家遺臣に何を言われたかはわからない。けれど、冷静に受け止められないほどのことだったのだろう。友人としては、話してくれないのは少し寂しいが、本人の顔も、まだ整理しきれていないと言っている。今、問い詰めたとて、無意味だろう。

 大方、部屋が片付きアウグストは立ち上がった。


「今日は、もう帰るな」


 その言葉に、ルーシュはやっと顔を上げた。


「……前に話してたことがわかったよ」


 ルーシュは『時告げ歯車』の概要書を差し出した。


「ここの注釈、鉄の濃度が高すぎるって言ってたやつ。あれ、どうやらレオント家の血の特徴らしい」

(……つまり、この装置はレオント家の血液で動くってこと……?)


 アウグストは反射的にルーシュに詰め寄っていた。


「おまえ……この装置を起動してほしいって言われたのか?」


 口にして気づいた。秘密裏に監視していたのに、これを言ったらまずいだろ。だが、今更、撤回するわけにもいかない。ルーシュの反応を伺いつつ、回答を待っていると、予想外にルーシュは軽く息を吐いて笑った。


「相変わらず、察しがいいな……そう。昨日、レオント家遺臣の人が会いにきたんだよ。時告げ歯車を動かしてほしい、とは言われなかったけど、祖父の時をやり直したいって」


 ルーシュは目を合わさず答えた。瞳が微かに揺れているのが見て取れた。


「……断ったんだろ?」


 声が少し上擦ってしまった。ルーシュは一度こちらを見てから、目を伏せゆっくりと首を振った。


「……どうして」

「……わからなくて。何が正解か……人生の一部だった正教はずっと僕のことを見つけ出して殺したかった。レオント家遺臣は、命懸けで僕を探し出して、レオント家の復興を願う……客観的な正解はわかる……ただ、決断ができない。命懸けで僕に会いにきた彼らに、『諦めろ』とは言えない」


 最後は泣くのを耐えているような、絞り出した声だった。一晩中考えて、決断できなかったのだろう。

 正教がルーシュの命を狙っていたのは確かだ。王胤抹殺令自体、ヴェルツ正教側から提示されたものだと聞いたことがある。

 その時、アウグストはハッとした。

 王胤抹殺令を提案したのはヴェルツ正教であったとしても、クロイツ家がそれを拙速に承認するとは思えない。それにクロイツ家は、元々レオント家とは友好的だった。だからこそ、失望も大きかった、ということもあり得るが、だからと言って、国王と王太子を処刑したうえで、他の血族も根絶やしにするような法令をわざわざ制定するだろうか。

 ──クロイツ家も、このレオント家の血で動く『時告げ歯車』の存在を知っていたのではないか?

 だから、この装置を動かされることを危惧した。思わず鳥肌が立った。だから、陛下はルーシュにヴェルツ正教の装置を見せたのか。遺臣の不審な動きも泳がせて、尻尾を掴みたい。つまり──


(陛下は、例の装置の隠し場所を知らない)


 アウグストはルーシュの手を思いっ切り掴んだ。突然の動きに、ルーシュは目を見開いて、顔を上げた。


「こちらが優位に運べるかも知れない」


 この瞳の奥に、わずかな光が宿っているのを、アウグストは見逃さなかった。

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