第十一話 歯車は嘘をつかない1
夏の終わり、秋の気配が村の空気に混ざりはじめた頃。
グリュンヴァルト村の広場に立つ教会の鐘楼は、朝から微かな軋み音を立てていた。
塔の最上部に据えられた大時計。その長針と短針は、今日も正確に村の時を刻み続けている――はずだった。
「……また少し遅れてるな」
塔の下で、教会の時計技師であるルドルフ・アイゼンベルクが呟いた。
五十代半ば、無骨な手と落ち着いた声の持ち主。
かつて王都の神学校で学び、教会認定の時計技師として、長年この村の「時」を守り続けている男。
ルーシュにとっては師であり、父のような存在だった。
「ルーシュ。今日はお前にこの塔時計の整備を任せる」
ルドルフは振り返りながら、背後に立つ少年に視線を向ける。
ルーシュは少し緊張した面持ちで、だがはっきりと頷いた。
「はい」
彼はすでに教会の小時計や、聖堂の振り子時計の調整は任されるようになっていたが、塔時計は別格だった。
村人たちは、この鐘の音に起き、働き、祈り、眠る。
時を神聖視するヴェルツ正教の教えのもと、この時計がずれることは、村全体の生活の調和が乱れることを意味する。
ルーシュは覚悟を決め、塔を登る。
錆びついた鉄扉を開くと、歯車と鎖の複雑な絡み合う機械仕掛けが現れた。
小型の懐中時計とはまるで違う。
それぞれの歯車は片手でようやく持てるほどの大きさがあり、複数の重い振り子が歯車のリズムを刻む。時間を正確に分けるガンギ車のわずかな摩耗や、錘のチェーンの絡まりが、全体の遅延を引き起こすのだ。
「いいか、ルーシュ」
ルドルフは重たい工具箱を床に下ろしながら言う。
「時計は、人の目をごまかすことはない。一つでも歯車が欠ければ、時間は狂う。油が切れれば、止まる。歯車は嘘をつかない」
「はい」
ルーシュは息を整え、工具を手に取った。
チェーンの張り具合を確認し、重い錘を持ち上げて吊るし直す。
支点の摩擦が少し高まっているのを感じ、慎重に潤滑油を差す。油のしみこむ音が微かに響き、歯車がわずかに振動した。
さらに、制御機構である扇型調速器を調べ、金属疲労の兆しを探る。
振り子の調律は、わずかな偏りでも時間に影響する。ルーシュは耳を澄まし、振り子が放つ規則正しい音を聴いた。
彼の指は迷いなく動いていた。だが、動きの確かさとは裏腹に、その胸の奥には緊張が渦巻いている。
ルドルフはその様子をじっと見つめていた。
(手先は器用だ。理屈も、呑み込みも早い)
けれど、それだけでは足りない。
ルドルフの目が静かに光る。
歯車は、人の目をごまかさない。だが、それは作り手にもまた厳しい誠実さを要求する。
作業を終え、塔を降りると、陽はすでに傾きかけていた。
ルドルフは、ふとルーシュの肩に手を置いた。
「お前は、もう整備はできる。だが――」
そこで言葉を区切る。
「まだ、時計を作る手ではない」
ルーシュは、少し驚いたように彼を見た。
「どういう意味ですか?」
「いずれ分かるさ」
ルドルフはそう言い残し、教会の裏手にある工房へと戻っていった。
***
その夜、ルーシュは自室で、小さな懐中時計の分解と組み立てに取りかかっていた。
ルドルフから託された課題だった。『これを分解し、元通りに戻してみろ』と。
蝋燭の明かりがゆらゆらと揺れる中、ルーシュは慎重にケースを開け、内部の構造を露わにする。
極細のネジを緩めると、歯車やガンギ車、ヒゲゼンマイの絡み合いが静かにほどけていく。
歯車そのものは指先で驚くほど簡単に外れた。
小さな歯車一つ一つに、微細な刻印が浮かび、ルーシュはそれらを並べては確認しながら、机の上に丁寧に並べていく。
問題は――戻すときだった。
(よし、順番どおりに組み立てれば……)
そう考えて歯車をはめ込み、ゼンマイを巻き直す。だが――
わずかに噛み合わせが固い。振り子機構の代わりを担うテンプが、思うように弾まない。
(あれ……)
分解する前はたしかに滑らかに動いていた。なのに、歯車が一巡しても、伝達されるはずの力が途中で途切れる。
ゼンマイの張力が弱まっているのか。いや、固定ネジの締め込みすぎか。
もう一度すべてを外し、組み直す。今度は力の伝わり方に注意しながら慎重に進めた。
だが結果は変わらない。秒針が動き出したかと思えば、途中で息を詰まらせたように止まる。
(なぜだ……)
ただ順番に組めばよいと思っていた。
だが、時計の心臓部たるヒゲゼンマイの微妙な角度。テンプのわずかな歪み。歯車の軸が斜めにかすかにズレていること――そのどれもが、この精密な小宇宙では命取りだった。
(さっきまでは、正しく動いていたのに……)
指先にかすかに汗が滲む。
気づけば、脳裏に師の声が響いていた。
『歯車は嘘をつかない』
そうだ。歯車は決して嘘をつかない。
狂うのは、組み上げる側の手だ。
(僕の手が……足りないんだ)
ルーシュは歯車の噛み合わせを繰り返し見つめた。ほんの針先ほどの歪みが、やがて時を狂わせる。小さな狂いが積み重なり、全体を沈黙させる。
蝋燭の灯が翳り、時計の針は沈黙したまま時を刻まない。
やがてルーシュは、力なく机に伏せた。
「……僕には、まだ無理なのかもしれない」
呟きは溶けるように夜の静寂へと吸い込まれた。




