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第三十八話 静かなる臣の夜

 とうに日が沈んだ頃。ガス灯が並ぶ街道から逸れた小道を進むと行き着く小さな教会に男は立っていた。教会には頼りなさげなオイルランプが数個設置されているのみで、すぐにでも闇に飲み込まれそうな雰囲気を醸し出していた。

 先日、例の永久磁石の工房で彼がレオントの血を引く者と確信し、手紙で呼び出したのである。来てくれるかどうかは、正直自信がない。今まで、自分の出自に一切疑問を抱いたことがなければ、あんな手紙は恐怖でしかないだろう。

 だが、探究心と正義感が強いと言う彼だからこそ、来てくれるのではないか、と思わずにはいられない。

 レオント家は『光』のようだと皆が言う。ただ髪の色を言っているのではない。眩しくて真っ直ぐで、皆を一様に照らしてくれる。だからこそ、長い間、民を、貴族たちを導く光たらしめた。彼もそうなのではないか、そう感じざる得なかった。

 どれだけ待っただろうか。

 レオンハルトは懐から琥珀の埋め込まれた懐中時計を取り出した。父であるウルリヒ・エーベルトから渡されたものである。レオント家の紋章が刻まれたこれは、レオンハルトの心の支えだった。

 革命時、まだ赤子だったレオンハルトは、正直レオント家のことをよく知らない。生まれたときから、レオント家への忠義は教え込まれた。しかし、当時の絶望感ややるせなさが想像の域を超えることは決してない。だから、心に刻み込むだけでなく、常に心の近くにこの紋章を置く。

 時計を見る限り、まだ予定の時刻から三十分しか経っていなかった。突然呼び出したのだ。定刻に来れない事情もあるだろう。自分の心が思いの外焦っていることに気づく。

 レオンハルトは、一息ついて空を見上げた。広いキャンバスに広がる満天の星。人間がどれだけ争おうが変わらない。我々の行動を意に介さないように。嘲笑うように。


「高みの見物か……」


 万物は時における歯車でしかない、なんてよく言ったもんだ。確かに、我々人間の行いなんて、この世の些細な出来事でしかないのかもしれない。だが、大義がある。簡単に折れるわけにはいけない矜持がある。それが、たとえ歯車の一部なのだとしても。

 その時、背後から足音がして振り返る。

 遠くてまだ朧げにしか見えないが、ゆっくりとその足音が近づいてくる。そして、オイルランプの近くで足を止めた。


「……あなたが、レオンハルト・エーベルトさん……ですか?」


 少し不安げな顔を浮かべた青年がゆっくりと尋ねた。

 レオンハルトは、期待していたはずなのに、来てくれたことに驚き、一瞬言葉を失った。しかし、すぐに姿勢を正し、深く丁寧に頭を下げた。


「ルーシュ殿。ご足労いただき誠に感謝申し上げます」


 顔を上げた先の青年の表情を観察する。少し不安そうに眉を下げているが、口を固く結び覚悟を決めているように見える。


(自分の出自は知っている、か……?)

「レオント家の唯一の末裔であるあなたに、直接、お伝えしたいことがあります」


 ルーシュは頷きも口も開かずその場に留まっていた。レオンハルトは先を促されたと判断し続ける。


「私……我々、レオント家忠臣が望んでいるのは、かつて陛下が築かれた時代の復興です」


 ルーシュの眉が微かに動いた。


「我々は古くから代々、レオント家に仕えてきました。陛下をお慕いし、身命を賭してお支えし、共に歩んできました」


 レオンハルトは話しながらルーシュの顔を窺う。彼のことを無理矢理連れ去るようなことはしたくない。できれば、納得して、最悪同情を買ってでもこちら側についてくれれば。


「我々は陛下の肩書きに仕えたのではありません。レオントの『光』に魅せられたのです。陛下に忠を尽くすことは、ただの家訓や誇りではない。『生きる意味』そのものなのです」


 ルーシュは真っ直ぐこちらを見つめていた。恐れも憐みもなく、ただこの繰り出される言葉をそのまま受け止めていた。レオンハルトはそのまま吐き出そうと決めた。


「ご想像の通り、私は革命時まだ赤子で、直接レオント家にお仕えしたことはありません。ですが、ずっと父の背を見て育ちました。うちに秘められた、枯れることのない陛下への忠義。それを名乗ることのできない葛藤。陛下をお守りできなかった後悔。父は……彼らはずっと自分自身を許せないでいるのです。クロイツ家やヴェルツ正教を恨んだこともありました。ですが、一番恨むべきは自分自身なのです。陛下と共に戦えなかった我々自身なのです」


 レオンハルトは乱れた息を整えるため、一度大きく息を吸い込んだ。そして、落ち着いた声で続けた。


「あの日から我らの時は止まったままなのです。ただその時をやり直したい。ただ、陛下と共にありたい。それだけなのです」


 レオンハルトは口を塞ぎ、ルーシュを真っ直ぐ見つめた。暗がりに沈黙の鐘が降りる。

 ここまで言葉を発しなかったルーシュが、徐に口を開いた。


「……なぜ、私がレオント家の末裔と?」


 不安げなルーシュの顔に、レオンハルトは静かに頷いた。そうか、彼は疑念を持つも、決定的な証拠のことを知らなかったのか。それは仕方がない。レオント家の忠臣でも限られたものしか知らない。

 レオンハルトはゆっくりとルーシュに近づき、懐から小瓶を取り出した。


「血が、教えてくれたのですよ」


 いまだ疑念の表現のルーシュの前に粉の入ったその小瓶を差し出した。


「君の血を、ここに垂らしていただけますか?」

「……血」


 ルーシュは小瓶を少し見つめた後、懐からポケットナイフを取り出し、指先を切った。傷口にはすぐ血が滲み、徐々に滴を形成していく。そして、静かに落下した途端──青白い光を放った。

 ルーシュは驚いて目を見開いた。


「……これは、祈灰……ですよね?」

「そうですね。今は、そう呼ばれています」


 レオンハルトは、弱まっていく青白い光を名残惜しそうに見つめてから、小瓶を懐にしまった。


「この灰は、もともと、レオント家の正統な後継を見極めるために使われていました。レオント家は代々、血中の鉄濃度が高かったため、それを利用してこのような灰を開発したんです。ですから、君の血が、紛れもなくレオント家の末裔だと言うことを物語っているのです」


 ルーシュの瞳が揺れ、喉が鳴った。無理もない。突然突きつけられる現実としては、これほど大きなものもないだろう。


「君にとっては、突然のことで受け入れられないかもしれません……ですが、我々は三十年間耐えてきた。自由を奪われ、名を奪われ、主君を奪われ、生きる意味を奪われたこの世界を。……決して強制は致しません。……ですが、願わくば、陛下の御血を引く者として、時を、我らの時代を、もう一度歩んでいただきたく」


 レオンハルトは懐から一枚の紙を取り出し、ルーシュに差し出した。ルーシュが手に取るのを確認すると、片膝を付き、深く頭を下げた。それは、国の最高位、国王に向けるための臣従礼。

 ルーシュが逡巡している間にレオンハルトは立ち上がり暗闇の中に姿を消した。


 レオンハルトは、すでに暗闇に呑まれた小道をゆっくりと歩く。


「伝えたいことは伝えた。後は、時の流れに身を任せるのみ」


 口にしてすぐ、その皮肉さに口を緩めた。

 少し涼しくなってきた風が、季節の変わり目を伝えているようだった。

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