第三十七話 地図になき道
ルーシュは朝から例の図面を一つずつ眺めていた。全体的に不可思議ではあるが、特に気になる記載は二つ。
一つ目は注釈の一つ──
・鉄イオン濃度:190μg/dL以上
・pH値 :7.35〜7.45
・導電抵抗:1.0〜2.0S/m
・粘度:3.0〜4.5cP(37℃)
もう一つは図面品番──『DT-A9b-AE01』
「これって旧式だよな」
ヴェルツ正教では、図面番号の振り方が明確に規定されている。分野コードや用途分類、モジュール番号などを、規定の表から順に選択していく。誰が設計しようが、必ず同じ品番になる。
しかし、ヴェルツ正教が国教になる前は異なる。西国の図面番号の振り方をそのまま踏襲しており、何となく分野を含めつつも、設計者の自由に委ねられていた。
ルーシュは久しぶりに懐かしい記憶を思い起こした。あれは、王立神学校に進むと決めて、エルザの懐中時計を作っていたとき──
***
「ルーシュ。何作ってるんだ?」
教会の工房に引き籠るルーシュをルドルフ時計技師が見にきた。ルーシュは、何だか恥ずかしくて咄嗟に手元を隠した。
ルドルフは何かを察したのか、工房の棚から羊皮紙を取り出し、ルーシュに差し出した。
「時計作るなら、ちゃんと図面起こしてからやりな。適当に作って、ちゃんと動くと思ったら大間違いだぞ。この図面、参考にしていいから」
ルーシュがその紙を開くと、琥珀が埋め込まれた、ルドルフらしい温かい懐中時計が描かれていた。
「それ、結局、最後まで作れなかったんだけどな」
「そうなんですか?」
「途中まで作ったんだけど、教会で出会った子供にあげたんだよ。その子が完成させてるといいんだけどな」
ルドルフは懐かしそうに笑った。ルーシュは隅に描かれた数字をなぞった。そこには『RD-MP-R01』と書かれていた。
「これってどういう意味ですか?」
「ああ。旧式の図面番号だよ。今は細かく番号の振り方が決まってるけど、昔は割と自由でね」
そういうと、ルドルフは番号の意味を少し照れ臭そうに教えてくれた──RD: Rudolf Design、MP: montre de poche(懐中時計)、R01: Rシリーズ1番。
「フランス語なんですね?」
「ああ、元々西国で使われていたものだからな。まあ、品番はいいとして、やるならちゃんと設計しろよ。わからないところは、いつでも聞いていいから」
「ありがとうございます」
そう言いつつ、初めて自分の番号を作れるワクワク感に魅了された。試行錯誤しつつ作った図面には『R.MP-EL01-X』と番号を振った。
***
「今考えると、恥ずかしすぎるな……ELって入れるなんて」
自分で思い返して頭を抱えた。
(しかし、『DT-A9b-AE01』ってどういう意味だろ?)
「フランス語ならアウグストに聞いた方が早いか……」
貴族にとって社交ツールである語学学習は必須である。いくら次男でもアウグストが教育されていないはずがない。
ちょっと休憩でもするか、とお湯を沸かし始めたとき──
トントン。部屋をノックする音がした。いつも通りに扉を開けると、少し蒸気したアウグストの姿があった。ルーシュが開けた扉を自ら引き、急いで中に入ってくる。
「どうした?」
アウグストは勧められる間もなくいつもの椅子に腰掛ける。
「ちょっと、興味深いものが見つかった」
アウグストは手にしていた革の袋から羊皮紙の束を取り出した。
「なんだそれ?」
「運輸記録。まだ全部は確認できてないんだけど」
「運輸記録?」
アウグストは机の上にその束を並べ始める。
「そう。何かないかと思って昔の資料を調べてたらビンゴ。革命の前にレオント家の王太子から依頼された記録があった」
ルーシュも覗き込む。そこには『軍備運搬依頼書』と記入してあった。
「軍備の運搬を通常はうちに頼まない。王家だって貨物船や荷馬車を持ってるし、うちが他領の国境沿いまで入り込むのは、あまり褒められたことじゃない」
「……じゃあ、なんで?」
「王家にこの記録を残したくなかったんだろ?それを察してか、ほらこれ」
アウグストが紙を一枚持ち上げた。
「運搬料を何倍も吹っ掛けてる。何か裏があると読んだんだろうな。祖父上の時代だけど、恐ろしいほどうちの血筋を感じる」
アウグストが呆れた表現をつくる。
「信用があったってことだろ?」
「お金の分は仕事するってこと」
ルーシュはアウグストを宥めつつ続ける。
「で、ロイエンタールに頼んだことが興味深いってこと?さっき国境沿いって言ってたけど」
アウグストは真剣な顔に戻り、先ほどの依頼書を指差した。
「これ、隣国の内戦に備えて国境沿いに軍備倉庫を配置するってことが目的なんだけど」
「当時、隣国で内戦なんてあったの?」
「さあ?生まれる前の話だからなぁ。まあ、よくある話ではある。それより」
アウグストが指差したところにはこのように記載されていた。
『倉庫には、すぐに使える自然生成された洞窟や鍾乳洞を使用する』
「自然発生の洞窟なら地図にも載ってない可能性が高いから見つかる確率も低い。何かを隠すならもってこいだな」
「だろ?もちろん軍備倉庫だって隠す必要があるものだけど」
「他の資料も見てみよう」
アウグストは紙の束をルーシュに差し出し、手分けして確認していく。
やがて、ある一覧表でルーシュの手が止まった。
「これ……洞窟の調査と輸送実績をまとめた一覧だ」
「見せて」
二人で覗き込むその表には、いくつかの調査済み洞窟と、実際に運び込まれた物資の詳細が記されていた。
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【調査記録抜粋】
•《エーレンバッハ村北部山林内洞窟》
広さ:約150㎡/構造安定性:試験合格
輸送完了:第一便(火薬80kg、銃弾10箱、剣20本、槍15本、乾パン、水樽、薪)
•《リヒテンベルク村南西部鍾乳洞》
広さ:約200㎡/構造安定性:試験合格
輸送完了:第一便(火薬120kg、銃弾15箱、剣30本、槍20本、保存糧食、水筒、松明)
•《グリュンヴァルト村西部山林内鍾乳洞》
広さ:約160㎡/構造安定性:試験合格
輸送完了:未確認(備考なし)
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「ちゃんと戦闘物資が送られてるな。火薬に弾薬、兵站物資も」
アウグストが呟く。だが、その目が表の下段で止まり、すぐに顔を上げる。
「……ん?『グリュンヴァルト村』って、おまえの村だよな?」
ルーシュは静かに頷いた。
「西部山林ってことは……『迷いの森』のあたりだ」
「そこだけ、輸送記録が空白になってるな」
アウグストの声が低くなる。ルーシュは黙って頷き、視線を落としたまま言った。
「『迷いの森』は……昔から言われてる。『入れば、二度と出られなくなる』って。だから村人は誰も近づかない。……でも、もし何かを隠すなら、これほど適した場所もないかもしれない……」
アウグストは表を見つめたまま頷いた。
「輸送完了してるってことは、馬車は走ったはず。こっちの請求書にも載ってるし。でも、何を運んだかは不明……」
ルーシュは静かに目を閉じる。木漏れ日、湿った土、草のざわめき。そして、幼いころに感じた得体の知れない恐怖──。
「……また、あの村に戻るのか」
その声は懐かしさと、静かな決意を帯びていた。




