第三十二話 模造の歯車
アウグストは、窓から差し込む月明かりに照らされながら、足音の響く重厚な廊下を歩いていた。
もう何度ここに足を運んだだろうか。宮廷に仕える貴族たちに会わぬよう、わざわざ政務が終わった時刻に影のように訪れる。
「まあ、まさに影ではあるんだけどね……」
しかし、ラインベルク家から見つかった、例の装置の設計図。これを陛下に報告すべきか──。報告すべきであることは理解している。だが、それは彼らからの信用をなくすことを意味する。
そして、頭を悩ませているのがもう一つ。ルーシュから頼まれた、ヴェルツ正教が開発していた装置を見せてほしい、という依頼。
(あいつの目──俺と国王に繋がりがあることを察してるのか……)
アウグストは立ち止まり、窓から外を眺めた。結論が出なくても時は迫る。
「……アウグスト様、そろそろ」
聞き慣れた声に覚悟を決め振り向く。
(俺は陛下の忠臣ではない……であれば、ただ従順な駒である必要はない)
今回は迷いなく王家の紋章を見つめ、執務室の扉に手をかけた。
フリードリヒ国王は椅子に腰をかけ、机に頬杖をついた状態で来訪者に視線を送った。アウグストは一礼し、机の前まで足を進める。そして、意を決して口を開こうとしたとき──
「アウグスト、おまえはもう、ここに来なくていい。私の命は撤回する」
フリードリヒの声が部屋に響いた。アウグストは、耳を疑い、開きかけた口を閉じるのも忘れて固まった。
(……撤回?今更?)
「……理由をお聞きしても?」
アウグストは掠れる声をなんとか絞り出した。
「それを告げる義理はないな。これは私が決めたことだ。おまえは、ただ従えばいい」
フリードリヒの声は抑揚なく、ただ事実を述べるかのように発せられた。
(今更、ロイエンタールの存在が邪魔になったか?……それとも、兄上が何かしたか……?どちらにせよ、ここで引き下がったら、ただの操り人形じゃないか……)
アウグストは手を握りしめる。
「……では、レオント家末裔の彼を放っておくのですか?それとも、今から代役を立てるおつもりですか?」
フリードリヒは、答える気がないことを示すように、冷たい目線を向ける。
「他の臣下を使うより、友人の地位を築いた私を活用しない手はないかと。まさか、国王陛下ともあろう御方が、我がロイエンタール如きを危惧しておられるなんてことはないでしょうし」
フリードリヒの口元が微かに緩んだ。
「私を彼の友人として、今まで通り側に置いていただければ、必ず、陛下のお望みを全ういたしましょう」
言い切った。アウグストは真っ直ぐフリードリヒの目を見つめる。賢明な陛下がこんな見え透いた煽り文句に乗ってくるかどうかは定かではない。だが、ルーシュの監視を置き続けるつもりならば、代役を立てるよりアウグストをそのまま利用する方が有益であることは確かである。
フリードリヒは、軽く一息吐いて「まあ、よいか」と小さく呟いてからアウグストに目を向けた。
「では、報告は抜かりなく」
「かしこまりました」
アウグストは深く頭を下げた後、例の件を切り出した。
「一つ、お願い申し上げたいことがございます」
***
「それにしても、よく許可でたな?」
ルーシュとアウグストは、国が管理する研究施設を訪れていた。先日、国王に依頼した『時告げ歯車』の見学に許可が出たのである。
「いや、俺も驚いてる。まさか、許可されるとは思わなかった」
実際、大した報告も上げていないのに、禁忌の装置を見せてもらえるとは思わなかった。
(……この装置を俺たちに見せることで、国王に何の得があるのか……)
アウグストが下を向き思案していると、視界を遮られた。ルーシュが例の羊皮紙をアウグストの顔の前に差し出したのである。
「おい、これ持ってくるなよ」
「ちゃんと隠しとくよ。それより、この振り子さ、テンペル=クラウスの比率使ってるだろ?同期信号仮説によると、これらを共鳴点に合わせられれば、『時間的中立状態』に入れるってことだと思うんだけど」
嬉々として話すルーシュをアウグストは呆れた顔で見る。
「……とても魅力的だけど、その話は後でいいか?」
「絶対乗ってくると思ったのに」
ルーシュは残念そうに、手にしている羊皮紙をしまった。
二人が進むと、ロビーに見た顔があった。現在、国王直属の倫理委員会で長を務めるユリウス司祭だった。
「お二人とも、お久しぶりです」
「お久しぶりです」
「お元気そうで何よりです」
ユリウス司祭は優しく微笑むと、「さあ、行きましょう」と振り返り歩き出した。
薄暗く重厚な廊下をユリウス司祭の後に続いて進む。薄暗くてよく見えないうえに、簡単に到達できないよう、迷路のように曲がりくねっていた。一人で入ったら出口に辿り着けないだろう。アウグストはそんなことを想像して身震いした。
しばらく歩くと、背の高い重厚な扉に行きついた。
「こちらです」
ユリウス司祭は、そう一言発して扉を開いた。
扉を潜った二人は、文字通り言葉を失った。今まで見たことのない巨大な歯車装置。表面は古びた真鍮で覆われ、まるで長い年月を経た神殿の柱のように鈍く光を反射している。歯車と軸が螺旋状に組まれており、中央には緩やかに振れる振り子が不気味な時を刻んでいた。
「これが……」
促されるまま二人はゆっくりと、その装置に歩み寄った。
パッと見た形は、あの図面によく似ている。だが──アウグストはチラリとルーシュを見た。ルーシュもこちらを見て、ゆっくり頷いた。
(やはり、あの図面とは違うものか……)
「あの、この装置の図面は残っているのですか?」
この問いにユリウス司祭はゆっくりと頭を振った。
「いえ。当人たちも許されざる行為と自覚していたのでしょう。図面の類は一切ありませんでした」
「そうですか」
アウグストはゆっくり目線を装置に戻した。
二人はその後も装置の内部や細かい機構を確認して回った。
ある程度して、ユリウス司祭に満足した旨を伝えると、彼は装置を見上げながら、徐に口を開いた。
「あなた方はヴェルツ正教の成り立ちを教わりましたか?」
ヴェルツ正教の成り立ち──それは、地方の教会学校でも最初に学ぶ内容。
「はい。クロイツ家が亡命してきた科学者集団を救ったところから始まったんですよね?」
ルーシュのその答えにユリウス司祭は少し悲しそうな顔をして頷いた。
「そう。今、この国で伝えられているヴェルツ正教の歴史は、クロイツ家の美談となっていますが……ヴェルツ正教はこの国に来てからも苦しい思いをしたんですよ」
「というと?」
アウグストは、つい聞き返していた。
「クロイツ家は何もただの善意で科学者を助けたわけではない、ということです。研究内容が規制され、兵器ばかり開発させられ、随分悔しい思いをしたと聞いたことがあります」
ユリウス司祭は少し懐かしむように語った。
「今の状況はどうでしょう?歴史は繰り返されますね」
国王直属の倫理委員会。それが研究の是非を決める。つまり、クロイツ家が研究内容を制御しているに他ならない。
沈黙の広がる部屋に、金属の軋む音だけが冷たく響き渡った。




