第十話 言葉にできない贈り物
領主の娘の一日は忙しい。
礼儀作法に始まり、ラテン語やフランス語、文学と歴史に算術。
それだけではない。嫁ぎ先で困らぬよう、家政や手芸、音楽に舞踏。挙げ出したらきりがない。
広大な土地に立つ屋敷で優雅に暮らしているように見えても、実際は息つく間もなく日々が過ぎていく。
――それも、この家に生まれた定め。そう言われれば、返す言葉もない。
今日の午後は、手芸の家庭教師が来る予定だった。
(やなのよね、ああいう細かい作業。ずっと座りっぱなしで退屈だわ)
ふと視線を上げれば、どこまでも澄んだ青空。
その中を、二羽の鳥が翼を広げて高く舞い上がっていく。
(あんなふうに、自由にどこまでも行けたらいいのに)
「こんにちは、エルザお嬢様。今日は刺繍をしますよ。ちなみに、前回の反省を活かして入り口には見張りを立てましたので、悪しからず」
家庭教師は穏やかながら、釘を刺すことを忘れなかった。
母親くらいの年齢の女性で、普段は優しいが抜け目がない。
(うっ……この前サボって抜け出したの、根に持ってる……)
エルザは内心で冷や汗をかきながらも、観念して真面目に取り組むことにした。
「もうそんなことしませんよ。で、今日は何をするんですか?」
「よろしい。今日はこの布に好きな図を刺繍していきましょう。難しいところは私が助けますよ」
「ふーん、大きな布ね」
「ええ。寝具や衣服はもちろん、包帯やサラシにも使えますよ」
その言葉にエルザははっとした。
植樹作業で腕を傷めたルーシュのことが、脳裏に浮かぶ。
「図案は何があるの?」
自然と少し前のめりになる。
「あら、やる気になったみたいね。植物や動物や、他にもほら色々ありますよ」
家庭教師は軽く微笑みながら、図案集を開いて見せる。
「うーん、健康祈願の意味合いがあるものは?」
「それでしたら…」
と家庭教師は図案集のあるページを指差した。
***
太陽が西に傾きかけた頃、エルザは教会の前でそっと中を覗き込んでいた。
「ごきげんよう、お嬢様」
背後から声をかけられて、肩をびくりと跳ねさせる。振り向くと、エミール助祭がしたり顔で立っていた。
エルザは急いで姿勢を正し、つとめて丁寧に挨拶をする。
「あら、エミール助祭様。ごきげんよう」
「残念ながら、ルーシュは今、村にお使い中ですよ」
からかうような微笑みが浮かぶ。
エルザはふっと目を伏せ、手元に視線を落とした。
「……何かご用でしたか?」
エミールが問うと、エルザは少し躊躇しつつも、手に持っていた包みを差し出した。
「これを渡したかっただけ」
「これは……?」
「……サラシ。ルーシュ、この前の作業で怪我してたから」
「なるほど。でも、お嬢様。教会には薬草もサラシもたんまり補充してありますよ?」
わざとらしい言い回しに、エルザはムッとした顔になる。
「知っているわ、そんなこと。これ、渡しておいてください」
そう言うと無理やりエミールの手に包みを押し付け、そのまま小走りで屋敷の方へ戻っていった。
エミールはその後ろ姿を見ながら、からかいすぎたかな、と少し反省し頬をかいた。
「しかし、わざわざこんな上等な布でサラシを作ってくるとは」
と呟いて包みの中の布をそっと開く。
そこには、健康を祈る意味を込めた燕が二羽、空に向かって並んで羽ばたいていた。そっと寄り添うように描かれたその姿は、まるで遥かな空を目指す二つの心のようだった。
周りには四つ葉のクローバーが縫い込まれ、ささやかな幸運を祈る気持ちが込められている。
エミールはため息をつきながら、小さく呟く。
「まったく……罪な男だねぇ」
その声音にはからかい半分、温かな微笑み半分の色が混じっていた。




