第一話 グリュンヴァルト村
カラン、カラン、カラン……。
澄みわたる朝の青空に、鐘の音がくっきりと響き渡る。
朝焼けに染まったオレンジの空を背景に、白いシラコバトの群れがいっせいに飛び立った。
ここはクロノフェルデ王国の北東端に位置するグリュンヴァルト村。緑豊かな丘陵地帯と、まだ雪の残る山々に抱かれた小さな農村だ。
水面きらめく小川が村の真ん中を流れ、早朝から働く農夫たちの声が、谷間に穏やかに響いている。
教会の鐘が七つ打ち鳴らされるそのとき、ルーシュは目を覚ました。
「……ふぁあ」
欠伸をかみ殺しながら起き上がる。
十四の春を迎えたばかりの少年の髪が、朝日に照らされて琥珀色に揺れた。
寝台の脇に腰をかけ、癖のついた寝間着を整えると、窓の外を眺めた。朝露を湛えた庭の芝生が、きらきらと輝いている。
(だいぶ暖かくなってきたな……)
薄手のベストを羽織ると、彼は井戸端へ向かった。
教会の裏手にある井戸は村の中でも特に古く、深さ十メートル以上。寒い季節は凍結を避けるためもあり、深く掘られている。
ロープを握り、渾身の力で引き上げる。バケツに水が満たされるたび、重さがずしりと腕にのしかかる。
「……う、重たい……」
途中で諦めそうになりつつも、何度か往復して必要な分を汲み上げた。大きく息をつきながら額の汗を拭う。
井戸の水は、ひんやりと冷たく澄んでいた。
「ふう……少し遅くなったかな」
己を叱咤しつつ、ルーシュは礼服である黒いカソックに袖を通す。胸元に縫い付けられた歯車の模様がきらりと光る。
カソックの布地は朝露の冷気を含み、肌をひやりと包み込んだが、それもすぐに体温で温まる。
石畳の廊下を静かに歩き、聖堂の扉を押し開ける。
朝陽がステンドグラス越しに降り注ぎ、聖堂内を柔らかな色彩で満たしていた。
祭壇に据えられた「御神体の時計」は、振り子の音を静かに響かせながら、淡い光に包まれている。
ガラス越しの色とりどりの光が、石壁に淡く映し出されていた。
(今日も、時は正しく巡る)
ルーシュは胸の奥で静かにそう呟いた。
彼の朝一番の務めは、誰よりも早く聖堂に入り、祈りの準備を整えることだった。
祭壇の盃に井戸で汲んだ水を注ぎ、蝋燭に火を灯す。ほのかな灯りがゆらめき、振り子のリズムに合わせてかすかに揺れる。
静寂の中でその光景を眺めるひとときが、ルーシュは密かに好きだった。
ヴェルツ正教――。
この国の国教として掲げられている信仰だ。
『時』を超越する存在として「時計」を御神体に据え、人も星も生き物もすべては時の歯車の一つとして組み込まれていると考える。
人はそれぞれの役割を果たすことで、より大きな時の流れの一部となるのだ。
朝六時、短針と長針が重なる「始まりの刻」。教会では、これに合わせて朝の祈りが行われる。
「新たな朝に、偉大なる神時計の目覚めを感じます。今日という一日が、定められた役割を果たすための貴重な刻でありますように」
朝の光が時計の文字盤を金色に照らすなか、ルーシュは司祭の言葉を心のなかで反芻した。
日々の営みが確かにあること。
時間が、今日も確かに歩みを進めること。
その祈りは、彼の胸にしっかりと染み渡る。
やがて、背後から扉が開く音がした。
グランツ司祭、エミール助祭、ルドルフ時計技師、カタリーナ修道女が静かに聖堂に入ってくる。ルーシュは一礼し、彼らが祭壇前に並ぶのを待った。
村の穏やかな朝が、今日も始まる。
教会の壁越しには、パン屋の煙突から立ち上る白い煙と、村人たちの気配が感じられる。
命がきちんと息づいているこの村で、時の歯車は静かに、しかし確かに動き続けていた。
***
朝の祈りが終わると、教会の日常は掃除から始まる。
この教会はヴェルツ正教が国教になった折に改築されたものである。
もともとはこの土地に古くから伝わる土着信仰の祈りの場であり、木造の素朴な建物が静かに村人たちの生活を見守っていた。
改築の際には、古い木組みを活かしつつも石造りの壁と柱が新たに加えられ、堅牢な姿へと生まれ変わった。柔らかな木の温もりと冷たく荘厳な石の質感が同居する、不思議な佇まいだ。
そして何より目を引くのは、教会の屋根の上にそびえる鐘楼と、その直下に設えられた巨大な機械仕掛けの大時計である。
精密な歯車と振り子の動きは遠くからでもはっきりとわかり、時間の巡りを告げる鐘の音は村中に響き渡る。
ルーシュは箒を手に取り、石畳の廊下を軽やかに掃き進めていく。冷えた空気にほこりが舞わぬよう気をつけながら、手際よく角に埃を寄せていく。
ふと、掃きながら壁際の留め金に目が留まった。ほんのわずかに緩んでいる。
「……またか」
そう呟いて箒を脇に置き、腰に下げた工具袋から小さなドライバーを取り出す。手慣れた動きでネジを締め直す姿に、廊下の向こうからエミール助祭が声をかけた。
「おー、相変わらず手際がいいな」
「この程度なら朝飯前ですよ」
ルーシュは手を動かしながら顔も上げずに答える。
エミールはふっと笑って、雑巾で窓枠の埃を払い落とした。
「昔は、教会の鐘に埃が積もっていないか確認しては必死に落としてたくせにな」
ルーシュは作業の手を止めて、じとっとエミールを睨む。
「…自分がやらせたくせに」
「お、覚えてたか!」
くしゃっと笑うエミールの赤髪が朝陽を受けてきらめいた。
エミール助祭は、この村に派遣されてきてもう九年になる。
ルーシュがまだ五歳だった頃だ。革命の激動から十余年が経ち、国教としてのヴェルツ正教の勢力が徐々に遠地にも及ぶ中で、国都から初めて派遣された助祭だった。
当時はまだ少年と言えるような年齢で、正教の教えはもちろん、良いことも悪いこともたっぷりとルーシュに教えてくれた兄のような存在だ。
「鐘の埃を落とすたびに、『これで雷来ない?』って不安そうに聞いてくるおまえが可愛くてなぁ」
「……純粋な子供の心を弄ばないでくださいよ」
エミールは肩をすくめたが、どこか嬉しそうだった。
エミールは廊下の掃除を終えると、埃を払って軽く伸びをした。
「さてと、そろそろ朝食の時間だ」と言いながら、エミールは軽やかな足取りで食堂の方へ向かっていく。
厨房ではすでにカタリーナ修道女が朝食の支度をしていた。焼き立てのパンの香りとハーブティーの柔らかな湯気が廊下を満たす。
ルーシュはふっと鼻をくすぐられるように微笑み、木の扉を押し開けた。
食堂の長机には、黒パン、干し果実、素朴なチーズが並び、朝陽が差し込む窓辺でそれらがやさしい光に照らされている。
「やっぱり焼きたてのパンは最高だな」
エミールがにやりと笑う。
「ふふ、頑張って掃除した甲斐がありましたね」
ルーシュも満足げに応じ、机の端に腰を下ろした。
ほどなくして、年季の入った法衣をまとったグランツ司祭が朝食の席に姿を現した。
落ち着いた柔らかな口調と、丁寧で無駄のない所作。それでいて、その瞳の奥には鋭い光が宿り、静かに威厳を漂わせる人物だ。
赤子だったルーシュを孤児として引き取り、この村で育ててくれた恩人でもある。血の繋がりこそないが、ルーシュにとっては父そのものであり、司祭は惜しみない愛情を注いでくれた。
ルーシュもまた、司祭には全幅の信頼を寄せている。だがその一方で、幼い頃からずっと見守られてきたがゆえに、心の奥をすべて見透かされているような気がしてならなかった。
司祭はゆっくりと席につき、ふっと穏やかに笑みを浮かべる。
「ルーシュよ。滑車の点検の件は、また時を見て行うとしよう。……もっとも、おまえが何を考えているかなど、お見通しだがな」
(……うっ)
ルーシュは思わず固まり、視線を逸らす。
司祭はわずかに目を細め、静かに続けた。
「その顔……まるで、歯車に何か細工でも施そうと企んでいる顔だな」
「……まさか」
苦し紛れに微笑んでみせたが、その口元は引き攣っているのを自覚していた。
(やっぱり見透かされてる……)
実のところルーシュは、先日の技術講義で習った「滑車の摩擦を減らす潤滑処理」を使って、鐘楼の滑車をもっと軽く動かせないか試してみようと密かに考えていたのだ。
滑車が軽くなれば、子どもでも鐘を鳴らせるようになるかもしれない――そんなちょっとした遊び心と好奇心が、どうしても抑えきれない。
慌てて誤魔化すルーシュに、エミール助祭とカタリーナ修道女がくすりと笑う。
「おまえは顔に出やすいからなあ」
「ほんとうにわかりやすいわね」
そんないつまでも子供扱いする二人にルーシュはむくれて頬を膨らませた。
食前の祈りが終わり、あたたかな朝食が始まる。
パンの焼き色はこんがりと、香ばしい香りが鼻腔をくすぐる。ルーシュはちぎったパンを頬張ると、ふわりとした温かさに思わず笑みがこぼれた。
エミールがふと思い出したように言った。
「そうだ、ルーシュ。午後は領主殿に封書を届けるのを頼まれているぞ。司祭様からの使いだ」
「はい。かしこまりました」
ルーシュは背筋を伸ばして応える。
「よかったな、お嬢様に会えるぞ」
エミールがからかうように言うと、カタリーナも「あら、羨ましいわ」と微笑む。
ルーシュは訝しげな顔で首を傾げる。
「エルザのことですか?どうですかね、近頃はいつも忙しそうですよ。領主様にはちゃんとお届けいたしますので」
その無頓着な返答に、エミールとカタリーナは顔を見合わせて笑う。
「やれやれ、まったく」「ほんとうにねぇ」
そのやり取りにやはり子供扱いされているように感じ、またむくれた。
そんなルーシュを見てエミールが苦笑しながら、ルーシュの肩をぽんと叩く。
朝陽がやさしく差し込む食堂には、和やかな空気と笑い声が満ちていた。
ルーシュはパンをもう一口かじると、胸の奥にぽかぽかとした温もりが広がるのを感じた。
家族のようでいて、でも血の繋がりはない。
けれど、たしかにそこにある絆に、ルーシュはほっと息をついた。