離婚前夜、夫に『好きです』と告白してしまった悪妻の末路
王国北部、雪深いラーデン伯爵領。夕焼けに染まった伯爵邸では、この屋敷の女主人であるオルガがメイドに髪の毛を整えられている。
ワインレッドの艶やかで長い髪に、きりりとして意思の強そうなパープルの瞳。
美女と評して差し支えない容貌だが、顔色は冴えない。
すらりと背が高く、細身だが女性らしい丸みを帯びている体にはぴったりと沿うようなデザインの黒いドレス。極寒地のラーデン領とはいえ屋敷の中は温かく、胸元は大きく開いており、豊かな膨らみが強調されている。
──どっからどう見ても、悪女だわ。
オルガは鏡に映る自分をじっと見つめた。まるで他人事のような感想を持つのには理由がある。オルガは先ほど前世の記憶を取り戻したばかりで、まだその混乱から醒めていないのだった。
事の発端は午後のお茶の時間だった。若いメイドが誤ってオルガのお気に入りのカップを割ってしまったのだ。
その音が耳に届いた瞬間、オルガの脳内に前世の記憶が濁流のように押し寄せてきた。
オルガの前世は日本人の女性で、過労で突然死したこと。通勤時間の合間に読み進めていた小説「微笑みは雪解けとともに」の世界に転生してしまったこと。
──それだけならいい。問題なのは。
オルガはぎゅっと拳を握った。
「私が『あの』オルガだなんて……っ!!」
オルガは「微笑みは雪解けとともに」のメインキャラクターではない。メインヒーローであるシュテファン・ラーデン伯爵の元妻で、彼にトラウマを与え、心を凍てつかせてしまった悪妻。それがオルガだ。
小説の設定ではシュテファンと元妻のオルガ、二人の結婚は貴族らしく打算的に始まっていた。財政が厳しいラーデン伯爵領と、成り上がりで「金で男爵位を買った」と揶揄されているオルガの実家である男爵家。オルガは十二の時に一人でラーデン伯爵家へ嫁いで来て、そこからずっと腫れ物の様な扱いをされ、仮面夫婦として日々を過ごしてきた。
その均衡が崩れたのは『王国歴632年ユキヤナギの月の十五日』だ。
その日、シュテファンに離婚を切り出されて激高したオルガはシュテファンを毒殺して伯爵家を乗っ取る計画を立てた。しかしその企みは実行前に明るみに出て、オルガは離婚の上投獄される。
その後の彼女がどうなったのか作中では判明していない。ただ、転がり落ちるように転落していったのは間違いがないだろう。
「うぇぇ……」
オルガはなおも脳内でぐるぐると早送りのように蘇ってくる記憶に辟易し、情けない声をあげた。
「奥様、ご気分がすぐれないのですか?」
オルガは鏡越しに、心配そうな顔をしているメイドの顔を見た。
──どうせ転生するのなら、ヒロインとは言わずにモブが良かった、このメイドの彼女とか。
「よりにもよって私が、オルガだなんて……」
「はい、奥様はオルガ・ラーデン伯爵夫人でございます」
──それが嫌なのよ~!! だって、私は、シュテファンが推しなのに~!! 転生したのがオルガだなんて嫌すぎる~!!
オルガは心の中で嘆きに嘆いた。最愛のキャラを傷つけるのが自分だなんて、そんな嫌なことがあってたまるか、とオルガは思う。
「奥様、本当に……どうかされましたか?」
「……何でもないわ。ところで、今日は何年の何月何日だったかしら?」
記憶が混濁していて、今の季節が冬であることしか分からない。未来を知っているならば、離婚は避けられないまでも、せめて投獄はなんとかしたいし、極力気の毒なシュテファンを傷つけたくはないとオルガは思う。
──ああ、でも。そうなると本編のストーリーはどうなって……。
「王国歴632年ユキヤナギの月の十四日です」
「はぁ⁉」
日付を聞いてオルガは卒倒しそうになった。事件が発覚する前日──つまり、離婚前夜だ!
オルガは頭を抱えた。
もっと早くに思い出していれば、何か手を打つことも出来ただろう。しかしもう遅いのだ。今日の日付は、作中で毒殺騒動が起きる前夜。
オルガはもう、後戻りできないところまで来てしまっていたのだった。
■■■
「本当にあった……」
メイドを下がらせたオルガは一人私室の大捜索をした結果、自室の机の引き出しから毒の小瓶を発見した。掌にすっぽりと収まるほどの小瓶は、緑色のガラスごしでも分かるほどに毒々しい色をしている。
「私って、本当にバカね……」
先ほど前世の記憶が蘇ったとはいえ、オルガの中には確かにオルガとして過ごした記憶がある。作中では描写されていないが、オルガの中には確かにシュテファンに対する恋慕の情があった、いや今もあるのだ。
オルガも、最初は彼のことをただの契約相手としか思っていなかった。
けれどオルガが寂しくないように故郷の品を取り寄せてくれたり、面と向かってオルガの悪口を言うような人達からかばってくれたりと、シュテファンはオルガのことを尊重してくれていた。彼のふとした優しさや、不器用ながらも実直に領地を守ろうとする姿勢に心を動かされ、彼に思いを寄せはじめた時、年若いオルガはその気持ちを伝える術を知らずに、恥ずかしがって彼を避けるなどしていた。
──それが、オルガとシュテファンの心の距離をより一層広げる結果になってしまったのよね……。
オルガは深いため息をついたが、誰も聞いているものはいない。
──それに、オルガはシュテファンを殺そうとしたのではないのよ。
プライドの高い彼女は、夫を愛するゆえに、白い結婚を理由に離婚を切り出されたとしても納得できない激情家であると自認していた。
もし仮にその日が来たとしたら。せめて彼の心に爪痕を残し、永遠に残ってやろうと自ら毒をあおるつもりだったのだ。
それを決意したのはずっと昔のことで、オルガは今日まで小瓶を隠し持っていたのだった。
「自分がどんなに愚かだったのか、今なら分かる……。でも、それにしたってこんなにも胡散臭い薬を使おうだなんて……本っ当に、馬鹿!」
毒薬の出所を思い出して、オルガは深い後悔に苛まれた。記憶の中にあるいかにも悪徳商人といった人相の男は、毒薬を求めるオルガを小馬鹿にしたような目で眺めていた。そのくせ、後ろ暗い所があるだろうと高額をふっかけてきたのだ。
それでも、あの時はこれを手に取ってしまった。それはシュテファンに愛されていないオルガにとって「私はいつでも誇りある死を選べるのだ」という、間違った自信を与えてくれるものだったからだ。
今日まで発作的にこの薬をあおらなかったことは幸運だ。しかし、この毒薬を所持していることでオルガは悪妻の汚名を着せられてしまう。それは不運だ。
──もちろんシュテファンには使わないし、かといってこのまま大人しく投獄もされたくない。
「……とにかく、この薬を処分しないと」
オルガは震える手で小瓶を握りしめて部屋を出ようとした。しかし、玄関に向かうオルガをメイドがあわてて追いかけてくる。
「奥様、旦那様とのお約束が……」
その言葉にオルガの体が硬直した。そしてまた一つ、小説の一節を思い出していく。離婚を切り出されたオルガは一度、愛ゆえにシュテファンの提案を拒んだ。しかしシュテファンの意志は固く、使用人たちによってオルガの荷物がまとめられる。──その時に、毒薬が発見されるのだ。
「私、今夜、は……」
「旦那様は本日、なんとしても奥様にお会いしたい、と。ご気分が優れないようであればお部屋にお見舞にと……」
普段は冷え切っている関係の妻と、なんとしてでも会話をしたい。それは最後の晩餐──シュテファンはそこで離婚を切り出すつもりなのだろう。口下手で頑固、一度言い出したら聞かないシュテファンの性格を今のオルガはよくわかっていた。
──あがいても、小説の通りに話が進んでしまうの?
「ええい、仕方がない!」
オルガは小瓶を素早く胸の谷間に押し込み、平静を装いながら食堂へと歩いていく。
──おとなしく離婚に応じれば、部屋の捜索はされないわよね……? そして、シュテファンを傷つけることもない。仕方がない、だってもうどうにもできないんだもの、せっかく記憶を取り戻したのだから、生シュテファンを拝んで、あとは異世界ライフを満喫するのよ……!
と、自分に言い聞かせながら、オルガは食堂の扉を開いた。
■■■
「やあ……オルガ」
食堂に足を踏み入れると、すでに着席していたシュテファンがオルガに視線を向けた。意志の強そうな切れ長の瞳はまさしくオルガが想像していた通りの美丈夫といったところで、目線を逸らさないシュテファンに、オルガの胸はどきりと跳ねた。
──うぅ、せっかく生シュテファンを拝むことができたのに……。
オルガにとって、シュテファンの姿を眺める瞬間は至福の時と表現してもよかった。けれど今はその奇跡を楽しむ余裕もない。
「ええ、シュテファン。こんばんは」
騒がしいオルガの心情とは裏腹に、喉からは落ち着いた声が出て、オルガはほんの少しだけほっとした。
「今晩はどうしても、君と二人で話したかった」
シュテファンはオルガから目線を外し、雪の降り積もるバルコニーを眺めた。その横顔には迷いの影がない。彼はもう離婚を決意しているのだろうと、オルガの胸の内で、痛みがじわりと広がった。
「……ええ、なんでも話してくださいな。私達、夫婦ですもの」
オルガには、それだけを言うのがやっとだった。
シュテファンが離婚を切り出すタイミングを見計らっているのだろうと想像しただけで、オルガの胸は張り裂けそうなほど苦しくなっていき、冬のラーデン領には珍しい、新鮮な食材を使った豪華な食事もまったく喉を通らない。
「オルガ。今晩……あなたを呼んだのは」
その声に、俯いてナイフとフォークを見つめていたオルガは反射的に顔を上げた。
「……何かしら」
オルガは精一杯、平静を装って答えた。けれど、テーブルクロスの下では手が震えて止まらず、オルガはぎゅっとスカートを握った。
もしこのまま離婚を受け入れれば、小説通りに事件は起きないかもしれない。しかし、それで本当に良いのだろうか、とオルガは考えてしまう。
──だって、私は、夫を愛しているのに……。
けれど、オルガにはそれ以上、何も言うことができなかった。ただ、胸の谷間に隠した小瓶の重みが、さらにずっしりと感じられるのみだ。
「君がこの領地に嫁いできたときはまだ十二歳で、俺は十七だった。年齢にそぐわない花嫁衣装を着た君の表情は硬くて、まるで氷でできた人形のようだった。雪深く貧しいこの土地に、格上の伯爵家との繋がりが欲しいからと送り込まれた豪商の娘……きっと、君はここに来たくなかったのだろうと感じた。なんて気の毒なことをしてしまったのだろうと」
──シュテファンは作中では離婚の理由を語らない。だから、これは私が真剣に聞かなければいけないこと……。
シュテファンは目を伏せ、オルガの反応を待つように黙ったが、オルガは一言も言葉を発することができず、ただシュテファンを見つめている。
再びシュテファンが重い口を開く。
「だからこそ、君を監視することはしたくなかった。限られた世界の中だとしても、のびのびと暮らしてほしかった。けれど領地を立て直しても、王家から勲章をいただいても、何を贈っても……君はいつも、悲しそうだ」
シュテファンが絞り出すように呟いた言葉には、深い後悔が滲んでいた。
「結婚のおかげで、この領地はやっと立ち直ることができた。だからこそ、もう君を自由にしてあげたい」
シュテファンの声は震えていたが、瞳はオルガを真剣に見つめている。
「君には感謝している。だが……もう、自由になるべきだと思う。オルガ……離婚、しよう」
その瞬間、オルガの中で何かが切れるような音がした。冷静な転生者としての自分より、オルガとしての魂に意識が一気に傾いてしまったのだ。
「……そんな話をするために、私を呼び出したの!」
オルガは体の中からわき上がってきた叫びをシュテファンにぶつけ、席から立ち上がって雪の降るバルコニーへと飛び出した。冷たい風がオルガの頬を叩き、髪の毛には雪が積もっていく。
「もし、もっと早く記憶を取り戻していれば……」
オルガは寒さに体を縮こまらせながら、小さく呟いた。
──バカね。これはもう決まっていることなのよ。今更すがったって、何にもならない……。
状況を俯瞰している自分と、今まさに愛する人からの最後通告を突きつけられて、子どものように泣きわめいているオルガ、どちらも本物だった。
オルガはもう、シュテファンの元妻で、悪妻としての運命から逃れられない。今となっては彼の話を聞くことができて、犯罪者扱いされないことに感謝する程度の自由しかないのだと必死に自分に言い聞かせても、涙がわき上がってくるのを止められなかった。
シュテファンが静かにオルガに歩み寄り、オルガの肩にマントをかける。
「外は寒い。戻ろう」
オルガは涙を隠そうと、顔を伏せてシュテファンの横をすり抜けようとした。
「わかって……きゃっ!」
「オルガ!」
室内履きのままだったオルガは雪の上で滑ってしまったが、シュテファンに抱き留められたおかげで雪の中へ突っ込まずにすんだ。
「大丈夫か」
シュテファンのがっしりとした腕に抱きかかえられ、オルガは赤面し、涙はひっこんだ。
──こ、こんな近くにシュテファンの顔が……。
恥ずかしさから顔を背けたオルガの視線の端に、小瓶が入った。
「あっ」
毒薬の小瓶が、転んだ拍子にオルガの胸元から飛び出してしまったのだ。
オルガはシュテファンの手を振りほどいて、慌てて小瓶を拾い上げ、ぎゅっと握りしめた。落下の衝撃で瓶の蓋は開いていた。
「それは……?」
シュテファンはうずくまったオルガの背中に声をかけた。
「ただの……鎮痛剤よ。頭痛がするから」
下手な嘘をつきながら、オルガにはそれが無意味だと理解してもいた。シュテファンの小瓶を見つめる目は、氷のように冷たいからだ。
「毒か?」
「……っ」
あっさりと真実を言い当てられて、オルガは声が出なかった。ただひたすらに、ぎゅっと小瓶を握りしめることしかできない。
しばらくの間、どちらも声を発することはなかった。二人の間を通る、凍えるような冷たい風は、まるで夫婦の代わりに泣き叫んでいるようだった。
「……わかった、オルガ。君が望むなら──俺は、それを飲もう。それが君への、最後の贈り物だ」
その言葉にオルガの心臓が跳ね上がる。彼の死など、彼を愛する者としては一番あってはならないことだ。
「やめて……そんなの、嫌よ!」
「渡すんだ、それを」
「嫌っ……!」
──シュテファンが、これを飲む? なんのために? これはオルガが死ぬための毒。シュテファンに使うためじゃない。オルガはそんなことは望んでいない。それなのに、どうしてそんなことを言うの。
オルガの脳内で、様々な思いが錯綜する。
──私が、未来を変えようとしてしまったから? だから話が変わってしまったの?
──運命は、決まったストーリーはもう変えられない。離婚は切り出されてしまったし、オルガが毒薬を隠していたことも見つかってしまった。変えられないのなら、せめて最愛の人には幸せになる道を残してあげたい。けれど、シュテファンは自分が一度言い出したら絶対に聞かない。
──つまり、私は、最後まで愚かでいるしかないってことね! どうせ死んだのだし、意味のある死なら怖くなんてないわっ!!
オルガは意を決して、小瓶の中身を一気に飲み干した。
毒薬と聞いて想像していたような焼けるような痛みはなく、ただ苦みだけが口内に広がっていく。
「……オルガっ!」
オルガの唇の端から一筋の赤い液が流れ落ち、細い体は雪の降り積もったバルコニーに倒れ込んだ。
「オルガ!」
シュテファンが必死に彼女を抱きかかえた。オルガにとってシュテファンの腕の中は、雪の冷たさを感じさせないほどに温かく感じた。
「医者を呼べ!誰か、急げ! オルガ、吐き出すんだ!」
シュテファンの叫びが冬の夜空に響く。
オルガは震える手でシュテファンの頬に触れる。心を決めたオルガの胸の中は、先ほどの動揺が嘘のように凪いでいた。
「シュテファン……最後に、聞いてください。ずっと、あなたが好きでした。一緒にいられて、本当はとても嬉しくて……仲良くなりたかったけれど、私はあなたの隣にいるには……愚かすぎました。こんな自分勝手な悪妻のことは、どうか……忘れて、幸せになってください」
「オルガ……」
シュテファンは言葉を発しようとするが、オルガはそれを遮るように言葉を続けた。
「こんなふうに……あなたに見つめてもらいたかったの。最初で、最後に……それが叶いました」
オルガの言葉に、シュテファンの顔が歪む。
「もっと早く、君と関わって、気持ちに気づくことができていれば……本当にすまない。愚かなのは俺の方だ、誤解をさせて……こんな……終わりは……君に幸せになって欲しかっただけなのに……」
その言葉を聞いたオルガは、わずかに目を見開いた。
──シュテファンが離婚を切り出したのは、望まない結婚をしたオルガを解放するため。彼は妻を愛していなかったのではなくて、愛ゆえに手を離そうとして……。
「シュテファン、ごめんね……ばかで……本当に、私のことは、忘れていいから……他の人と、幸せに……それが私の、望みだから……」
──オルガは作中の退場からは逃れられない。けれど、シュテファンが死んでしまうよりはずっといい。だって彼には、この後救いが待っているのだもの……。
「オルガ、オルガ……っ、そんなこと、俺には……できないっ! 君をこんなにも苦しめて……!」
「大丈夫よ、全然、苦しくないの……」
寒さに震えながら口にした言葉に、オルガは違和感を覚えた。
──確かに、本当に苦しくないし、別に意識も遠くならないのよね。悪徳商人の説明だと速攻性でまるで心臓発作のように……って触れ込みだったけれど、なんだか、これはただ、ドキドキしているだけ……のよう、な……。
オルガはしばらく考えた。冷たい風で、火照った体が冷えていくのを感じた。
──まさか……偽物?
オルガは数秒間、真剣に考えた。寒い以外は、やはり、特になんの異常もなかった。
「……ごめんなさい、シュテファン。これ……もしかして偽物かもしれないわ……」
オルガは情けない推測を、おそるおそる口にした。それを聞いたシュテファンが一瞬呆けたような表情をしたが、ぎゅっとオルガを抱きしめる。
「嘘? 本当に……?」
「え、ええ。多分だけど、全く効いている気がしないわ」
「嘘なのか!? 嘘なんだな!? 冗談なんだな!?」
シュテファンはオルガの背骨が軋みそうなほど、さらに彼女の体を強く抱きしめた。シュテファンの安堵とは正反対に、醜態のせいかはたまた寒さのせいか、オルガの顔は再び真っ赤になった。
──あ、あ、あの悪徳商人……あんな高い金額をふっかけて……真っ赤な偽物を……!
「オルガ……生きていてくれて、本当にありがとう」
そう言ってシュテファンが泣き始めたころ、オルガの心は決まり悪さと安堵感で、もう何が何だか分からなくなっていた。
■■■
「くしゅん!」
オルガは布団の中で小さなくしゃみをした。
「大丈夫か、オルガ!」
その音を聞きつけて、隣室に控えていたシュテファンが飛び込むようにして入室してきた。シュテファンは心配そうにオルガの顔を覗き込む。
「だ、大丈夫よ。ただの風邪なんだから……」
と、オルガは弱々しく笑ってからうつむいた。
毒薬は真っ赤な偽物で体には何の害もなかったのだが、極寒のバルコニーにドレス一枚だったせいでオルガはあの後、ひどい風邪を引いてしまった。
「けれど、丁度良かった。粥ができたんだ」
数日間は安静にするように。と医者の診断が降りたオルガを、シュテファンは今までの分とばかりに甲斐甲斐しく看病している。
「口を開けてくれ」
シュテファンが粥を掬ったスプーンをオルガの口元に差し出してきた。
──ひえぇ。これって。
「いらないか?」
「そういうわけじゃ、ないけれど。自分で食べられるわ」
オルガはやんわりシュテファンの手からスプーンを奪おうとしたのだが、軽く躱されてしまった。
「言っただろう。君ともっと関わるべきだった、と」
──それと、これとは話が別よ。あまりにも恥ずかしすぎるし……。
オルガの顔はますます赤くなる。風邪のせいだけではない。シュテファンの眼差しがあまりにも優しく、まっすぐに自分を見つめすぎている。
──だって、こんなの、こんなの……役得すぎて、直視できないっ!
美しい氷の彫刻のようなシュテファンとは対照的に、オルガは髪の毛がボサボサだし、服だって寝間着のまま。それなのに、シュテファンはずっとこんな感じなのだ。
オルガはあまりに刺激が強すぎると、布団に潜りこんだ。
「オルガ、やっぱり食欲が……」
「い、いえ、食べる、食べますっ!」
オルガは慌てて布団から顔を出した。これ以上シュテファンに心配はかけられない。
「では、食べてみてくれ」
「は、はい」
オルガは怖々と粥を口に含んだ。
「味はどうだ?」
「正直……あまりわからないのよ。でも……とても、美味しいわ」
シュテファンはその言葉に満足げに微笑み、椅子に座り直すと、オルガを見つめた。その瞳はもう、オルガの記憶の中にあるような悲しみの色をたたえてはいない。
「体調が戻ったら……今までの分も一緒に領地を巡ろう。そして新しく、笑顔になれるような思い出を作っていこう」
「……私はあなたがそばにいるなら、それだけでいつでも笑顔になれるのよ。本当はね」
オルガの照れくさそうな微笑みに、シュテファンもまた、ぎこちなく笑い返してオルガの手を取った。
「オルガ。これからもずっと、俺と一緒にいてくれるだろうか」
シュテファンの少し恥ずかしそうな問いかけに、オルガはゆっくりと頷いた。
「ええ、もちろん」
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