巻の一 第九幕
「くそっ!」
戻ってきた生駒屋佐平次はひどく荒れていた。
部下の静止を振り切り、家財を手当たり次第に叩き壊していく。
手にした火かき棒が明後日の方向へ折れ曲がった時、やっとのことで生駒屋は怒りを収めた。
その時には、部屋中の家財道具一切が破壊されていた。
「頭、どうしたんです?」
生駒屋をなだめ続けていた文次が、恐る恐る声を出した。
その額は暴れる生駒屋に割られ、手拭いで傷口を押さえている。
「泉岳屋の手駒が手に入るはずが、とんだ邪魔が入りやがった。あのクソ役人共が! 功を焦って、大した準備もせずに事を起こしやがって。危うく、俺まで牢にぶち込まれるところだったぜ。これじゃ、迂闊に動けやしねぇ」
「役人共が、下手を?」
「ああ、やってくれたぜ。これで、泉岳屋も警戒するだろうからな、しばらくは大人しくするしかねぇな。それに、あの役人共が俺のことを口にするだろうから、ほとぼりが冷めるまでは、西の知り合いのところにでも身を隠すか」
くそっ、と悪態をつくと、生駒屋は手にしていた火かき棒を欄干目掛けて放おった。
それは勢いよく飛んでいくと、ガツンッ、と欄干に突き立った。
「俺がいない間、ここはお前に任せる、文次。俺のことは、湯治にでも行ったことにしろ。ここ一月、俺は湯治でいない。いいな?」
「へい。ですが、その間の仕掛けに関しては?」
「今、受けてるのは?」
「急ぎの仕事は、特に。頭が戻ってからでも、問題ないかと」
「じゃ、そうしてくれ。しばらく仕掛けは受けられねぇが、まあ、仕方がねぇ。身の安全が第一だ」
「では、早速出立の準備を」
「ああ、任せる」
文次は額を押さえたままで、その場を音もなく立ち去った。
文次と入れ替わるように男が数名室内に入ってくると、壊れた家財道具を持ち去っていく。
家財道具がなくなり広々としたそこへは丸い卓が運び込まれ、酒と肴が運ばれてきた。
生駒屋は乱暴に卓に着くと、酒を運び込んだ女中に酌をさせる。
何かを忘れるかのように矢継ぎ早に盃を空けると、生駒屋は静かに息を吐いた。
今回、生駒屋が計画していたこと、そのことごとくが失敗に終わった。
役人を抱き込んで邪魔者を排除するつもりだったが、余計な横槍が入った。
その上、このままでは生駒屋自身の身の安全も危うい。
そもそも、何が問題だったのか?
生駒屋は今回の事を振り返る。
泉岳屋の手駒へ疑いの目を向けることには成功していたはずだ。
緒方や山元の働きもあり、奉行所内でも奴らへ疑いの目を向ける者は多くなっていた。
武家殺しとして奴らが捕らえられるのも、時間の問題だった。
そこへ、どこの誰とも知れない男が下手人として奉行所へ名乗りを上げた。
その男は、武家殺しに関する動機や犯行に関する詳細を語ったらしい。
犯行の詳細。これは、武家殺しを請け負った仕掛け屋しか知らぬこと。つまり、泉岳屋の息がかかった者が下手人として奉行所へ名乗り出たと言うことだ。
そんな事をすれば、打首になるのはわかりきったこと。
身代わりとして名乗り出た男は、命を捨てる覚悟を持って奉行所へとやってきたのだ。
馬鹿馬鹿しい。
生駒屋は思う。
他人のために命を差し出す者がいるなど、生駒屋には理解できなかった。
だが、その理解できない馬鹿者のために、今、生駒屋は窮地に立たされていた。
生駒屋は盃を空にする。
酌をするように空の盃を差し出すも、いつまで経っても酒が注がれる気配がない。
「おい、早く酌をしろ!」
「今は、手酌で我慢してもらおうか」
その声に、生駒屋は盃を投げ捨て身構えた。
腰の物を確認するも、今は帯刀していなかった。
「そう、警戒しないくても良い。今日は、話をしにきただけのこと」
生駒屋佐平次の前には、いつの間にか泉岳屋久兵衛が座していた。
生駒屋に酌をしていた女中は、気を失っているのか倒れている。
生駒屋は辺りを探ってみるも、武器となりそうなものは手の届く範囲には見つけられなかった。
「話の内容が何か、わかっているね」
泉岳屋は落ち着いた様子でそう言うと、煙管に火を入れた。
ゆっくりと吸い込み、ゆっくりと紫煙を吐き出す。
「私はね、話し合いで解決したいと思ってるんだよ。貴方には、一応の義理もある。今回の事は、不幸なすれ違いだった。そういうことで、手打ちとしようじゃないか」
泉岳屋は、じっと生駒屋を見据える。
その瞳の奥には、有無を言わせぬ決意の光が見て取れた。
生駒屋は背筋に冷や汗が流れるのを感じ、己の弱気に憤慨する。
「何を馬鹿な事を! 俺の邪魔をしているのは、お前だ、泉岳屋! お前は俺の言葉に従っていればいい! 俺がお前に頭を下げることなど、何ひとつない!」
生駒屋は手にしていた盃を泉岳屋の額に投げつけた。
泉岳屋は避けることもなく、その盃を額で受けた。
泉岳屋の額から、一筋の血が流れ落ちる。
「これが答えだと、そう受け取ってよろしいか?」
泉岳屋は盃を拾い上げると、それを真っ二つに割ってみせた。
そして、己の前に割った欠片を並べる。
「お前に俺から言うことなど、何も無い!」
生駒屋が膝を立て掴みかかるのを、泉岳屋は難なく身を躱し、生駒屋の頭を押さえつけた。
「ならば、話し合いはここまで。我ら、仕掛け屋の流儀に則り、生駒屋さん、お宅には消えてもらいましょう。掟破りは、その血を持って贖う。良くおわかりですね」
「青二才が、吠えるなよ!」
生駒屋は泉岳屋の手を力任せに払いのけると、割れた盃を投げつけた。
しかし、その場に既に泉岳屋の姿はなく、力任せに振り上げた腕から血が流れていた。
いつの間に付けられたのか、腕が真一文字に切り裂かれている。
「泉岳屋ぁぁぁぁ!」
生駒屋の獣のような咆哮が、静まり返った夜空に響き渡った。