巻の一 第五幕
その日、朝から山元の命を受け、紋次はある男の動向を見張っていた。
男の名は、無持。
盲目の按摩で、生駒屋の親分からの情報で仕掛屋の一員だと目されている男だ。
住処は荒屋が並ぶぼろ長屋の一画で、なんとか判別できる乱雑な字で『按摩承り』と書かれた木札がぶら下がっている。
日が昇り、長屋の女達があれやこれやと声を上げながらあさげの準備をするなか、紋次は息を殺してその様子を窺っていた。
長屋のそれぞれの家から人が出入りを幾度か繰り返した後、目的の男が姿を表した。
「あら、爺さん、今日は早いね」
「これは、おはようござんす。今朝はご贔屓様からお願いをいただきやして、早くからお伺いいたしやす」
「そうなのかい? 気を付けてお行きよ」
「へぇ、ありがとう存じます」
老爺は杖を突きながらも慣れた様子で歩いていく。
長屋を抜け、日の差し込みが悪い細道をゆっくり行くと、大通りと交わる点で一度立ち止まった。
紋次は一瞬、尾行に気付かれたのかと肝を冷やしたが、老爺の前を荷車が駆け抜けて行った。
老爺はしばし通りの様子を窺った後、再び歩みを進めていく。
通りでは老爺の顔見知りがそれなりにいるらしく、声をかけてくる者がいた。
その中の多くは、次の按摩がいつになるかを確認しているようだった。
老爺の按摩の腕は確からしく、皆一様に感謝している。
そうこうしている内に、あるお店の前で足を止めた。
この辺りでも有名な材木問屋の前だった。
「お頼み申します」
老爺が声を掛けると、しばらく後に男が駆け出てきた。
「ああ、按摩さん、お待ちしておりました。ささ、どうぞ中へ」
「へぇ、失礼いたしやす」
男に案内され、老爺は中へと消えていった。
その様子を最後まで見届けると、紋次は材木問屋の向かいにある小間物屋へと向かった。
「邪魔するよ」
「これは、いらっしゃいまし」
紋次の手にした十手を見てから、店主が深々と頭を下げた。
「いや、ちょいと聞きたいことがあるんだがね」
「なんでございましょう?」
「向かいの材木問屋、誰か、悪いのかい? 按摩が入っていくのを見たんだが」
その質問に、店主は安心したように表情を和らげた。
自分の店に何か問題があったのかと、それを心配していたようだ。
「大旦那さんが腰を悪くしたそうでして、よく按摩を呼んでいるそうです。来るのはいつも同じお爺さんで、確か、無持さん、だったかな? この辺りだと評判の按摩さんだそうで、他でもお願いしている所が多いそうですよ。この通りを歩いているのは、よく見かけますね」
「よく見かけるかい?」
「そうですね、多い時は、日に何度か。あちらのお店、こちらのお店、入っていかれるのを見ることはありますね」
「なるほどね」
紋次は頷きながら、十手で己の頬を突付いている。
「あの按摩さんが、何か?」
「いや、大したとこじゃねぇんだ。商売の邪魔して、悪かったな」
そう言い残して、紋次は小間物屋を後にした。
その後も何件かで話を聞いていた紋次だが、どこも小間物屋と同じようなものだった。
材木問屋から出てきた老爺は、今度はそこからほど近い米問屋へと消えていく。
ここでも聞き込みをしてみた紋次だったが、話の内容は他と代わり映えはしないものだった。
それから数件、同じようなことが続いた後、老爺は通りから路地へと消えていく。
その路地の先にある物へと思いが至った瞬間、紋次は思わず漏れ出そうになる声を既のところで押し留めた。
その路地の先には、狐狸庵という名の見世物小屋があるはずだった。
その見世物小屋にも仕掛屋一味が潜んでいるという話で、名は確か、蓮華という女だと聞いていた。
紋次はそっと、路地の様子を窺った。
その先では、老爺とその倍はありそうな大男が話しているところだった。
「おお、按摩さん、待ってたよ」
「その声は、大五郎さんでござんしょうか?」
「そう、俺だよ。今日は、お願いできるかい?」
「へぇ、ようがすよ。今日のお客様は、皆様まわり終わったところでございやす」
「そうかい、じゃ、お願いするよ。みんな、あんたが来るのを待ってたんだ。最近は客の目も厳しくて、体が凝っちまってよ」
そう言いながら、大男は老爺を小屋の中へと引き込んでいく。
紋次がどうしたものかと躊躇っている間に、老爺の姿は路地から消えてしまった。
紋次は幾度か通りと路地へ視線を行きつ戻りつした後、意を決したように路地へと駆け込んでいく。
見世物小屋の近くで息を殺すと、小屋の裏手へ続く小道へ身を隠した。
そのまま足音を忍ばして壁沿いを進んでいくと、小さな明かり採り用の窓が見えてきた。
そこから中の様子を窺おうと、紋次はゆっくりと小窓に近づいていく。
小窓は紋次の背よりもわずかに高い位置にあった。
窓から人の気配が感じられないのを確認すると、紋次は覗き込むためにゆっくりと視線を上げていく。
あとわずかで中が見えるかと思った矢先、紋次の眼前を紫煙が遮った。その上、驚いた拍子に紫煙を吸い込んだため、紋次は大きく咳き込んでいる。
「十手持ちの旦那、女の着替えを覗くたぁ、どういう了見だい?」
紋次が紫煙にむせていると、小窓から女が見下ろしていた。
女の手には煙管があり、紋次に紫煙を吹きかけたのもこの女の仕業だろう。
「ご、誤解だ。俺は、覗きなんかじゃねぇよ。この小屋に怪しい奴が入っていったから、それを確認しに来ただけだ」
「なら、表から話を聞きゃいいだろう。わざわざこんなところから覗きをする、その説明にはなっちゃいないね」
女は気怠そうに煙管に口を寄せると、ゆっくり吸ってゆっくり吐いた。
女の口から吐き出された紫煙が、再び紋次にまとわりつく。
「くそっ、やめねぇか」
「だったら、そこからいなくなることだね。まぁ、そのままいると、覗きで捕まるだろうけど」
女がそう言うと、紋次がいる更に奥の方でガタガタと物音がし始めた。どうやら音がするあたりに小屋からの裏口があるらしい。
「十手持ちだとしても、覗きの現場を押さえられちゃ、言い逃れはできないよねぇ」
「くそったれ!」
紋次は悪態をつきながら、急いでその場を後にする。
その後姿を、小屋から飛び出してきた数名の男達が追いかけていった。
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「またこんなところで油を売って」
背後から掛けられた声に驚くこともなく、卜部は垂らした釣り糸をぼんやりと眺めていた。
寂れた路地のその先、崩れかけたお堂の脇にある人気のない小川。そこが卜部のサボり場だった。
呆れた様子の山岡は、釣り竿片手にぼんやりしている卜部の隣までやってきた。
「何が釣れるんですか?」
「さぁて、なんでしょうなぁ? そもそもこれじゃぁ、釣れるものも釣れないでしょうがねぇ」
釣り竿を引き上げると釣り糸の先に針はなく、卜部はただ文字通りに糸を垂らしているだけだった。
「あなたは、なんのためにこんなことを?」
「いやぁ、ただねぇ、時間が過ぎれば、それでいいんですがねぇ」
「はぁ、全く、あなたと言う人は」
山岡は腕組し、眉間に深い皺を刻んでいる。しかし、それ以上何かを言うでもなく、卜部に倣うように釣り糸を眺めていた。
そうして、どれだけの時が流れたか。
先に沈黙を破ったのは、以外にも卜部の方だった。
「あたしに、何か言いたいのじゃぁないですか?」
「あなたにではありません。先の一件に対する、奉行所の方針に関してです。あの、若い武家が死んだ件、あれですよ」
話をしながら何かを思い出したものか、山岡は次第に不機嫌そうになっていく。
「卜部さん、あなたはおかしいとは思いませんか。降って湧いたように、下手人が仕掛屋なる者達にされてしまった。これといった証拠もない、手がかりもない、見たという者もいない。それだというのに、下手人だけは特定されている。そもそも、緒方様と山元さんは、どこからこの情報を手に入れてきたのか? 山元さんを問い質してみても、適当にはぐらかすだけで、一向に要領を得ない。怪しい情報に踊らされて、本来探すべき相手を見誤っているのではないか? 私はね、卜部さん、出所の怪しい情報など、全くもって信じられないんですよ」
そう一気に語ると、山岡は組んでいた腕を解いて姿勢を正した。
「どういう訳か、お奉行様も緒方様の言葉を鵜呑みにされている。この一件に関して、本来あるべき調べの作法が蔑ろにされている。私には、そう思えてならない。そもそも、三人とも異常な死に方をしているんですよ。私も、詳しい状況を知って驚きました。あれは、人の手によるものなのか? もしそうだったとしても、そこまでする意味が分からない」
山岡の眉間の皺は更に深くなり、右眉が吊り上がった。
「まず、佐藤新蔵。この男は首と胴が離れていた。それも、刀で切り落としたのではなく、強い力で捩じ切られていた。だというのに、きれいに首の骨だけは断たれ、胴へと繋がる臓器は残したまま。首の断面は捩じ切った跡が残っているにもかかわらず、骨だけはきれいに、刀で断ったようにきれいな断面になっていそうです。二人目は、木下文之助。こちらは、胴が上下に断たれていた。切り口はきれいなもので、おそらく刀によるもの。それも、一太刀でのことでしょう。ここまでなら、まだ、理解はできます。しかし、この死体もおかしい。胴が上下に分かれているというのに、胴の中の臓器は無傷だったんですよ。そしてこちらも、骨だけはきれいに断たれていた。腹と背の肉だけ斬り、中身を残して、更にその骨を断つ。こんな馬鹿げた手間をかけますか? 最後の田野中喜助。死体に頭はなかったそうです。それも、斬られて持ち去られたのではなく、溶けてなくなったのだと、そういう話です。にわかには信じがたいことですが、頭があったであろう場所に、大量の血と数本の歯と思われる物が残っていたそうです。この馬鹿げた死を、どう思われます?」
山岡は酷く興奮し、肩で息していた。
対して、卜部はただ風に揺れる釣り糸を眺めている。
「あたしゃぁ、首の抜けた新蔵しかぁその場を見てませんし、その時も言った気がしますがねぇ、首を捩じ切るなんてなぁ、一人でできるもんじゃぁないでしょうなぁ。それに、何か仕掛けみたいなぁもんも、必要でしょう。それに、ただ捩じ切るだけでなし、首の骨ぇ、断面をきれいにするとなりゃぁ、更に手間もかかろぅでしょうなぁ。あの場所は、まぁ、人目の少ないところですがねぇ、人がいないわけじゃぁない。あの場に留まって何かしてりゃぁ、誰に見られるともわからない。仕掛屋ってのがぁ、人目を気にするってんなら、危険を承知で、そんな手間をかけるもんですかねぇ」
「そう、そこがわからない。どの殺しも、手間がかかりすぎている。新蔵はその通りですし、文之助も、気絶でもさせた後に腹を裂いて骨を断って、人目が少ないとはいえ、悠長にそんなことをしている暇はないはずなんです。喜助に至っては、頭が全て溶けてなくなるまで、下手人はその場にいたことになるんですよ。知り合いに蘭学医がいるもので聞いてみたのですが、人の体を溶かすような薬というものも、あるにはあるそうです。ただ、大量に必要な上、相当な時間がかかるそうです。必要な量をそろえるための金子も、とてもじゃないが殺しに釣り合うとは到底思えません。それを用意し、実行する。正気の沙汰とは思えませんよ。仕掛屋が金で殺しを請け負うならば、それは一定の利があってのこと。今回の件でその利があるとは、とてもじゃありませんが考えられませんね、私には」
そう言う山岡は、少し落ち着きを見せ始めていた。
卜部は手にしていた釣竿を小川に放ると、大きく伸びをする。
「山岡さんは、お武家の件は、殺しでないと?」
「殺しではあるでしょう。しかし、安易に下手人を決めつけるべきではない。地道に調べ、その結果として下手人を特定すべきなんです。噂でしかないような者を下手人とするなど、言語道断でしょう。私は、それが許せないのですよ」
卜部はどこか嬉しそうにしながら、同輩の背を軽くたたいた。
「山岡さん、せっかくですからねぇ、甘いものでも? いい所がありましてねぇ」
「あなたは、またそうやって」
山岡は卜部の誘いに眉根を寄せるも、
「まあ、たまにはいいかもしれませんね」
誘いを快諾した。
予想外のことに卜部の方が面食らってしまう。
「さあ、行くなら行きましょう。まだまだ仕事は残っていますからね」
足早にその場を去っていく山岡の背を、卜部は何とも言えない笑みを浮かべながら追いかけていった。