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巻の一 第十幕

表の木戸を叩く小さな音がしている。

うたた寝していた兵太は、その音で飛び起きた。

未だに木戸を叩く音は続いている。

兵太はけつまずきながら木戸に辿り着くと、外にいる者へ声をかけた。

「こんな時分に、なんの用だい?」

「へぇ、お頼み申します。あっしは按摩でごぜぇやす。本日、こちらの親分さんに呼ばれ申しやして、お訪ねしてございやす」

外からは、しわがれながらもよく通る声が聞こえてくる。

だが、兵太は按摩が来るなどとは聞いていはいなかった。

木戸の覗き窓を開けて外の者を見ると、やせ細った老爺が立っていた。

木の杖をついているところを見るに、めくらの按摩なのだろうと考え至った兵太は、その老爺を通すことにした。

仮にこの老爺が何か問題を起こしたとして、その場で叩き倒せばいいだけの話で、もし本当に呼ばれて来ていたのだとすれば、ここで追い返しては大目玉を食らう。

そう考えて、兵太は木戸を開け、老爺を中へと通した。

「爺さん、親分は奥にいるんだが、場所はわかるかい?」

「へぇ、ありがとう存じます。以前、お訪ねしたことがごぜぃやす。道順は、把握してございやす」

「そうかい、それなら奥に行きねぇ」

兵太は木戸を閉めるために、老爺に背を向けた。

一度外に顔を出し、他に誰もいないことを確認してから戸を閉め、閂を下ろす。

そうして土間に戻ろうと振り返ると、老爺はまだその場に立っていた。

予想外の事に、兵太は思わず短い悲鳴を上げる。

「お、おい、爺さん。脅かしっこなしだ。早く、親分のところに行ったらどうだ」

「お前さんは、ここに来て日が浅いのかい?」

老爺の要領を得ない質問に、兵太は眉をひそめた。

何の意味があるのか、その点はよくわからなかったが、兵太は素直に数日前に来たばかりだと老爺に答えた。

「そうかい、そうかい。新入りかい。そいつは、運がなかったねぇ」

運がないとはどういうことなのか?

兵太はますますもってわからなくなっていた。

老爺は表情の読み取れない、笑い面を被っているように感じる。

今目の前にいる、按摩だと名乗っている老爺は、果たして何者なのか?

不思議と、兵太の背筋に冷たいものが流れていく。

「泉岳寺さんは、今は奥にいなさる。そうでござんすね?」

兵太は答えようとするも、口の中がカラカラに渇き、声がうまく出せないでいた。

ただ視線だけは、泉岳寺がいるであろう奥の離れへと向けられる。

「あぁ、そうですかぃ。奥の離れにいなさる」

兵太は驚いて老爺を凝視するが、老爺の両目は閉じられたままだった。

両目を閉じたまま、何度も頷いている。

「あ、あんた、爺さん、目が見えねぇんじゃ」

「えぇ、あっしはめくらでございやすよ。何も見えちゃございやせん」

「だったら、なぜ?」

見えているのか? まるで見えているような素振りを見せるのか?

兵太はたじろぐと、老爺から数歩離れた。

「おい、兵太! 何してやがる!」

突如、土間から顔を出した男が兵太に叫んだ。

その声におののいた兵太は、そのまま尻もちをつく。

兵太の様子を訝しんだ男が、土間から外へと飛び出してきた。

「何をそんなところ座ってやがるんだ、兵太。今は、そんなところじゃ」

男の視線が、笑みを浮かべた老爺を捉える。

「何だぁ? おい、この爺さんは何だ?」

「あ、按摩だ。按摩の爺さんだ」

兵太はそれだけを絞り出すように言うと、やっとのことで立ち上がった。

「按摩だぁ? 誰も頼んじゃいねぇぞ、按摩なんぞ」

男が老爺に近づいていく。

「爺さん、悪いんだがね、帰ってくれ。今は、按摩なんぞ」

そう言いかけ、男の顔つきが変わった。

老爺に鋭い視線を送ると同時に、己の懐に手を差し入れる。

対する老爺の動きも素早かった。

手にした仕込み杖から瞬時に抜刀すると、一太刀の元に男を斬り捨てる。

男はくぐもった唸り声を発すると、その場に倒れた。

その刃が、兵太に向けられる。

「お、俺は」

「運がなかったね、お前さんは」

老爺は素早く、兵太の心の臓をつく。

兵太は幾度か身を震わせた後、ゆっくりと地に倒れた。

その時、どこからか男の咆哮が響き渡る。

それを耳にして小さく頷くと、老爺は建物の中へと消えていった。


******


その日、寅彦は朝から災難続きだった。

朝の目覚めはドブ川の脇で、片足はドブ川に突っ込んだ状態だった。

ドブ川を離れても悪臭は消えず、風呂屋へ向かったが足を踏み入れる前に叩き出された。

仕方なく近くの河原で臭いを落としていたら、財布を流された。

財布を追って川に飛び込めば、足を攣って溺れかける始末。

死に物狂いで岸に着くも、釣り針を引っ掛けて手のひらを引き裂いた。

原因の釣り人に因縁をつけようと詰め寄ったところで、濡れた石に足を滑らせて顔から倒れ、額から血を流す。

逆に釣り人から心配され、手ぬぐいを渡されてしまった。

その時は、怒りと羞恥で前後不覚となり、只々手にした手ぬぐいを地面に叩きつけ、その場を足早に立ち去ったのだった。

その後も不運は続き、打ち水は被る、犬に吠えられる、石にけつまずく、足の小指をぶつける等々、小さな不幸のオンパレードに見舞われ、ほうほうの体で逃げ帰って来ていた。

そんな寅彦は今、裏門の番を任されている。

今朝からの話を仲間内にしてみたが、腹を抱えて笑われるだけで、何の解決にもならない。

ただ、番をしながら暇を持て余している間は、不幸も降って湧くようなことはなかった。

出がらしの茶をすすりながら、寅彦は朝からのことが何だったのか、ぼんやりと考える。

考えたところで答えがでるようなものではないが、暇を潰すにはちょうど良かった。

そんな時、裏門の木戸が音もなく開いた。

ぼんやりとしていた寅彦だったが、木戸の様子に気付くと大慌てで立ち上がる。

開いた木戸からは、襦袢姿の女がするりと入り込んできた。

後ろ手で木戸を閉め、器用に閂をかける。

そして顔を上げると、眼の前にいる寅彦と目があった。

女の動きが止まる。

寅彦も、思わぬことで動きが止まる。

女が艶っぽい視線を向けると、寅彦は自然と女の手を取っていた。

「お前様が、あちきを呼んだのかぇ?」

女の声を聞いて、寅彦ははいともいいえともつかない、うへぇと間抜けな声を出す。

「何だい、言葉も忘れちまったのかい?」

女を前にして、寅彦はこれまでの鬱々した感情が吹き飛んでいた。

何とも言えない感情が、体の奥底から沸々と湧き上がってくる。

「親分さんは、ございますの?」

「ああ、奥の離れにいるぜ」

喉から絞り出すように出た寅彦の声は、酷くかすれていた。

知らず、女の手を握っている寅彦の手に力が込められる。

そこから感じる女の体温は冷たく、硬い。まるで、冷えた鉄瓶を触っているようだった。

構わず、寅彦は女を抱き寄せる。

「あら、お前様が、あちきの相手をしてくださるので?」

「お前は、俺のものだ」

寅彦は熱に浮かされたように、女の体をまさぐっていく。

女はされるがまま、抵抗する素振りをみせない。

「あちきは、高うございますよ、お前様」

「構やしない。俺のものにしたい」

寅彦は女を強く強く抱きしめる。

それでも、女の体は冷たく硬い。

寅彦が女の唇を奪おうとすると、するりと滑り込んできた女の手がそれを阻む。

寅彦は女の手を乱暴に振り払うが、すぐに反対の手が滑り込んでくる。

寅彦が幾度振り払おうとも、ヘビのようにスルスルと女の手が滑り込み、女と寅彦の唇を隔てる。

女は愉快そうに笑っていた。

業を煮やした寅彦は、女の腕を力任せに押し付ける。

「それで、どうする?」

「お前を、もらう」

「そりゃ、運がなかったね」

女の声と当時に、寅彦の視界がぐるりと周り、天地がひっくり返った。

人の倍以上はありそうな女の腕が寅彦の首からするりと離れると、そのままドサリと地に倒れた。

女が倒れた寅彦を一瞥した時、どこからか男の咆哮が響き渡る。

それを耳にして小さく笑みを浮かべながら、女は建物の中へと消えていった。


******


どこで何を間違ったのか?

座敷牢の中で、緒方は一人考えていた。

自分はどこで判断を誤ったのか?

あの、生駒屋佐平次と名乗る男の甘言に乗ったこと。それがそもそもの間違いだったのではないか?

生駒屋と面識を持つきっかけは、山元の進言からだった。

今回の奇妙な殺しの下手人、その正体を掴んだのだと、山元から話があった。

とても人の手によるものとは思えぬ死体が出たことで、今回の件は初めから問題があった。

何をどうすればあれほど酷い殺しができるのか、皆目検討もつかなかった。

そのため下手人探しは難航するだろうと、容易に想像ができた。

そんな中、山元が確かな筋からの話だとして、生駒屋の名を出してきたのだった。

私は半信半疑のまま、生駒屋に会った。

もし無駄足になったとて、特段問題にする気もなかった。

山元も私と同じく、何かに追い立てられるかの様に手柄を必要としていた。

おかしな者にそそのかされたのだろうと、そう考えていた。

だが、生駒屋に会って話を聞くと、何故か相手に全幅の信頼を置くようになっていた。

生駒屋が語る物語はすべて真実であると、そう思わされていた。

相手の言に対して、疑問さえも抱かなかった。

あれは、あの状態は、正常だったと言えるのだろうか?

あの男に会ったこと、それ自体が過ちであったのではなかろうか?

「こんな場所にいたんじゃぁ、気も滅入りますなぁ」

緒方が顔を上げると、男が一人立っていた。

男は、泣き笑いのような奇妙な表情をしている。

「貴様も、私を笑いに来たのだろう?」

「いえいぇ、滅相もない。あたしはねぇ、心配で来たんですよぉ」

男の手には鍵束握られていた。

そして、あろうことか緒方が囚われている牢の鍵を開け始める。

「何のつもりだ、貴様?」

「貴方のところにはねぇ、あたしくらいしか、訪ねられないもんでしてねぇ」

男は牢の鍵を開けると、窮屈そうに身をかがめて牢へと入ってきた。

そして、緒方の対面に腰を下ろす。

「私を、助けようというのか?」

「あたしにぃ、貴方を助ける義理があると、そぅ、思いますかぁ?」

男は懐から小さな水差しを二つと薄紅色の和紙を取り出すと、丁寧に手元に並べていく。

そして和紙で器用に小さな包を作ると、その中へ水差しの液体を慎重に注いでいった。

緒方には、眼の前の男が何をしているのか、皆目検討がつかない。

ただ、男の作業を黙々と見守った。

「貴様は、何をしに来た?」

「あたしはぁね、心配の種を、摘みに来たんですよぉ」

男の視線が、今まで見たことがないほどに鋭利に緒方を捉えた。

瞬間、緒方は身の危険を感じ、身をよじる。

しかし後手に縛られていたため、バランスを崩しその場に倒れてしまう。

「貴様! 何をしているか」

男に向けて叫ぶ緒方の口の中に、小さな包が放られる。

それは吸い込まれるように緒方の口に飛び込み、そのまま飲み込まれていった。

「何を、何を飲ませた?!」

そう言うと、緒方の顔から血の気が引き、全身が大きく痙攣していく。

陸に打ち上げられた魚のように数度跳ね上がった後、緒方は動かなくなった。

「まぁ、運が悪かったんでしょうねぇ、貴方は」

男は最後にそう呟くと、その場を後にした。

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