第2話 やっぱり帰るぅ
頭を下げて深くお辞儀をしたまま、冬乃は両手に持った履歴書を俺に差し出した。どうやら冬乃、よほど緊張しているのか、俺がクラスメイトの寒崎遊人であることに気付いていない様子だ。
「よ、よう冬乃」
履歴書を受け取る前に気付いてもらおうと、俺は一言そう声をかけた。
すると冬乃は体をびくりとさせ、一度出した履歴書をすーっと手元に引き寄せ、それからゆっくりと顔を上げた。
「久しぶり、ってか、さっきまで一緒に授業聞いてたんだけどな」
真顔。冬乃、俺の顔を見て真顔になった。
そして一度口角を上げてから顔を引きつらせ、一瞬にしてさーっと顔を青ざめさせた。なんだこいつ、人の顔見て青くなるんじゃねえよ。
「お、おっはー、寒崎くん」
冬乃は引きつった顔のまま、ひらひらと手を振った。
そのぎこちなさと言ったら、まるで俺が大学生のふりをして本屋にエロ本を買いに行ったときのようだった。あのときのカウンターのお姉さんは、ぎこちない俺を見て軽く苦笑していたからな。
まあ、そのときの俺と同じくらいに今の冬乃はぎこちない、ということを伝えたかっただけだ。
「なあ冬乃? おっはー、はいいんだけどさ。今、もう夕方だぜ?」
冬乃ははっと目を見開き、素早く後方を確認。店の扉から見える夕日を確認し、頭をかきながら「あははは……」と空笑いした。顔を真っ赤にしながら。
そしたら冬乃、口をぎゅっと固く結んだと思ったら、今度は目に涙を浮かべやがった。なんだこいつ、顔を青くしたり真っ赤にしたり信号機みたいだなと思っていたら、今度は泣こうとしてるのか?
と、そんな思考の途中で――
「帰るうぅーーーー!!!!」
顔を真っ赤にし、目に涙を浮かべなら、冬乃はまるで子供のようにそう言ったのだった。俺はもうぽかーん、である。
「帰るぅーー!! 帰る帰る帰る!! なんで寒崎くんがここにいるの!? 聞いてないもん! 誰にもバレないようにしたかったのに、クラスメイトが働いてるなんて、私、聞いてないもん!」
クラスでは見せたことのない駄々っ子ぶりで、冬乃は言った。
「ちょっと待て冬乃。なんでいるの? って言われてもだな、ここは俺の叔母さんの店でな。だから手伝いとして無理やりここで――」
「言ってよー! ちゃんと先にそう言ってよーー!」
無理だろそれ。
「いやいや、俺と冬乃って、クラスでも別に仲良くないじゃん? そんなこと言うキッカケもないし、そもそも言う必要もないと思うんだが……」
「言う必要、あるの!!!」
言い切った。冬乃はそう言い切った。
俺は心の中で「ええ……」とため息をついたね。
「クラスの皆んなにアルバイトしてるのバレたくないから、だから学校から離れたこのお店で働こうと思ったの! なのに寒崎くんがいるんじゃ意味ないじゃん!」
もういっそ泣いているのではないか、くらいの勢いで冬乃は顔をぐしゃぐしゃにし、口をへの字に曲げ怒っている。残念だが冬乃、お前の言っていることはただのワガママだぞ? 俺は全然悪くないからな!
と、いうことは言わない。口に出さない。俺も一応この店を任されているという自負はあるからな。ここはちゃんと店員然とした対応を取らなければならない。
「ま、まあとりあえず座れよ、冬乃」
俺は一度カウンターを離れ、折りたたまれたパイプ椅子を持ってきてそれを広げた。人間、不思議と座れば落ち着くものなのだ。
「その右手に持ってるの、履歴書だろ? ここで働きたくて、それでそれを一生懸命書いてきたんだろ? 大丈夫だって、お前がバイトしてるってこと、俺は誰にも言わないから。だから安心して面接してってくれ。な?」
俺は精一杯の優しい笑顔を作り、精一杯の優しい声色で冬乃に椅子を勧めた。
冬乃は唇を尖らせたまま、拗ねたように自分の顔写真が貼ってある履歴書をじっと眺め、何かを考えているようだった。
「……本当に誰にも言わない?」
「言わないよ。別に俺は聖人ってわけじゃないけど、とはいえ人の秘密をバラすような悪趣味は持っちゃいないからな」
すると冬乃は少しだけ安心したように顔を緩め、緊張を解くようにしてほっと息をひとつ吐いた。そしてスカートを両手で抱えるようにしてから、ぎしりと音を立ててパイプ椅子に腰掛ける。それから冬乃は何かを探すようにして、キョロキョロと店内のぐるりを見渡した。
その間に、俺も冬乃と対面するようにしてパイプ椅子を移動させ、そこに腰を下ろす。
そんな俺を見て、冬乃は不思議そうに首を傾げた。
「あれ? 寒崎くん、店長さんは?」
「店長? ああ、オーナーね。オーナーの叔母さんは、今は海外に出張中でさ」
「そうなんだ。で、オーナーさんはいつ帰ってくるの?」
「いつ? そうだなあ……いつも通りだったら三週間後くらいかな」
何故か冬乃は驚いて、ガタガタッと音を立てて椅子から立ち上がった。
「さ、三週間!? え、寒崎くん? 私は? 私の面接はどうなっちゃうの? ここで働きたいのに、オーナーさんがいないんじゃ面接してもらえない……」
不安そうに、そして悲しそうにして冬乃は俯いた。
「いや、俺がするから」
そう、心配ご無用。こういうときのため、叔母さんからはちゃんと言われていたのだ。『私が不在のときは遊人が面接しないさい』、と。
が、しかし。心配ご無用のはずが、冬乃の顔色はみるみる内に青に変わっていく。そしてまた顔をこわばらせ、口元を軽くピクつかせ始めた。
「え? するって何を? もしかして……」
「もしかしても何も、今から俺が冬乃の面接をするんだよ」
俺の言葉を聞いて、冬乃は「ひぃ!」と小さな悲鳴声みたいなものを上げた。この年で女子に悲鳴上げられるとか中々ないぞ、ショックで寝込んじまうだろうが。
「やっぱり帰るぅーーーーー!!!!!!」
再び駄々をこね始めた冬乃をなだめるのに、この後五分かかった。
第2話 やっぱり帰るぅ
終わり