第13話 ゆびきりげんまん
「よっし、掃除も終わったな。冬乃、今日はこれで終わりだからタイムカード打刻しちゃっていいぞ」
軽い掃き掃除と陳列棚の拭き掃除、そしてそこに陳列された商品の整理を終えたところで、冬乃に言った。
結局、今日のお客さんはミチコさんを含めて三人だけだった。売上としては散々なものであるが、しかしこの店は陽子叔母さんの道楽みたいなものなので、さして気にする必要もなし。土地も陽子叔母さんのものだからな、ここは賃料もかかっていない。飛んでいくのは俺達のバイト代を含めた店の維持費くらいなものだろうし。
「ふーんふふーん、ふんふんふーん♪」
タイムレコーダーが『ガガッ』と鳴り、タイムカードが印字される。打刻された時刻は『19:37』。今日の労働時間はだいたい二時間半といったところだ。そして冬乃はそのカードを嬉しそうに、鼻歌を歌いながら眺めていた。
「冬乃、初めてのアルバイトお疲れさまな。どうだった? 初日はやっぱり疲れただろ? というか、なんでそんなにご機嫌なんだよ」
「うん、やっぱりちょっと疲れたかな。でもね、これ! このタイムカードを見たら疲れも吹っ飛んじゃった! これが私の働いた証になって、それでこれを元に私のお給料を計算するわけでしょ? なんか見てたらニヤニヤしてきちゃう」
冬乃は嬉しそうに、何度も何度もタイムカードを見ては口角を上げた。気持ちは分かる。俺も初めてバイトしたときはそうだった。
神奈川県の最低賃金が1,040円だから二時間半でだいたい2,500円強の日給になるわけだ。それを自分の手で初めて稼いだときの達成感と言ったらなかったね。まあ、冬乃が入ってくるまでの俺はちょっと惰性的になってしまっていて、そこんところをちょっと忘れかけていたけれど。
『ぐううーーーーーーーーーーーーー』
さて、バイト終了を知らせる冬乃の腹の音である。冬乃はハッとして、恥ずかしそうにお腹を押さえて俺を見る。
そりゃ昼にパンひとつしか食べなかったらそりゃ腹も減るだろう。いい加減、昼はしっかり食べてもらわなきゃ体を壊す。だいたいお前は少し細すぎるんだよ、もっと食え。ウチの母さんなんか今でも成長期だぞ、どんどん横に膨れ上がっている。
「冬乃、今日も家に帰っても夕飯作ったりできないんだろ? 店閉めたらこのまま一緒に飯でも食いに行こうぜ」
「え! ご飯付き合ってくれるの、寒崎くん?」
「ああ、別に構わないよ。冬乃、何食べたい? 俺は食べたいもの別にないから、お前が決めちゃっていいぞ」
すると冬乃は待ってましたとばかりに、にまっと口角を上げた。どうやらすでに食べたいものは決まっていたようである。
「はい、寒崎くん! ラーメン! 私、ラーメンが食べたいです!」
* * *
店内に入った俺と冬乃は朱色のカウンターに腰掛け、壁に貼ってある古びて黄ばんだメニューを見る。昔ながらのラーメン屋。店から割と近くにあるこの店を、俺は密かに贔屓にしていて、ちょくちょく通っていた。味は、まあそれなりに美味しい。
「女子一人だとラーメン屋さんってちょっと入りづらくて。でも寒崎くんが一緒だったら平気。嬉しいなあ、久しぶりにラーメン食べられる。ねえねえ、寒崎くんは何にするの? やっぱり味噌ラーメン?」
「いや、俺は普通の醤油ラーメンだな」
「えー、味噌にしなよー。寒崎くん分かってないなあ。ラーメンはね、味噌が至高なの。味噌が一番美味しいの。ねえ、マスターもそう思いますよね?」
「ふぇ? わ、ワシ、マスターなの? 岩井源五郎というんじゃがぁ……」
カウンターの向こう側にいる恐らく齢八十を超えているであろう店主――岩井のじいちゃんは、ぷるぷる体を震わせながらちょっと照れた。というかラーメン屋でマスターか。冬乃ってどういう家庭で育ったんだ?
「それじゃあ今日から岩井マスター源五郎さんですね」
「おい冬乃、岩井のじいちゃんを勝手にミドルネームつけて呼ぶんじゃねえよ」
「えーなんで? 可愛いじゃん。ねえ、マスター?」
「そ、そうじゃのう、ワシ、今日から岩井マスター源五郎さんじゃのう……」
岩井のじいちゃん、マスターを気に入りやがった。
「じゃあ岩井のじいちゃん、俺は醤油で」
「だからー、寒崎くん話聞いてた? マスター、味噌ふたつで」
「俺の食いたいもの食わせろよ」
結局、俺は自分の意見を通しきって醤油ラーメンを、冬乃は至高と言って譲らない味噌ラーメンを注文した。
ラーメンが出来上がるまでの間、俺と冬乃はたわいもない話をしていたのだが、その中でどうしても聞いておきたいことを俺は冬乃に訊いてみた。
「なあ冬乃、お前どうして親とケンカしちゃったんだよ。原因はなんだ?」
そう、原因。冬乃が一人暮らしを始めたのも、結局は親子ケンカが原因なのである。でも俺はそのケンカの理由を知らない。あまり人の家庭事情に首を突っ込むのはよくないのかもしれないが、でも俺はそれでも訊かずにはいられなかったのだ。少しでもこの冬乃の役に立てればと思った。
「うーん……」
「こういうことは一人で抱え込むよりも、誰かに話した方が絶対にいい。それに、いつまでもこのまま一人暮らしを続けるわけにはいかないだろ? いつかは必ず親から学校にだって連絡が行くし、問題にだってなるはずだ」
「それは大丈夫なんだけど……お父さんもお母さんも、世間体をすっごく気にしてるから学校に言うのはあり得ないの」
冬乃は少し寂しそうにそう言ったが、そんなこと本当にあるのだろうか。年頃の娘が家出をしたら普通、両親は気が気じゃないんじゃないだろうか。何故、連れ戻そうとしない。娘の一人暮らしが心配じゃないのか。
「寒崎くん、誰にも言わない?」
そう言うと、冬乃は俺の返事を聞く前に、通学用バッグを開けて中から何やら雑誌を取り出した。そしてページをぺらぺらめくり、雑誌を開いた状態で俺に手渡してきた。どうやらこれはファッション雑誌らしい。街中で見つけたオシャレ女子のポートレート写真特集が目に入った。
「私ね、この前原宿歩いてるときに、その雑誌のカメラマンさんに写真を撮ってもらったんだ。ここに小さく載ってるの、私なの」
「え!? うそ、冬乃雑誌に載ったのか!?」
レイアウトされたポートレート写真の中に、冬乃はいた。いつもとは違い、髪をアップに上げているのですぐには気が付かなかったが確かに冬乃だった。これだけ顔面偏差値の高い女子を見間違えるわけがない。
黄色のレイヤードスウエットに黒の細身のパンツを合わせ、アクセントとして白いシャツをチラ見せさせているオシャピーな冬乃がそこにいた。先日お邪魔したときの散乱した洋服類を思い出す。こいつ、やっぱりオシャレが好きなのだ。というか、マジで可愛いな。なんだったら俺もこの雑誌欲しいんだけど。
「それでね、そのときカメラマンの人に名刺もらったの。ウチの読者モデルにならないか、って言ってもらって」
「それってスカウトってやつかよ!?」
「うーん、まあそんな感じなのかな。分かんない。でも私、すっごく嬉しくて。読者モデルをやってみたいって思った。それでお父さんとお母さんに許可をもらいたくて全部話したんだけど……結果は撃沈。ものすごい勢いで反対されちゃった」
そう言って冬乃はぺたんとカウンターに突っ伏した。
しかしまあ、なんというか凄いわ。小さなスナップ写真とはいえ、冬乃が雑誌に載っていることが不思議でたまらなかった。そしてスカウトである。今、こうして普通に喋っている冬乃が芸能人になるかもしれないのだ。凄いと思うしびっくりなんだけど、なんというか、現実感がない。
「でもね、私、諦めないよ」
突っ伏したまま、冬乃は顔をこちらに向けて決意を表明した。
「諦めない。昔からお洋服が好きで、オシャレが好きで、だけど読モ(読者モデル)になるとかそんなことは夢の話だと思ってた。でもね、そのチャンスが巡ってきたの。チャンスをものにしたいの」
「でもそれって、やっぱり親の許可が必要なんだろ?」
「……そうだね。だから家を飛び出したんだけどね。家出すればお父さんとお母さんも許してくれるんじゃないかって。それだけ私の意思は固いんだって分かってもらえるかなって思って」
いつも明るくて、悩みなんてなさそうに見える冬乃。でも心の中では悩んで、葛藤して、苦悩していたのだ。
「ふぁいぃ、お待ちどうさまぁ。味噌ラーメンと醤油ラーメンだよぉ……」
と、そこに。岩井のじいちゃんがラーメン二つをそれぞれのカウンターに置いてくれた。それを見て、冬乃はガバっと起き上がる。
「来た来た! うわあー、美味しそーう! 寒崎くん、早く食べよう!」
冬乃は割り箸をパキンと上手に割ると、ずずずっと麺をすすった。
「んーー! 美味しい! マスター、これすっごく美味しいです!」
「んああ、ありがとうねえお嬢ちゃん。マスター、頑張っちゃったぁ……」
口いっぱいに頬張る冬乃は、これ以上ない幸せそうな顔を俺に見せてくれた。なんか美味そうだな。やっぱり俺も味噌にすればよかったかな。
でも、夢の話か。
その冬乃の夢の話が現実になるかもしれないんだよな。
「……なあ冬乃」
「ん? どうひやのはんさきふん?」
口に食べ物を入れたまま喋るんじゃない。
「俺にも、冬乃のその夢、応援させてもらえないかな」
冬乃は口に麺をいっぱいに頬張ったまま、きょとんとして俺を見た。でも、それからすぐに嬉しそうに目尻を下げ、笑顔を見せたのだった。
「――いいよ、応援して。寒崎くんが一緒にいてくれば、私の夢、叶うかもしれない。だって寒崎くんて、すっごく頼りになるんだもん」
そして冬乃は箸を置き、小指を出した。
小さくて色白で細い、冬乃の小指。
「はい、約束。指切りしよ」
「子供かよ。そんなことしなくても、俺はお前を――」
「ダメ。私が指切りしたいの」
俺と冬乃はお互いの小指を絡ませた。「ゆーびきーりげんまん」という冬乃の掛け声に乗って、手をリズミカルに上下させる。
そして、「ゆーび切った!」と、冬乃が締める。そのときの冬乃の顔を見て、笑顔を見て、こいつにはずっと笑っていてほしいと、俺は心の中で一人思った。
ラーメン屋の中で、俺と冬乃はひとつの約束をした。
俺が冬乃の生まれたてで大きな夢を応援するという、青い約束を。
第13話 ゆびきりげんまん
終わり




