妻の願いを妨害する旦那様
ベッドの脇に椅子を置いて、レオンはオリヴィアの手を握り締めていた。
「もう大丈夫ですよ?」
先に食事をするため体を起こしたオリヴィアは、今も沢山のクッションを背もたれにしてベッドに座り、レオンに微笑み掛けている。
「まだ、駄目だ。今日は寝ていてくれ」
オリヴィアが倒れたのは、夜会から王都の邸に戻り、自室にて侍女らに紺色のドレスを脱がされた後だった。
疲れが一挙に出たのは、公爵夫人としての役割を終えた安堵からだろうか。
それからオリヴィアは熱を出して三日も寝込み、今はやっと熱が下がったところである。
おかげでレオンはまだしばし王都に留まることに決めていた。
どうせダニエルらの調査に協力するために、もう一度王都に呼ばれることを考えれば、こちらにあるうちにすべて終えられるように計らって貰おうと考えている。
領地に残した者たちは、その分大変なことになろうが、こうなっては仕方あるまい。
「あの、旦那様。お時間はあるでしょうか?お話ししたいことがありまして」
きゅっとレオンの手を握り返したオリヴィアに、レオンは柔らかく微笑んで首を振った。
「悪いがその願いは叶えてやれん。却下だ」
オリヴィアは固い表情を崩して、くすりと笑う。
「まだ何も言っていませんよ?」
「聞きたくもないと言ったら、臆病者だと俺を笑うか?」
「いいえ。聞いて欲しいと言っても、同じように私を笑いますか?」
オリヴィアに言い返されたことが嬉しくて、レオンはなお一層皺を深めて笑った。
まるで昔に戻った気分だ。
幼い頃のオリヴィアは、決して大人しい子どもではなかった。
よく言い合いになって、レオンの方が泣かされていたくらいに、勝気な少女だったのだ。
それでも嫌いにならなかったのは、オリヴィアが意地悪を言ってレオンを泣かせたことがないからである。
多くの場合、幼いレオンがまだ知らないことをオリヴィアが先に知っていて、それが悔しくてレオンは泣いていたのだ。
そのうえ泣かせてしまった後のオリヴィアはとても優しくて、レオンが嫌いになる要素は一切なかった。
しまったと慌てふためいたあとに、いつも泣き止むまでオリヴィアはレオンを励まし続けてくれたのである。
先生に聞いたばかりだったのよ。
たまたま知っていただけなの。
レオンだって凄いと思うのよ?
ねぇ、一緒にお勉強しましょうよ。
二人とも同じだけ物知りになればいいんだわ。
最後のそれが、いつもレオンを喜ばせた。
その言葉を待つために泣き続けていたのではないか、と側にあった母親たちは微笑ましく疑っていたが、幼い二人は知らず。
懐かしい記憶がレオンの胸を熱くして、涙を誘った。
もちろん、本当には泣いていない。
「私の生家は罪を犯して、なくなりました。私だけが責任を取らないというわけには行かないと思いますし、伯爵家に生まれた者として──」
「聞きたくないと言ったであろうに」
「どうしても聞いていただけませんか?」
「くっ……俺がその顔に弱いと知って、言わないでくれ」
オリヴィアが力なく微笑めば、小さな華が見えるレオンだ。
たまりかねて、レオンは片手を伸ばしオリヴィアの頬を撫でると、先に言った。
「何を言われようと、俺はオリヴィア以外を妻にする気がない。オリヴィアが公爵夫人は無理だと言うなら、俺も公爵を辞めることにする。この爵位も領も王家の誰かに譲れば済む話だろう。オリヴィアがなお責を取りたいと願うなら、夫として俺も共に責を取ることにしよう。家族が共に入所出来る収容所もあるから、そこに入るといいな。二人でこの国の役に立ってやろうではないか」
オリヴィアがふわりと微笑み、また華が咲けば、レオンは本当に泣きそうになって、奥歯を噛み絞めた。
「旦那様は狡いです」
「そうだとも。俺は狡く、弱い男なんだ。だからどうか、これからも俺の側に居て欲しい」
ぽろりと零れた涙は、レオンからではなかった。
レオンが指でオリヴィアの頬を拭う。
オリヴィアはまた微笑んだあとに、小さな声で呟いた。
「母はこれで満足したのでしょうか?」
レオンはしばらく考え込んでいたが……。
「すまない。俺にも分からん」
正直に伝えれば、オリヴィアは泣きながら微笑むのである。
「嘘を付かない旦那様が好きです」
「……俺もだ、オリヴィア」
オリヴィアがここで首を小さく振ったのは、レオンの気持ちに対する拒絶ではないだろう。
レオンはだから傷付かなかった。
「ずっと考えてきました。ずっと……何も知らなかった頃から、母が何を考えているのか、いつも分からなくて。それは幼いせいだと、私が何も知らない未熟者だからだと、そう考えていたのです。いつか母のように爵位を継げるほどの立派な大人になれば、分かるときが来るのだろうと信じていました。ですが色々と知った今でも、何も変わりません。母が……母のことが何も分からないのです」
オリヴィアの母は、元々ダニエルの兄を婚約者としていた。
その兄を殺害して、伯爵家の婿に入った男がダニエルである。
オリヴィアの母の結婚は、『復讐』と『故人の願いの実現』という、到底相容れぬ二つの目的を達成するためになされたことだと、聖剣院では結論付けているが。
調査を重ねるうえで、誰もがオリヴィアの母の心境を理解出来かね、苦しめられた。
それは調査の進行を遅らせたほどである。
ここまで分からないのは、すでに彼女の心が壊れていたということなのだろうか。




