偽りの幸運のはじまり
夜会の会場には、あちらこちらで人の輪が出来ていた。
話し掛ける相手を見失った隣の妻は、ダンスや食事はまだなのかと男に聞いてくる。
男だって何も知らないが、王家主催の夜会のはじまりとはこういうものだと、知ったようなことを言っておいた。
市井で生まれ育った妻に、そんなことも知らないのかと笑われることだけは男には許せない。
急に場がしんと静まると、男は慌てて顔を上げて、周囲の様子を窺った。
その前に案内はなされていたが、男はまた聞いていなかったのだ。
皆が見ているからと、男も正面の扉へと目を向けた。
扉が開き、そこにいたのは娘だ。
まるで道を作るようにして並ぶ貴族の間を、婿と娘が歩いていく。
晩餐会とは違って、今度は男の目と鼻の先を二人は通り過ぎた。
だが男は娘に声を掛けることが叶わない。
それくらいは男の妻にも分かったらしく、ここでも彼女はおとなしくしていた。
男はただ周りに合わせ恥を掻くまいとしていただけで、王家主催でありながら王家が参加しないこの場で、娘夫婦が最も高貴な存在だとは分かっていない。
新婚だからこんな役目を負わされているのだろう、可哀想に、とせいぜい心の中で強がれたくらいだ。
そうして遠く離れていった娘夫婦は、ダンスホールの中央で立ち止まった。
男は不思議に思う。
これは誰だろう、と。
男の記憶にある娘とは、ひとつも重ならない美しい貴婦人がそこにあった。
その美しさは、何故かあの女ではなく、兄のことを思い出させる。
家を継げない次男でありながら、幼い頃から立派だと称され、格上の家に婿に入る予定だった、自分より劣る容姿を持っていた男。
その次兄は、男とは最後まで相容れることのない存在だった。
いやいや、まさか。それはない。それだけは。
乱れた思考に合わせて男の呼吸が怪しくなっていると、曲が終わった。
どうやら娘はダンスを終えたらしい。
男は娘の晴れ姿をいつも見ていられなかった。
花嫁姿だって、怯えてばかりいたせいで、よく覚えていない。
気付けば娘の姿は、集まった貴族たちの隙間からしか見えなくなっていた。
それでも目に入る、高位の貴族たちに取り囲まれて微笑む様子は、とてつもなく憎く、忌々しい。
強い怒りは、男に不安が消えたように感じさせた。
だから男はなお憤る。
相変わらず恩知らずな娘だ。
父親に挨拶も出来ないとは。
可愛げもなく、賢しいだけだったあの女にそっくりではないか。
嫌な女だった。本当に何もかもが嫌な女だった。
面倒な契約を残しやがって。
男の怒りは、過去へと進んでいった。
あんな契約。
こちらから破棄してやればよかったのだ。
正式に訴え出れば、無効となっていたのではないか。
男は憤っているが、訴え出ることなど実際には出来たわけがない。
仔細調べられるわけにはいかなかったからだ。
『無事にオリヴィアを嫁がせなかった場合には、この両親に罪を問う』
男が辞めさせた家令から契約書に記載ありとして、聞かされた言葉だ。
責ではなく罪を問うとはっきり書かれているからには、これを破ると間違いなく投獄されるだろう、と家令は男に言ったばかりではなく、ご丁寧にもこの機に公爵家の恐ろしさをこれでもかと男に説明している。
それで男はこの日から暴力は控えるようになった。
傷痕について後から何か言われることを恐れたからだ。
されども近付いて何もしない自信など男にはなかった。
あの娘は存在そのものが悪い。
そこで男は、娘を外の物置小屋に閉じ込めておくようにと家の者たちに命じるのだった。




