貴族に向かないもう一人
公爵夫妻の繋がれた手に伝わる細かな振動は、オリヴィアの手から生じたものではなかった。
だがその震えも、レオンが手から伝わる温もりを実感しながら妻の方へと振り返ったときには止まっている。
そこにあった、いつも知る妻ではない、公爵夫人としての顔。佇まい。
レオンは悪い予測も立てて、そうなった場合には、後のことはあの男に任せ、早々に帰宅する算段も整えていた。
妻の過去を知ったからこそ、怯えてしまい、どうにもならなくなるのではないかと危惧していたのだ。
ところが妻は、その深緑色の瞳に映る人物が歯牙にもかけぬ存在だと説明するかの如く、背筋をしゃんと伸ばし、男を見据えながら、優雅に美しき微笑を保っている。
オリヴィアの気持ちを探る視線は、周囲のあちこちから注がれていたが、オリヴィアの微笑からは、恐れも不安も感じられず、それどころか積年の恨みや憎しみさえも読み取ることは出来ない。
そうして興味本位でオリヴィアを見てしまった者たちは、何も得られなかっただけで済まず、後悔することになった。
オリヴィアのその微笑みが問い掛けてくるからだ。
『あなたは誰を前にしているか、分かっているのかしら?』と。
もちろんオリヴィアは何も語らないし、心の中でもそんなことは思っていないだろう。
それでもそう見えたなら、公爵夫人として合格である。
ならば自分は、より公爵らしく。
己を律したレオンの瞳が、妻の目からは見えない場所で凍てつくほどに鋭く光った。
「お前は俺に妻の何を聞いている?」
男は敏感にレオンの変化を感じ取ったようである。
静かに片足を引いていて、もう逃げたいのだとその体は語った。
「は、いえ。娘の様子でも聞かせて頂こうかと思いまして」
「目の前にオリヴィアがいて、俺に問う気か?」
時を同じくして、会場の入り口付近にて。
同じように静かに逃げ去ろうとした者たちが、何故か王城の使用人らに足止めされて顔を青褪めさせていた。
さすがに男は離れたところでそのようなことが起きているとは知らないが、嫌な予感を強めているのだろう。
その瞳からは急速に光を失い、額にも汗を滲ませ始めた。
一方で娘の方は父を見ては、不思議そうに首を傾げている。
何をそんなに怯えているのかしら?といったところだろう。
「あ、いや、その……婿殿がどう感じているかをお聞きしたかっただけで」
「これ以上ない素晴らしい妻だ。大人しく引き渡してくれたことには、礼を言おう」
男の額に滲んでいた汗が、粒となり流れ始めた。
「はは。素晴らしいとは……娘を良く言ってくださり、有難く思いますが。何かご不満でもあれば、遠慮なくなんなりと教えて頂ければと」
「不満など何もないし、これからもあることはないが。あったとして、それを聞いてお前は何だと言う?」
「それは……もちろん、親として……公爵様には出来る限り報いようと……」
この程度の恐怖で呼べなくなるくらいなら、最初から婿などと呼ばなければいい。
呆れながら、レオンはぐっと声を低くし言った。
「お前はもうその権利を失っている。オリヴィアが俺の妻であることをゆめゆめ忘れるな。と言っても、今後はいくら忘れようと、お前にはどうにもならないがな」
男は返事を出来なかった。
返答の代わりのように、顎に溜まった汗の粒が顔から離れ、ぽつんと落ちる。
その様が男のこれからを示しているように感じた誰もが、自然目を背けた。
男に同情したのではない。そのイメージに自分が重なりそうで、怖ろしかったのだ。
この場にあるほとんどの者は、今日の晩餐会に呼ばれた意味を考え始めている。
気が付けば汗まみれのこの男とて、そうだった。
だが例外もある。
それはレオンとオリヴィア。
そして二人の女──。
「酷いわね、あなた。置いていかないでくださいます?」
この状況に何ら臆することなくゆったりと歩み寄ってきた女は、男の真横で立ち止まった。
扇を広げ顔を半分隠しているも、刻まれた眉間の皺からは知りたくもない不快感を伝えられる。
この女もまた、貴族には向いていないことがレオンには現れた瞬間から理解出来た。
「まぁまぁ。お久しぶりですわね、レオン様。こちらに向かいながら、お話は聞いておりましたのよ。義父相手だからと遠慮することはございませんわ。その娘に手を焼いているなら、そうだとはっきり仰ってくださいな。うちの人が対応を考えますわよ」
間違いなくこの女、貴族には向いていなかった。




