最愛の妻を隠す旦那様
集まっていた人々がさっと避けて道を作った理由を、本当に分かっていないのだろう。
その娘は遠慮もなくかつかつとヒールの音を立て、レオンたちの元に近付いて来た。
そしてたった今レオンと話していた伯爵夫妻とその息子、娘たちに謝罪どころか挨拶もせずに、目の前で立ち止まると語り出した。
「お久しぶりですわね、お姉さま!とてもお元気そうで驚いたわ。結婚したら、お手紙ひとつくれなくなるなんて。それだけお身体が辛いのかと、我慢しておりましたのに。わたくし、捨てられたみたいで、とても悲しいですわ」
レオンは一歩前に出て、その腕を広げ、オリヴィアを庇い隠した。
娘の目は余程濁っているのだろう。
レオンが汚物でも見るがごとく、昏く澱んだ視線を向けているというのに、レオンが近付いたことにあからさまに喜んだのだ。
この予測不能な態度に、自分が愛妾だと騒いでいたあの侍女に通じるものを感じ取ったレオンである。
「レオン様もお久しぶりですわね。わたくし、ずっとお会いしたいと思っておりましたの。それなのにお姉さまったら、結婚してから一度もレオン様にお会いさせてくれないんですもの」
レオンが怒鳴り散らさずに済んだのは、オリヴィアが後ろからツンとレオンの袖を引いたからだ。
振り返ってみれば、申し訳なさそうに眉を下げるオリヴィアがいて、レオンは首を振った。
他人の振舞いにまで、オリヴィアが謝罪することはない。
いかにこの娘が無礼極まりない行いをしているとして、オリヴィアには関係ない話だ。
しかし娘は、レオンが振り向いたことで、無視されたように感じたのだろう。
わざとらしく頬を膨らませて、オリヴィアではなくレオンを見て訴えるのだ。
「まぁ、酷いですわ、お姉さま。レオン様とお話もさせてくださらないなんて」
ところがレオンは、娘が感じた通りに無視を続け、オリヴィアの頬を撫でていく。
少しずつ距離を取りながら、この事態を見守ることに決めていた周囲の者たちが、少々色めいた。
娘はこれが許せなかったのか。
まだレオンがそちらを向いていないのに、勝手に語り始める。
「だけど驚いたわ、お姉さま。公爵家って凄いのですわね。だってあのお姉さまが、こんな風に化けられるのですもの。嫌だわ、一体どれだけの時間とお金を費やしていただいたのかしらね。まだ結婚したばかりだというのに、レオン様にはご迷惑ばかりお掛けして。わたくしだったら──」
「黙れ」
妻に絆されて、これなのだから。
オリヴィアがいなければ、レオンは問答無用でこの娘を切り捨てていただろう。
それは物理的に。
今までと変わった地を這う低い声に、この場にある者たちはますます気付かれぬようによく配慮してレオンたちから距離を空けていった。
それでもまだ娘が気付かないのは、これまで余程幸せに暮らしてきたという証明であろう。
「お怒りは分かりますわ、レオン様。わたくしもお姉さまにはずっと心を傷付けられて……お姉さまのわがままな振舞いには、お父さまもとても困っておいででしたのよ。だからレオン様にお会いしたら、お姉さまのせいで疲れた御心を癒して差し上げるようにと、いつも言い付けられておりましたの。ですからレオン様──」
「お前は耳が悪いのか?俺は黙れと言ったのだぞ?」
会場の方がしんと鎮まり、次の音楽も流れない。
誰もが聞き耳を立てて、レオンたちを見守っているのだから、そろそろ現れても良い頃だが。
まだ機を読んでいるのだろう。
レオンは先に、側に残る者たちをこの場から離してやることにした。
古き歴史ある侯爵一家はレオンの許可なく下がるわけにもいかず、だからと言って、この場でレオンを差し置き、無礼な娘に意見するわけにもいかず。
誰も顔に出さずとも、大変困っていることはレオンにも分かっていた。
「侯爵。すまないが、良からぬ邪魔が入った。興味深い話を聞けて妻共々有難く想っているし、まだまだ話したいところだが」
「いえいえ、興味深く楽しませていただいたのは、こちらの方です。どうやら急なお取込みのようですから、私共はこれで。宜しければ、お話の続きは後ほどにでも是非」
「あぁ。今日のところは難しいかもしれないが。こちらこそ、また改めて願いたい」
オリヴィアはレオンの後ろから身を出すと、侯爵たちに向けて軽く会釈した。
平謝りしたいところであろうが、これに耐えていたのは、公爵夫人としてこの場にあろうと努めているからだと分かっているレオンは胸が詰まり、すぐにオリヴィアの腕を引き、その背に隠す。
それは、この場で頭を下げて詫びねばならない者が、口元には笑みを浮かべたまま、鋭い視線で姿を見せたオリヴィアを睨み付けていたからでもあった。
妬み、嫉み、恨み、憎しみといった負の感情だけをじっとりと込めた視線は、オリヴィアが隠された後もなお続いている。
さて、どこから文句を付けてやるべきか。
侯爵一家が離れたところで、レオンは口を開いた。




