公爵家の闇
オリヴィアが数名の侍女たちによって、体を磨かれている頃。
朝を知らず、すえた臭いの中で、冷たい石の床の上に直に座る女は、膝を抱えて小さくなっていた。
時折ぶつぶつと小声で何事かを呟くこともあったが、暗闇の中、石の壁に反響する自分の声の不気味さに恐れをなした女はすぐに黙り、しばらくすれば、何もかも忘れてまた呟いて、その声に怯えて黙る。
その繰り返しで、女の時間は過ぎていった。
闇の中で、光は救いだ。
女は目を閉じていてもすぐにそれに気が付いた。
光の筋と共に、上から頬をそよぐ風が下りて来る。
「公爵さまぁ……」
立ち上がろうとしたが上手くいかず、女は転げた。
生温く感じる風と共に足音が下りて来て、やがてランプを手に現れた男たちは、確かに公爵であるレオンと、執事長を含めた公爵家の侍従たちだった。
全員が布で顔の下半分を隠しているのは、この地下室から何をしても消えなかった独特の臭いへの対策だろう。
「まだ声を出せるとは。見上げたものだな」
女は転げた体を起こし、今度こそレオンに縋って抱き着こうとしたが、それは目の前の鉄格子によって阻まれる。
女は仕方なく、鉄の棒へと掴まって、そして叫んだ。
「どうか、お助けくださいませ!あれほどに、愛してくださった仲ではございませんか!どうして急にこのようなことにっ!」
ランプの灯はそれぞれの顔に独特な深い陰影を作り出して、薄気味悪くそれらを揺らした。
レオンは静かに息を吐くと、酷く色褪せた瞳で女を見やる。
「一晩では、まだ分からんか。仕方ないな」
レオンは後ろに控えていた侍従たちに何やら指示を出したが、それからまた女に向き直ると、女の顔が良く見えるようにランプを前へと掲げてから言った。
「もう一度だけ言ってやる。これまでお前の相手をしてきた男は、俺ではない」
女はかっと目を見開いたあとに、唾を飛ばして叫び始めた。
レオンはすぐに体を後ろに引いたために、被害は免れている。
「嘘よ!嘘だわ。そんなことあり得ないもの!そうだわ、あなた!本当の公爵様ではないのね?本物は?本物はどうしたのよ!公爵様をどこにやったと言うの!」
鉄格子を壊そうとしているのか、両手でガンガンと叩いているが、それでは手を痛めるだけだろう。
その匂いが、鉄格子そのものから香るのか、女が新たに生んでいるのかは分からないが、レオン達の鼻には布越しにも強烈な鉄錆の臭いが届いていた。
「ねぇ、どうして!どうしてなの!公爵様はどこにいらっしゃるの!おかしいわよ!おかしいのよ!だって、公爵様が無事なら、すぐに助けてくださるはずですもの!私にこんな扱いをするなんて!あり得ない!!私は公爵様の真実愛する相手なのよ!!!こんなことをしてどうなるか、あなたたちには分からないのね!!!!」
髪を振り乱して、唾を飛ばし、手から血を出し、叫ぶ女を。
その公爵様とやらは、はたして助けたいと願うだろうか。
レオンはとことん冷えた瞳で、女を観察していた。
この女は、公爵を騙る相手に呼び出されるたび、他の侍女らに仕事を押し付けていたと言う。
その公爵は、顔を見ることがまだ恥ずかしいからと、いつも顔を隠していたそうだ。
二人の逢瀬の部屋は決まっていて、古い家具などを保管している、公爵邸の奥まった場所にある倉庫のような部屋だった。
室内の装飾などに興味のないレオンが当主となってからは、人が頻繁に立ち寄ることは減っていたものの、たとえ使わなくとも古い家具はしかと管理され、いつでも使えるように磨かれてあることが公爵家の常である。
ある男が、昨夜のうちに行方知らずになっていた。
実はこの男、古い家具の管理を一任されていた使用人だ。
その対応の早さからして、手引き者がいたことは間違いない。
その手引き者だと思われる、そこそこの勤続年数を誇る一人の侍女が、同じように姿を消した。
当主と夫人に直接関わりのない侍女たちをまとめる役目をしていた彼女は、つまり掃除係や洗濯係の侍女たちを統括している立場にあった女だった。
この消えた女こそが、地下室に入れられたこの女をレオンの愛妾だと認めていたせいで、本人含め周囲はこれを信じ、妄言はいつしか真実となって歩き出しては、巡り巡ってオリヴィアを貶めた。
髪を振り乱して叫ぶこの女もまた、被害者であったのかもしれない。
だがレオンは許す気が一切なかった。
「真実愛する相手か。俺の妻はそれを知ったうえで嫁いできた根性がねじ曲がった嫌味な女……だったか?あるいは…………」
地下に似合う低い声は、もう女には届いていないのだろう。
地下室に闇が戻ってからも、しばらくの間、醜い叫び声は続き、だがそれは誰の耳にも届かなかった。




