ケルダード教会で婚約
次の日、まだ雨は降り続いていた。
昨日の激しい雨とは違い、紫陽花を優しく撫でるような細かな雨が街の様子をぼかすように降っていた。
「お嬢様、雨で沈みがちな気分が少しでも明るい気持ちになるように、今日は髪の毛を編み込んでみますか?」
と侍女のアリスが聞いてくれたので
「午後から行きたいところがあるの。目一杯オシャレをしたいわ」
と言うと
「お嬢様がお出かけする気持ちになってくださってアリスは嬉しゅうございます。」
と嬉しそうに私の髪を結い、まだ袖を通していない外出着を出してくれた。
「マリーナお嬢様、ピンキーリングなんて持っていました?」
と聞かれたので
「在学中に友人達とお揃いで買ったのよ。気分を変えるためにつけてみたの」
と言うと
「そうなんですね。シンプルで素敵ですね」
と言われた。
昨日、文官様が帰った後、体調がすぐれないと言って、部屋で一人ディナーをしながら一生懸命考えた嘘を言っておいた。
ピンキーリングでよかった。
中指とか目立つ指だと色々と聞かれたかもしれない。
この指輪、外れないから言い訳に困るわ。
支度が終わると、ギルバートの部屋に向かった。
ギルバートは、1人がけのソファーに座り、本を読んでいた。
「姉様、どこかにお出かけですか?」
ギルバートはニッコリ微笑んだ。
「ええ。そんなに遅くならない予定なので、何かお土産を買ってくるわ。」
「もしも可能なら、何か本を買ってきてください。
屋敷の図書室にある本はほとんど読んでしまいました」
「わかったわ、ギル。本屋さんに寄れたら寄ってくるわね。それじゃ出かけてくるから」
馬車に乗り、ケルダード教会に向かった。
侍女や執事には
『お父様とお母様の無事を祈りに行きたいの。
祈りの場に付き添いは不要です』
と頑なに一人で行きたいと伝えて、渋々認めさせた。
王都にはいくつもの有名な教会があるがケルダード教会は初めて聞く教会だった。
馬車は貴族街を抜け、繁華街を抜け、どんどん王城に近づいていくと、王城の手前にある中央省庁が立ち並ぶエリアに入って行った。
そして財務省の官庁前の路地裏。そこに小さな教会があった。
「お嬢様、つきましたよ。こんな所に教会があったとは!よくご存知でしたね」
御者はびっくりしていた。
「ええ、お友達と約束をしているの。
帰りは、そうね、お買い物をして帰るから友達に送ってもらうわ」
と言って馬車を返した。御者は何にも疑問に思わなかったのか素直に帰って行った。
帰りは辻馬車を頼もう…。
私は教会を見上げた。
こじんまりとした小さな教会は、まるで小さな貴族のタウンハウスのようで本当にひっそりと建っていた。
教会の右横は中央官庁の倉庫、左横は庁舎用馬車の修理工場で、人がいないわけではないが、賑わいはなかった。
表通りには庁舎職員や訪ねてくる人を目当てにしたカフェや食堂、本屋があったので、表通りとの違いにびっくりした。
私は教会の扉を開けた。
入り口すぐには百合の花が飾ってあり、室内は綺麗に手入れがされていたが、人は見当たらない。
「こんにちは」
私は大きな声を出した。すると奥から司祭見習いの少年が出てきた。
「こんにちは、お嬢様。いかがされましたか?」
少年は明るい声で言った。
「あの!…13時に『司祭様の間』で待ち合わせをしているのですが…」
私は、だんだん自信のない声になってしまった。
「わかりました。こちらです。」
少年は、礼拝堂の奥にある通路を通り、1番奥の部屋に案内してくれた。
少年はノックの後、扉を開けて、
「中でお待ちください」
と言った。
私は中に入ると、そこにあったソファーに腰掛けた。
ソファーは古いものだが、表面のベルベットは上質で、肘掛けの細工も細かくていいものであることが見て取れた。
約束の13時まではあと10分。
私は室内を見回した。
この部屋にも百合が飾られており、壁の本棚には沢山の古い本が並んでいた。
「こんな所に教会があったのは知らなかったわ」
私は独り言を呟いた。
この教会の近くには、ステンドグラスが有名なザーランド大聖堂がある。
ザーランド大聖堂は魔法省の向かいにあり、大きさは魔法省と同じくらい。この辺りの教会といえばザーランド大聖堂だ。
でも、この教会も素敵ねと私は思いながら心を落ちつけるように努めていると、右手が熱くなってきた。
不思議に思っていると、ノックの音がして、司祭様と、上級文官のローブを纏った栗色の髪の男性と、その後ろに老齢のメガネをかけた身なりのいい男性が入ってきた。
私は淑女の挨拶をした。
「やぁ、アデレイド伯爵令嬢。約束通り来てくれてありがとうございます。
早速だけど、あまり時間が取れないから手続きをしてしまおう。
こちらはケルダード教会の司祭様。
そしてこちらはザルバ子爵。婚約の手続きには立会人が必要だからお願いしてきてもらったんだ」
上級文官のローブを羽織った男性がそう言った。昨日、私が婚約を決めた文官様と同じ声だ。
ザルバ子爵と言われた男性は
「アデレイド伯爵令嬢、はじめまして。
本日の婚約先に立ち会えることを嬉しく思っています。」
と、挨拶をしてくれた。
「ザルバ子爵様、はじめまして。
この度は立会人になっていただけると言う事でありがとうございます。」
とザルバ子爵様に挨拶をして、それから私は司祭様の方へ向いて
「はじめまして、司祭様。本日はよろしくお願いします」
と挨拶をした。
すると
「おっと、そういえばお互いにちゃんと名乗ってなかったね。
私はクリストファー・トレド。トレド家は子爵籍です。
歳は22歳で文官をしています。仕事内容は守秘義務があるから言えませんが、私が君にしてあげられるのはラナス侯爵家に嫁がせないようにする事と、弟君をアデレイド伯爵家の嫡男として見守る事です。
それに、見えていると思いますが私の顔には大きな傷があります。
それでも本当にそれでいいのですか?」
「はい。よろしくお願いします。
私はマリーナ・アデレイドでございます。
歳は18歳。カメルン女子寄宿学校を卒業して、デビュタントを終えたのが半年前です。
私がトレド様に出来ることはそう多くはないかもしれません。でも、きっといつかトレド様のお役に立てるように頑張ります。」
私はクリストファー・トレド様を見た。
背が高くて、少し猫背の立ち姿に、耳が隠れるくらいの長めの栗色の髪は目をも隠してしまい、表情は口元でしかわからない。
しかし、左頬に大きな傷跡があることは見てとれた。
そんなトレド様の口元は笑っていた。
「それでは、こちらに署名を」
司祭様に促され、婚約契約書を読み上げた後、署名をした。
証人としてザルバ子爵様も署名をした。
書類は3枚あり、一枚は教会に保管用。2枚目は、トレド様用、3枚目は私用だった。
婚約の決まりは、
『どちらかの意向で婚約を解消できるが、違約金は何があっても発生しない事。
署名者本人しか婚約解消はできない事。
一年間婚約期間を経た後に、結婚の手続きを取る事。
二人でアデレイド家嫡男の後見人になる事。
他者との婚約など、二重契約は犯罪になる事。
婚約中、結婚後も恋人を作らない事』
だった。
この条文は、教会に提出する婚約証書にのみ記載されていて、手元の証書には、お互いの署名とザルバ子爵の署名、そして教会の承認印が押されているだけのものだった。
署名を終えたら、
「それでは未来の奥さん。
私は仕事に戻らないといけない。
私の仕事は守秘義務があって、部署は明かせない。
だから、私に用事がある時は、この教会の司祭様に言ってください。
見習いの少年も私が誰か知らないので、直接司祭様に言ってくださいね。
こちらからの連絡は、アデレイド伯爵家に手紙を出します。
こちらの婚約証明書はちゃんと保管してくださいね。
いざと言う時のために。
婚約については、然るべき時まで黙っていてください。発表が必要だと判断した時まで、内密にしておきましょう。
あっ、それから魔力契約は婚約者が近くに来たら、手が熱くなる事と、契約に違反したら、違反紋が掌に現れる事です。でも、婚約を解消したら消えますから、一時的な物ですよ。
それでは失礼します」
そう言うと、トレド様は部屋を出て行った。
私はトレド様が出て行った扉を眺めていた。
すると
「この度はおめでとうございます。
アデレイド伯爵令嬢。私は、小さい頃から彼を知っているから、まさかこんなに早く結婚相手を見つけて来るとは思いませんでした。」
ザルバ子爵は笑顔で祝福をしてくれた。
「いえ。子爵様なら私の醜聞も知っていらっしゃるでしょうに、婚約の立会人になってくださってありがとうございます。
正直なところ、私は決して敬虔なほうではありませんでした。
日曜日の礼拝は数回に一回はお休みしていましたし、祈りなんて形だけのものだと思っていました。
でも、自分が追い詰められて、もうどうしようもない時に、神に祈ったらトレド様が手を差し伸べてくださったのです。
神様が助けてくれたとしか思いません」
私の話を聞いていた司祭様が
「アデレイド伯爵令嬢、貴方様の望みが弟君の後見人になりたいと言う自分以外の誰かのための行動だからこそ、神様は手を差し伸べてくださったのでしょう。
今まで敬虔でなかったのなら、これからそうなっていただけると嬉しいです。
今後は困った事などはほんの些細な事でも相談してください。
それから毎週日曜日の10時から日曜の礼拝を行っていますから、是非ご参加ください」
と優しく言ってくれた。
「神様は優しいのか優しくないのか。
婚約してから大変な事も多いでしょうからわかりませんよ?」
とザルバ子爵様は言って、
「そうそう、私から婚約のお祝いです。
お屋敷で待っている弟君に、『獣魔百科事典』を。
アデレイド伯爵令嬢には、ささやかですがオルゴールを。」
そうザルバ子爵様は言って、包装紙に包まれた大きな百科事典と、小さな箱のオルゴールをくれた。
「ありがとうございます!ザルバ子爵様!」
「それでは私も帰るとしましょう。
アデレイド伯爵令嬢、大通りに出れば辻馬車は走っていますが、なにぶんその百科事典は重い。
ですので、表に馬車を待たせています。
この馬車は司祭様からのお祝いですよ。
そして、その小指の指輪。それはなんらかの契約の証です。婚約だけでなく、魔法を使った契約書を交わした場合の証明なので、当面婚約した事を伏せていても大丈夫ですよ。」
ザルバ子爵様はそう言うと、司祭様と共に笑顔で送り出してくれた。
屋敷に戻り、ギルバートにお土産の図鑑を渡したら
「姉上、ありがとうございます!
この図鑑は大人気でなかなか手に入らないと、父上から聞いていたのに!
嬉しいです」
大喜びだった。
私のオルゴールも、細かな細工がされた綺麗な飾り箱で質の良いものだとすぐにわかる物だった。
こんなに素敵なお祝いの品がもらえるなんて!次にザルバ子爵にお会いした時にあらためてお礼を言わなくちゃ。
婚約手続きから数日後、予定より遅れて港に一隻の船が戻った。
使節団が乗る3隻の船のうちの一隻だった。
そこに乗船していたのは、文化使節団として結成されたオーケストラやバレエダンサー達だった。
その船に、王弟殿下やお父様やお母様は乗っていなかった。
この船の船長の話によると、3隻連なっての航行中に、大きな落雷があり、船同士を繋いでいた魔法が消えてしまった。しかも、雷のせいで六分儀がおかしくなってしまい魔法石での制御がきかくなってしまったとの事だった。
残りの二隻の船を探すために捜索隊が結成され、海上の捜索が始まったと発表された。
国王陛下と王弟殿下、二人三脚で現政府は成り立っているので、王弟殿下の無事を祈って、婚約や結婚、お茶会や夜会などは全ての貴族が行事を自主延期をした。
それは私とトレド様の婚約が受理された翌日の発表だった。