第三話 使者と貴人
内海で覇を競う勢力はいくつもあるが、乙はその中でも筆頭格と見做されている。
乙は内海最大の島を領有する独立国だ。とはいえ版図の広さを単純に比較すれば北の玄、南の旻や燦の足下にも及ばない。にも関わらずそういった大国と渡り合ってきた理由のひとつに、彼らの水軍力がある。
内海最強と名高い乙水軍は、南北の大国たちが物量で圧倒しようとも、長年培ってきた操船技術でそれらをことごとく撃退してきた。強力な水軍を保有しながら、同時に彼らは極めて現実的な外交家でもあった。乙は周囲の国々に対して時に圧力をかけ、時に懐柔しながら、内海の交易を巧みに支配してきたのである。
鱗とて相応の水軍力を誇るが、乙水軍と真っ向勝負出来るとは上紐恕も考えていないだろう。
その乙からの使者が上紐恕の屋形を訪れたのは、翠とキムが『天覧記』を発見して三日後のことであった。
「話には聞き及んでおりましたが、真に黄金色の御髪に瑠璃色の眼差し。この科恩、こうして目の当たりにするまでは正直なところ信じられませんでした」
宴席の場で上紐恕と共に上座に並ぶ乙の使者は、恰幅の良い初老の男であった。好々爺然とした笑みを顔一面に張りつかせた科恩は、同席するキムに対して憚ることのない賞賛を投げかける。
「これほど見目麗しい女性であれば、神獣のお側にお仕えすると言われるのも納得がいくというもの」
「全くですな。こうも美しい天女を迎え入れるなど、島主殿には神獣の加護があると申しても過言ではありません」
科恩の隣りでその言葉に相槌を打つのは、単陀李という旻の貴人だ。科恩とは対照的に痩せぎすで顔色の悪い、そのくせ目の前の全てを見逃すまいとその目は常に忙しなく動いている。
「加護など恐れ多い。ただ天女の美しさに目を奪われ、私の自儘でこの屋形にとどめ置いているだけです。いずれ神獣の怒りを買うのではないかと冷や汗しきりですよ」
上紐恕のおどけた言葉に、科恩も単陀李も示し合わせたように笑いで応じる。見事なまでに実のこもらないやり取りを、キムの背後に控える翠は白けきった表情で聞き流していた。
乙の使者は巷で話題となっている鱗の天女をひと目見たいという、その要望に応じる形で、キムは使者たちを歓待する場に引き出されていた。そしてどういうわけか翠もまた、場の末席を温めている。
「キムは口を開かないで良い」
宴席の前に、上紐恕は翠とキムに対してそう言った。
「天女とは世話役を通じてしか会話出来んと、使者たちにはそう伝えてある」
「じゃあ、私も同席するんですか」
翠は少々うんざりした顔で尋ね返した。乙からの賓客をもてなす宴席など堅苦しいに決まっている。そんな場に顔を出すのは、彼女にしてみれば気が重い。
だが上紐恕は翠の表情などまるで気にかけずに頷いてみせた。
「そういうことだ。そう嫌そうな顔をするな、これもお前たちの仕事だ」
そう言われては翠だって拒めるはずがない。
といっても翠の仕事はただキムの背後で、万一の場合に通訳の真似事をするためである。つまり宴席が終わるまで隅に座したまま、目の前を通り過ぎていく美食に唾を飲み込みながら、ひたすら空虚な会話を聞かされ続けなければならないのだ。
案の定というか宴が始まってからここまで、科恩も単陀李もそして上紐恕も、ひたすら上辺の会話に終始している。こんなことなら未だ山と積み上がる書物を読みふけっていたい。
とりわけ『天覧記』を読み進めたい。
翠とキムの最大の関心事は、この三日間その一点のみにあった。
ふたりで並んで食い入るように読み入った『天覧記』は、まだ三分の一ほどしか読破していないものの、そこに書き連ねられているのは『天』と呼ばれる未知の世界について――言ってみれば『渺遊紀』と同じ異世界紀行文である。
作者が『渺遊紀』と同じ琅藍なる人物だというのであれば、それ自体はなんら不思議ではない。
「でもここに書いてある天なんて、聞いたことない」
この世に祀られる神獣と、神獣に仕える天女が住まう雲の上の世界。それが幼い頃から翠が言い聞かされてきた天の姿である。
だが『天覧記』に記されているのは、彼女の知る天とはかけ離れたものであった。
住人たちは天空に浮かぶ巨大な城の中で暮らし、城と城を隔てる空をものともしない通信手段があり、その間を空飛ぶ船が頻繁に行き交う……
「空飛ぶ船ですって?」
頁をめくる度に、キムの目尻が徐々に吊り上がっていく。半開きになった唇からは、時折り翠にも聞き取れない不可思議な言葉が漏れ聞こえる。
『天覧記』が描く世界は、キムが元いた世界に酷似していたのだ――
「時に島主殿、ここ最近の内海の情勢をいかが思われますか」
宴の開始から半刻が経ち、そろそろ翠も欠伸を噛み殺し切れなくなりかけた頃、科恩はようやく本題と覚しきことを口にした。
「情勢と申しますと?」
科恩の言葉に、上紐恕はいささかも表情を崩すことなく尋ね返す。
「鱗の島主ともあろう方がご存知ないはずはない。昨今の海賊たちのことですよ」
酒杯を顔の前まで掲げながら、そう言う科恩の顔はあくまで穏やかだ。
「海賊ですか。我々の生業とは切っても切れない相手ですな」
「仰る通り、いくら叩いても湧いて出るのが海賊というものです。だがここ数年は連中も比較的おとなしかった。それは島主様もよくご存知のはず」
科恩の言葉が正しいことは、翠にもわかる。
かつては飛家の船も、内海を往来するのは今よりもっと命がけであった。父や旋、鰐たちが乗る船を見送るため、幼い翠は母や弟たちと共に、その姿が見えなくなるまでいつまでも埠頭の端に佇んでいたものだ。それは船が確実に戻ってくる保証がないことを、幼心にもよく理解していたからである。無事に帰港した父に駆け寄ると、その身体に見慣れない傷跡が増えているのは当たり前のことであった。
それがここ数年にかけて海賊の襲撃はめっきり減って、以前に比べれば航海は格段に安全になった。
父も旋も何も言わないが、海賊との間に何らかの手打ちが成された結果であるということは、翠も薄々勘づいている。その結果内海を往来する船便は倍増し、飛家の事業も一気に規模を増した。多少の出費がかさもうとも、安全を優先した判断は正しかったのだろう、と翠は思う。
なにしろ翠が父の船に乗り込もうなどと企てたのも、海賊の心配がすっかりなくなったためなのだから。
ところが科恩によれば、その海賊たちがまたぞろ活動を再開しようとしているという。
「既にこのひと月で、我が国の商船が三度襲撃を受けております。いずれも大した被害が出る前に逃れてはおりますが」
「それは由々しき事態ですな。しかし名だたる乙水軍であればそのような輩、蹴散らすのも容易いでしょう」
上紐恕の言葉は世辞ではない。乙の水軍にかかれば海賊など蜘蛛の子を散らすようなものだろうとは、周知の事実である。
もっとも海賊は攻撃しようとすると瞬く間に逃げ去ってしまい、水軍が退却したと見るやどこからともなく集結して活動を再開する。そのために海賊の殲滅は存外難しい。
ここで口を差し挟んだのは、まるで秘事を告げようとするかのように口元を片袖で隠した単陀李であった。
「それが島主殿。今回の海賊の跳梁には、いささか不審な点がございます」
「ほう」
「三度の襲撃はいずれも我らの都・稜から乙までの航路上、しかも稜寄りの海域で起こっているのです」
「……あの辺りで目立った海賊といえば、右填の一味でしょうが」
上紐恕は四角い顎を撫でながら、犯人の目星を口にした。
「右填は金品に卑しいが、関銭さえ払えば無茶はしない賢しさもある。それを知らない乙ではないはず」
「無論、連中への関銭は必要経費。それは重々承知しております。ところが奴ら、今回は我らの関銭を突っぱねて、問答無用で襲いかかってきたというのです」
そう語る科恩の顔には、さすがに苦渋の表情が滲み出ている。
「どうやら奴らは関銭以上の確固たる収入源を得た――その可能性が高いと、乙では考えられています」
「そいつは不穏ですな」
杯を傾けながら、相変わらず上紐恕の表情に変わりはない。まるで他人事のような彼の態度に、さしもの乙の使者も眉を微かに震わせる。
科恩に比べれば一回り以上も年若いだろうに、上紐恕の不貞不貞しさには末席に控えるだけの翠も肝が冷える。翠には科恩がどうしてこんな話を切り出したのか、そして上紐恕がなぜこうも平然としていられるのか、そのどちらもわからない。わかるのは彼女自身や、そして酒の肴に呼び出されたキムが、もはや明らかに場違いだということだ。
さっさと退出を命じてくれれば良いものを、上紐恕が何も言わないものだからそれすらもかなわない。もはや翠が願うのは、この宴席が早々にお開きとなることばかりである。
「不穏どころではない。科恩殿は、稜に巣食う佞臣どもが賊を援助しているのではないかと、そう申しているのですぞ」
上紐恕の言葉尻を捉えて、単陀李がやや神経質に声を張り上げた。
「旻の不始末は旻の手によって拭われなければなりません。ここは旻随一の水軍を有する島主殿が、賊の殲滅に立ち上がるべき」
「その勢いをもって佞臣どもも稜より追い払えと、そう仰るのか、単陀李殿?」
そう口にした上紐恕の目からは、それまでの無表情から一変してひときわ鋭い眼光が放たれている。まるで見る者を射貫くかのような視線を目の当たりにして、単陀李の威勢の良さは急速に萎んでいった。
「島主殿、それは誤解というものです。我々は何も鱗のみに手を煩わせようというつもりではありません」
あえて場の空気を無視した暢気な口調で、科恩が上紐恕に笑いかける。
「だが内海の治安は、鱗にも重要であることに変わりありますまい。そこで島主殿、賊の殲滅について我々にお力をお貸し願えないでしょうか」
科恩の言うところはつまり、乙と鱗による共同の海賊討伐の申し出であった。あくまでにこやかな科恩に対して、上紐恕もまた平然とした顔つきを取り戻して、薄い笑みを浮かべながら答える。
「なるほど、仰ることはごもっとも。賊を討ち内海の安全を取り戻すためであればこの上紐恕、労を厭うものではありません」
「では――」
「ですが」
喜色を浮かべかけた単陀李を制して、上紐恕は傍らのキムに目を向けた。
「我が屋形には今、神獣の遣いである天女がおわす。その天女から、私はひとつ託宣を受けています」
そんなことをキムが口にしたことがあっただろうか。この屋形に滞在するようになって半月足らず、キムとはほとんど共に過ごしてきた翠だが、そんな記憶は無い。
「いわく、次の託宣が降りるまで静かに時を待て。それが天女の思し召しです。ゆえに私からの返答は、今しばらくお待ち頂きたい」
いったいこの若い島主は何を言っているのだろう。おとなしく面を伏せながら、翠は内心で呆れかえっていた。
要するに科恩たちへの返事を保留するために、上紐恕はありもしないキムの託宣とやらを引き合いに出したのである。ただ引き延ばすだけでは優柔不断の謗りも受けかねないが、天女の託宣に基づくのであれば立派な口実になる。半信半疑の単陀李はまだしも、科恩に至ってはそんな託宣の存在など欠片も信じてはいないだろうが、現に目の前に天女がいる以上は回答を迫るわけにもいかない。
こういう可能性を予期して、わざわざキムをこの場に引っ張り出したのか。ぬけぬけとした口上を一言も噛むことなく披露する上紐恕には、もはや舌を巻くしかない。
「科恩殿と単陀李殿には、次の託宣が降りるまでしばし逗留されるがよろしい。なに、それほど待たせることはないでしょう」
科恩も単陀李も島主の申し出に頷いて、宴席はつつがなく終わったと言えるだろう。
ようやく宴の場から退出する段になって、翠の前で立ち上がったキムがゆっくりと振り返る。この宴席で初めて彼女と顔を合わせた翠はその瞬間、思わず目を見開かずにはいられなかった。
なぜならキムの顔はこれまでにも増して白い、蒼白な表情に覆われていたのである。