第一話 上紐恕
上紐恕の屋形は外観のみならず、内装もまた努めて華美を排している。
例えば柱を彩る朱は鮮やかとは言い難い、むしろ光沢を抑えた色調で統一されている。中庭にも見栄えするような草木の一本も見当たらず、一面が武芸の稽古場に取って代わられている。唯一贅を凝らした装飾が施されているのは、来客が目にする正門から応接の間や客間のみ。人目に触れる範囲は装いつつも、それ以外は実用一辺倒という造りから、屋形の主である上紐恕の性格が窺える。
屋形での振る舞いにおいても、上紐恕の意向は徹底されている。例えば廊下で上紐恕とすれ違うときなど、貴人に対する礼に従って壁際に寄って跪くと、かえって叱責を浴びるのだ。
「いちいちそんな礼儀作法に則らなくて良い。儂は面倒なしきたりは苦手だ」
上紐恕は怒るというよりは鬱陶しげな顔で、廊下に跪く翠を見た。
「それよりも、今宵は久々に天女と話す時間が取れる。酒席を共にしろ、翠」
「畏まりました。後ほどキムと共に伺います」
恐縮しながら頭を下げる翠に、上紐恕は唇の端だけで笑みを向けたかと思うと、あっという間に大股で去っていく。足音を響かせて去っていく島主の背中を見送りながら、翠は声に出さず小さく息を吐き出した。
翠が島主の屋形にいるのは、キムが上紐恕に召し出されたことと関係がある。
「この者は天から降りて日も浅く、未だ右も左もわかりません。島主様の屋形に上げよというのであれば、今日まで彼女を世話していた我が娘も供をさせるがよろしいかと存じます」
飛禄は上紐恕の命に対して拒否しなかったが、代わりに翠の同伴を提案したのである。その言葉の裏にあるのは、娘を屋形に送り込んで島主との縁を強化したいという意図――上紐恕はそう考えたのだろう。彼はにやりと笑って、だが反対することもなく飛禄の提案を受け容れた。
上紐恕の推察通り、飛禄にそのような下心がなかったとは言えない。ただ実際のところ、キムの世話役に翠を宛がうという案を飛禄に吹き込んだのは、ほかならぬ翠自身であった。
「もしキムが屋形に上がるよう言われたら、彼女の世話役としてでも何でもいいですから、私も一緒に推薦してくださいね。絶対ですよ!」
島主の屋形に向かう前、飛禄は娘から口酸っぱくそう言い含められていたのである。ただよくよく考えてみればそれも悪くない。そう思い至った飛禄は、キムと共に翠も屋形に上げることを上紐恕に薦めたのだ。
そこまでして島主の屋形に入り込んだ翠の目的は、ただひとつである。
「なんとしても屋形の書庫を覗いてみたい!」
この世界にまつわる史書を求めていた矢先のことなのだ。島主の屋形であれば、膨大な史書が蓄えられているに違いない。
「そうは言ってもそう簡単に入れてもらえるもんじゃないんでしょう?」
「色々と下々には明かされないような機密文書もあるだろうし、一般に公開されてるものじゃないからねえ」
キムが島主の屋形への出仕を命じられて、世話役の翠と共に屋形に住み込むようになってから既に一週間以上が経つ。だがふたりとも、未だ書庫の入口にすらたどり着けていない。書庫の場所自体は秘匿されてるわけでもなくすぐにわかったのだが、翠の言う通り簡単に出入り出来る場所ではないのだ。
こっそり忍び込むことも考えないではなかったが、今回は父の船に密航するのとはわけが違う。失敗した場合、下手をすれば飛禄にまで累が及ぶことを考えると、さすがに翠も暴走出来ない。
「というわけで、ここは正直にお願いに参りました」
上紐恕と相伴する酒席で、翠は面と向かってその希望を口にすることにした。
「書庫に入る許可が欲しいだと?」
翠の申し出に対して、上紐恕は酒杯を手に掲げたままふむと唸った。
「それはいったいどのような理由だ」
「島主様、キムはこの世界のことをよく存じ上げておりません。内海周辺については我が家でもひと通りの知識を得ることは出来ましたが、キムはより深くこの世界を知りたいと申しております。そのために史書を拝読したいのです」
「史書か」
そう言うと上紐恕はくいと杯を呷り、ひと口に酒を飲み干した。
「しかしなんだな。儂は天女の話を聞くためにお前たちを呼び出したというのに、先ほどから口をきいてるのは翠、お前ばかりだぞ」
上紐恕にからかわれて、翠は初めて気がついたように首を縮こまらせた。
上紐恕という人物は歳こそ青年の域だが、飛禄によれば鱗の港を出入りする海千山千が揃って一目置いているという。それだけの権威も実力も備えているが、一方で礼儀作法については要所さえ抑えれば、むしろ日常には不要とさえ考えている節がある。その振る舞いは一面親しみやすさにも通じるところがあって、翠もつい面と向かってものが言いやすい。
「申し訳ありません、島主様。私の記憶が未だ朧気であるため、元の世界についても満足に語ることも出来ず」
代わりにキムが頭を下げると、上紐恕は切れ長の目の端で彼女の顔を見返した。
「天女、いや、キム。お前が元いたという世界にももちろん興味はあるが、そもそもお前はこの屋形にいるだけで十分意味がある」
「屋形にいるだけで、ですか?」
「そうだ」
空になった杯に注ぎ足そうとする翠を退けて、上紐恕は自ら手酌する。かと思うとその手を再び持ち上げて、若い島主はあっという間にまた杯を空にした。
「この鱗は、というか儂は、このところどういうわけか都から目をつけられている。そこで神獣の遣いと伝わる天女が儂の元を訪れたと、そんな噂が広まれば都も手を出しにくくなる。それが儂の算段だし、飛禄も承知しているだろう」
上紐恕の悪びれない言い分に対して、キムは恐縮するばかりであった。
「そうは仰られましても、まず私は自分が天女であるという自覚が乏しいのです。そんな私が果たして島主様のお役に立てるかどうか」
「お前が自分のことをどう思おうが、それはどうでも良い。周囲がどう受け止めるかが肝要なのだ」
身も蓋もない言い様だが、上紐恕の口調には不思議と嫌みがない。そのせいだろうか、今度はキムも妙に納得した面持ちで頷いてしまう。
ふたりのやり取りが一段落したことを見届けてから、翠が再び話題を引き戻す。
「島主様、そういった意図であることは理解しましたが、その上で重ねてお願い致します。私たちふたり、書庫に出入りさせて頂くことは出来ないでしょうか?」
「ほう、挫けないな、翠」
面白そうに見返す上紐恕に、翠は切々と説いて懇願した。
「キムは元の世界で、私たちのこの世に関する物語を書き上げた覚えがあるそうです。その物語は手元にありませんが、史書を拝読すればその記憶もきっと蘇ることでしょう。島主様にもご満足頂ける話を語れるものと存じます」
「儂も満足するような話だと。大きく出たな」
翠の申し出を聞いた上紐恕は口角を上げて、おもむろに杯を卓の上に置いた。
「といっても書庫を完全に解放することまでは許可出来ん。その代わりといってはなんだが、書庫にある史書や類するものをお前たちの部屋に運ばせよう。これでどうだ」
「ありがとうございます!」
十分以上の回答を得て、翠は深々と頭を下げて本心から礼を口にする。キムもまた翠に倣うようにして面を伏せる。
ふたり揃って平伏する様を見下ろしながら、上紐恕はくっくっと喉を鳴らすように笑った。
「そこまで大見得を切ったならば、よほど儂を唸らせるような物語を語ってくれるのだろうな。楽しみにしているぞ」