第一話 名も無き者
映像でしか見たことのなかった海を舞台に、そこに暮らす活気と逞しさに溢れた人々が繰り広げる物語。それがキムが書き著した『大洋伝』であった。
太陽の下に照り出された美しい海を行き交う大小様々な船。常に喧噪で沸き返る雑多だが賑やかな町並み。この世のものとも思えぬ壮麗かつ巨大な都。山奥の合間に居を構える神秘的な祭殿。
そこに登場するのは主人公の上紐恕をはじめとする、一癖も二癖もありそうな個性的な人々。彼らの間に舞い降りた天女の目を通して、それぞれが思惑を抱えながら、やがて物語はひとつの結末に向かって収束していく――
「登場人物はそれぞれの目的のために頑張るんだけど、そんな奮闘も全てが空しく無に還る。それが最初に書いた『大洋伝』の結末」
キムが告げた『大洋伝』の原型とは、翠にとっては意外な内容であった。
「だから最後は神獣の真名が唱えられて世界が泡と消える、と。でもなんか、それまでの血湧き肉躍る感じが一気にひっくり返されるのね」
「どんでん返しの後に虚無感が漂うところが、そのときにはいいなって思えたんだけど」
キムはその白い指先で己の額をぴしゃりと叩いた。
「一度完結させた後に冷静になってから読み返してみると、我ながら独りよがりだなあって。それで今度はもっと大団円の結末に書き直したのよ」
物語を書き殴っている最中は傑作と思えた内容が、頭を冷やしてから見直せばどうしてそこまで自画自賛出来たのか不思議で仕方ない。そんな経験は翠にもある。だからキムの感覚はよくわかるのだが――
「書き直した後なら、何も問題ないじゃない」
この世が消し去られてしまうかもしれない、というのがキムの懸念だったはずだ。それがとっくに修正済みだというなら、後は『大洋伝』の通りに進むことを見守っていれば良い。それこそ琅藍の如く。
「それがねえ。一度書き直しはしたんだけど、まだ完全には満足いかなくて」
額に当てた指をそのままに、キムはまるで頭痛持ちのように顔をしかめた。
「まだ前の原稿に差し替えしてないんだよねえ」
「差し替えって、どういうこと? もう書き直しはしたんだよね?」
「なんて言えばいいのかな。『大洋伝』は初稿のまま一度世間に公表されてるのよ。それを後から改稿して、もう一回公表し直す前の状態で、私はこの世界に落っこちてきちゃった」
「後から改稿して公表し直すってどういうことか、いまいちよくわからないけど」
翠にとってそこは重要ではない。確かめなければいけないのは、もっと核心の部分である。
「つまりこの世は初稿版なのか改稿版なのか、どっちなの?」
まなじりを上げて問い詰める翠に、キムは少々情けない顔で答えた。
「わかんない」
「そんなあ!」
翠が両手で頭を抱えて、あからさまに落胆の声を上げる。キムは心底申し訳なさそうな顔を見せながら、しどろもどろに釈明した。
「だって書き直したのって、本当に物語の終盤の辺りなの。宰師様が耀に逃げ込むところまでは、初稿版も改稿版もほとんど変わりないのよ」
「でもそれじゃ、耀に行ってみないとわからないってことだよね」
大きなため息を吐き出しながら目に見えて肩を落とす翠に向かって、キムにもひとつだけ断言できることがあった。
「はっきり言えるのは、ローランが読んだのは初稿版ってこと」
世間に公表されたのは初稿版だけということならば、琅藍が目にした『大洋伝』も当然初稿版ということになる。そんな彼が『大洋伝』の行く末を楽しみにしているということは――
「あいつはこの世界が破滅するのを楽しみにしてるってことよ!」
思い返しても腹立たしい。しかも稜で交わした会話から察するに、そのために琅藍自身が色々と動き回っているらしい。翠にしてみれば余計なお世話もいいところである。
「だからって琅藍の思う通りにはさせないよ。あいつが『大洋伝』を頼りに先回りするつもりでも、こっちにはあいつを出し抜く武器がある」
「武器って、そんなのあった?」
心当たりのないキムが驚き、尋ね返す。すると翠は右手の親指を立てて己の顔を勢いよく指し示し、「私よ、私!」と言い放った。
「『大洋伝』に一行も書かれていない私のことは、いくら琅藍でもわからない。つまり私ならあいつの裏を掻けるってこと!」
***
変翔が耀に逃げ込んだのは、彼が耀人であることを考えれば当然のことであった。耀は彼にとって馴染みの土地であり、それ以上に耀という国の特性が、亡命先としてはうってつけなのである。
「耀は変翔の引き渡しを拒んできました」
上紐恕の仮の執務室とした王宮の一室で、駕蒙が苦々しげにそう報告した。報告を受ける上紐恕の顔も、大きな唇の端を歪めるばかりである。
「やはり儂が自ら乗り込むしかないか」
そう口にした上紐恕の逞しい指先が、執務卓を苛立たしげに叩く。
耀はこの世界の創造主とされる、神獣の眠りを守る神聖な土地である。かつてこの世界を隅々まで統べていたとされる国力は今や見る影もないが、その権威は未だ人々の間に根強い。たとえ今は旻に庇護される立場とはいえ、武力を背景に変翔を引き渡すよう恫喝したら、ここまで味方してきた乙も玄も一斉に敵に回るだろう。
「どのみち乙も玄も、両軍共に帰国の準備を進めております。これ以上は頼りになりますまい」
討伐軍は稜に攻め上り、海賊を扇動した主犯の変翔を宰師の座から追い落とすことに成功した。名実共に討伐軍の目的は達せられたため、乙も玄ももはや上紐恕に付き合う義理はない。むしろこれ以上他国の水軍が紅河にとどまり続ける方が、外聞もよろしくない。
既に科恩と醜楷には十分に謝意を示し、後日改めて礼を尽くしに伺う旨を伝えてある。ここから先は上紐恕だけで対応しなくてはならなかった。
「やむを得ん。駕蒙、儂が耀に赴く間、稜はお前に任せる」
「畏まりました。ですが単陀李様はいかがしましょう?」
変翔が失脚した宮中で、単陀李は早速王に近づいて復権を働きかけていた。変翔は彼以外の実力者をことごとく排除していたため、単陀李の暴走を止める者もいない。遠からず彼が宮中で実権を取り戻すことは、誰の目にも明らかであった。
「放っておけ」
駕蒙の伺いに対して、上紐恕の回答はにべもない。実のところ彼は、稜の実権掌握には興味は無かった。今回だって変翔という降りかかり続ける火の粉を排除するために、兵を起こしたに過ぎない。全てのけりがつけば、兵を引き上げて鱗に戻るつもりでいる。
その後の稜が単陀李の、引いてはその裏で糸を引く乙の手に落ちようとも、彼にとっては関心外なのだ。
逆に言えば変翔は放っておくわけにはいかなかった。上紐恕のあずかり知らぬままに耀への亡命を許していては、いつ復活してまた鱗に火の粉を撒き散らすかわからない。
「せめて何らかの保証を得ない限りは、鱗に引き返すわけにもいかん。いっそ変翔と直接語らうことが出来れば……」
ここまで旻を強国として保ってきた変翔の辣腕は、上紐恕も認めるところだ。彼としては耀というよりも変翔自身と話し合う方が、まだ交渉の余地があると考えている。
「近日中に耀へ行く。護衛も含めて伴をする者を選び出せ。祭殿への付け届けも忘れぬようにな」
上紐恕の指示に駕蒙は頷きながら、ひとつ確かめるように尋ね返す。
「早急に手配します。それで、今回もやはり天女様を伴われるのですか?」
「当然だろう」
部下の問いに対して、上紐恕は当たり前といった顔で嘯いてみせた。
「儂はただ、天女の思し召しに従ってここまで来たまでよ。その彼女を連れて行かない道理はあるまい」




