第七話 稜へ、再び
討伐軍の大船団が紅河を上る様は、日々行き交う大勢の船を見慣れた沿岸の住民たちも目を見張るほどの壮観であった。
なにしろ対岸がはるか彼方に霞むと言われる紅河を、百隻を超える大小様々な船舶が埋め尽くして、一斉に遡上するのである。それはまるで巨大な島が意思を持って上流を目指すかのような、誰も目にしたことのないような光景であった。
「鱗の島主が、稜に攻め上るらしい」
「乙や玄の水軍まで従えているって話だぞ」
「稜の宰師様の嫌がらせに、ついに堪忍袋の緒が切れたそうだ」
「なんでも宰師様は、内海の賊を使って鱗の船を襲わせたんだって」
「そいつはいくら宰師様でもやりすぎだなあ」
紅河の河口から稜に至る沿岸地域では、既に変翔の悪評が噂され始めていた。それは上紐恕の指示に従って今や鰐が率いる海賊たちが、沿岸の住人に吹聴して回った結果である。
討伐軍は航海中に立ち塞がろうとする稜の水軍に対しても、「逆賊変翔の罪を問う」という大義名分を突きつけた。旗艦の舳先に右填という証人を引き出されて、傍系とはいえ王族の一員である上紐恕にそう言われると、稜の水軍も強く出ることは出来なかった。
もっとも実際には討伐軍の大船団との衝突を避ける口実として、上紐恕の掲げる口実を受け容れることにしたのであろう。討伐軍の快進撃はおそらく変翔の予想をはるかに上回っており、稜水軍は未だ集結されることもなく、紅河全域に散り散りになったままだったのである。
「あの佞臣を稜から追い払うのも、もはや時間の問題ですな!」
間もなく稜に迫ろうという頃合いになって、旗艦の甲板上で最もはしゃいでいたのは、今までどこに隠れていたのかもしれない単陀李であった。
「単陀李様、この船に乗ってたんだ。全然気がつかなかった」
相変わらず血色の悪い単陀李が、その顔色のまま歓喜している様を遠目に認めて、翠は今さらのように驚いていた。
「島主様から聞いたけど、ずっと貴賓室にこもって一歩も外に出なかったそうよ」
苦笑しながら答えるキムに、翠がやや声をひそめて囁きかける。
「単陀李様はあんなこと言ってるけど、島主様にはちゃんと言ってあるんでしょう? 宰師様を稜から追い払うだけじゃ駄目だってこと」
「大丈夫」
翠につられるようにキムもまた小声で、だがはっきりと頷いた。
「放っておけば宰師様は必ず耀に逃げ込み、祭殿で神獣の真名を記した書物を見つけてしまう。破れかぶれになった彼が真名を口にする前になんとしても捕らえなくちゃいけないって、島主様にはそう伝えてある」
「あなたが真名を知ってるってことは、ばれてない?」
「それはもちろん。そのことを知ってるのは翠、あなただけよ」
真名を唱えれば神獣は長きに渡る眠りから目覚め、この世を吹き飛ばしてしまうことになってしまうかもしれない。古から伝わる伝承は、だがかつて耀の老神官に真剣な面持ちで諭された翠には、どうしても一笑に付することは出来なかった。
キムが神獣の真名を知るという事実は、絶対に誰にも口外してはいけない。
それはふたりの間で交わされた、何にも勝る固い約束であった。
***
稜の川港に接岸した討伐軍の大船団は兵の大半を船に残したまま、まず下船したのは総司令官の上紐恕、再びの登殿を心待ちにしていた単陀李、そのほか数名の首脳陣と百名余りの護衛の兵士たち等であった。
その「等」にはキムと翠も含まれている。
「陛下はことのほか天女をお気に召したようだ。同行してもらった方が何かと都合良かろう」
上紐恕は冗談めかしてそう言ったが、実のところ本心であったろう。旻王が心服する天女の託宣に従って、佞臣・変翔を捕らえる。それが稜に攻め上るに当たって上紐恕が描いた絵図であった。
だから宮殿に向かう一団の中で、キムは頭巾も被らずに金髪碧眼をさらけ出したまま、立派な馬車に乗せられていた。上紐恕としては天女を伴うという行為自体に大きな意味があったのである。
屈強な兵士たちに囲まれながら、意図的に簾を上げた馬車に座する金髪の美女。背筋を伸ばして真っ直ぐに前を向く凜とした姿は、稜の目抜き通りの両脇に居並ぶ住人たちの注目の的であった。
「なんだか居心地が悪いわ」
好奇と崇敬の視線を一身に集めて、キムは車上で心持ち身じろぎした。上紐恕からは毅然とした態度を言い含められているので、迂闊に表情を崩すことも出来ない。
「宮殿まで、少しの辛抱だよ」
キムの隣りで、翠もまた小声で返事する。結局最初から最後まで、翠は天女の世話役・兼・通訳という役柄を演じ続けている。だから今回もキムと並んで馬車の上だ。注目されるのはキムだから、翠はさして緊張することもない。整備された街路を穏やかな速度で進むなら、馬車も悪くない。そんな感想を抱く余裕すらあった。
道中で聞こえた「ちっこいのが邪魔で、天女様がよく見えねえなあ」という群衆の呟きに翠がつい目尻を上げたことはあったものの、上紐恕率いる一団は遮られることもなく無事に宮殿に到着した。
ここまで妨害がなかったということは、少なくとも変翔はこの稜を巻き込んでまで抵抗する気はなかったらしい。それは準備が整わなかったせいもあるだろうし、勝算がないまま都を戦乱に陥れるような男ではないということだ。その点において変翔という男は、やはり愚かさとは対極にある。
だから上紐恕たちが宮殿に足を踏み入れて、真っ直ぐに王宮に上がった先に待ち受けるのが、青ざめた顔色のまま玉座に腰掛ける旻王ただひとりであったとしても不思議なことではなかった。
「ひと足遅かったな。変翔はもう、ここにはおらん」
王は疲れ切ったように背凭れに身体を預けたまま、そう言って力なく笑った。
変翔が抵抗を諦めたからといって、おとなしく討伐軍に拘束される筋合いはない。彼は討伐軍の接近を知って、早々に稜から脱出していたのである。上紐恕はキムの提言通り全速力で稜に駆けつけたつもりだったが、それでも間に合わなかったのだ。
「変翔の行方を追え。特に耀に至る紅河から街道まで、徹底的に検問しろ」
上紐恕はそう命を下したものの、おそらく無駄に終わるだろうことも察している。彼は軍事力は手にしているが、国政を掌握出来たわけではない。検問を敷くにも手持ちの兵を使うしかないのだ。今から手配して、変翔を逃走中に捕捉することはほぼ不可能だろう。
上紐恕が平静を装いながら、誰にも気づかれぬよう奥歯を歯軋りさせていた、その頃である。
翠とキムの前に、思いがけない人物が立ちはだかっていた。




