第六話 埌藍の影
拘束された右填の身柄を伴って、翠たちが討伐軍の旗艦に戻るまで、結局丸一日がかかった。
「スイ、大丈夫? どこも怪我は無い?」
最初に翠を出迎えたのは、その一日を蒼白なまま過ごしたというキムであった。彼女は翠の姿を見るなり抱きつくと、安堵のあまり瑠璃色の瞳からぽろぽろと涙が零れ出した。
「ちょっと、キム。そんなに心配しなくても、大袈裟だってば」
「だって私がまた余計なこと言ったせいで、今度は翠まで酷い目に遭ったらどうしようかと……」
彼女が著わした『大洋伝』の筋書きが、この世界で近しい人々を危険に投じてしまうのではないか。その可能性はキムにとって、よほど悪夢に違いない。抱きついたまま離れようとしないキムの背中にぽんと手を置いて、翠はさすがに無茶しすぎたかと反省する。
「賊の離間を計るはずが、まさか首領を捉えて戻ってくるとは、さすがに儂も想像出来なんだ」
一方で上紐恕の声音は、驚くやら呆れるやらをすっかり通り越していた。大きな口を開けて笑うしかないといった島主に、旋が軽く頭を下げる。
「出過ぎた真似をして申し訳ありません。ですが全ては、頃合い良く右填の拘束に手を貸してくれた、この鰐の手柄です」
旋がそう言って指し示した先では、甲板に跪いた鰐が頭を垂れて、島主に服従の意思を示している。
その姿を見て、上紐恕は何か考え込むかのように目を細めた。
「お前が鰐か。翠が見込んだ通り、見事な働きだったな」
「……此度の不幸は、全て首領・右填のいっときの気の迷いによるもの。元凶の右填の身柄はこの通りお引き渡ししますので、島主様には何卒寛大な処置を賜りたくお願い申し上げます」
もっともらしい口上を述べながら鰐が深々と頭を下げる。その側に歩み出た上紐恕は、垂れた蓬髪の前で膝をついた。「面を上げよ」という声に従った鰐と上紐恕が、至近距離で顔を突き合わせる。
「今後、賊はお前が取り仕切る。それを約束出来るか?」
飛家と繋がりのある鰐が海賊を率いることになれば、それはほとんど鱗の配下に組み込まれるに等しい。上紐恕は内海を知り尽くした武力を手中に収めることになる。
だからこそ上紐恕は降伏の申し出を受け容れるということを、鰐もまた見越していた。
「仰せとあらば」
そう答えて再び面を伏せる鰐に、上紐恕が満足げに頷く。
かくして内海を騒がせた海賊騒動は、首領・右填の身柄を拘束した鰐が討伐軍に降ることで、幕が引かれることとなった。
***
右填を寝返らせたのは宰師の変翔であると、当の右填が口を割るまでにほとんど時間を要しなかった。彼には依頼主に対する義理はない。拷問の可能性を仄めかすだけで、自ら進んで自白した。
これで上紐恕たち討伐軍は、大罪人の変翔を捕らえるためという、稜に上る大義名分を得たことになる。
「宰師の遣いという男なら、俺も会った」
討伐軍が進発するという段になり、日が暮れる前に旗艦を離れようとする鰐は、去り際にそう翠に告げた。
「ちょうどそこのお嬢さんみたいに、顔中を頭巾でくるんで隠していた。いくら秘密の遣いとはいえ、さすがに警戒しすぎだろうとは思ったが」
頭巾姿のキムを指差して、鰐が言う。男でそんな格好をする人物に、翠はひとりだけ心当たりがあった。
「もしかしてそいつ、琅藍とか名乗ってなかった?」
「そうだよ、よくわかったな」
少し驚いたように目を見開いた鰐は、翠の上目遣いが不満げであることに気がついて、小さく笑う。
「お前の筆名を名乗られて、最初は聞き間違いかと思ったぜ」
「私が散々頭を捻って考えた筆名を勝手に使う不届き者よ。今度会ったら絶対にとっちめてやる」
「あんまり無茶しすぎるなよ。今回みたいなのは程々にしておけ」
今度は斜に歪んだ口元を大きく開けて笑うと、鰐は翠の頭の上に手を置いて、黒い髪の毛をくしゃりとした。それは自分の台詞だ、と翠は思う。
「鰐こそ無茶しないでよ。いつでも帰ってきていいんだから」
翠の言葉に背中を向けたまま手を振って、鰐は彼女の前から去っていく。
船を下りる彼の後ろ姿を見届けて後、やがて旗艦から遠ざかっていく小舟を、翠はしばらくの間目で追い続けていた。
手摺りをつかんだまま微動だにしない翠に、キムが背後から声をかける。
「飄々とした人ね」
キムはほとんど鰐と会話することは無かったが、それでも翠たちとのやり取りを傍から眺めていれば、彼の人となりというものがわかるのだろう。
「お調子者なだけよ」
ぽそりとそう呟いてから、翠はくるりと振り返った。
「それよりも聞いたでしょう? また琅藍よ」
船の手摺りに華奢な背中をどんと預けた翠の顔の中で、唇が強く引き結ばれていることにキムは気がついた。よほど腹に据えかねているというよりは、積もり積もった疑問が募っているという顔だ。
キムの推測は当たっていた。
「毎度、私たちの行く先に必ず関わってくる。いくらなんでもおかしくない?」
彼女たちの行く先に見え隠れする琅藍という人物の影。ただキムはその件について、彼女なりの推論を立てていた。
「ローランは私たちをっていうよりは、『大洋伝』の筋書きをなぞっているんじゃないかしら」
その言葉に翠は不満げな顔のまま首を傾げる。説明不足かと思ったキムは、さらに言葉を足した。
「ローランはあなたに、『大洋伝』の行く末を楽しみにしてるって言ってたんでしょう? だからきっと『大洋伝』に書かれた通りに物事が進むのか、それを見て回ってるんじゃないかしら」
「なに、その偉そうな態度」
その内容は理解出来たものの、だからといって翠の機嫌が収まるというものではない。キムが紐解いてみせた琅藍の行動原理は、むしろ彼女の神経を逆撫でするものであった。
「いかにも自分は高みから楽しませてもらいますって、いけ好かないなあ」
「ただそれにしては、色々関わりすぎてるような気もするけど……」
一方でキムは、たった今口にした説明だけでは説得力に欠ける、とも思う。傍観者の立場を貫くなら、もっと安全な距離の取り方があるはずだろう。何も変翔に近づいて暗躍する必要はない。
口元に手を当ててさらに考えようとするキムの思考は、翠の一言によって一刀両断された。
「考えてもわかんないことで頭を悩まされるのはまっぴらよ。どういうつもりなのかなんて、当人をつかまえて聞き出せばいいの」
「つかまえるって、どうやって?」
そんな無茶なと言い返そうとするキムの前に、翠は力強く人差し指を一本立ててみせる。
「あいつが『大洋伝』の筋書きを見届けたいっていうなら――それに本当に宰師様の知恵袋なら、絶対にまだ稜にいるはずよ」
翠の決めつけは、だがあながち的を外していないように思える。なにしろ『大洋伝』の主役たる上紐恕は、変翔を捕らえるために討伐軍を率いて稜に急行している最中なのだ。
キムの推測の通り、琅藍が『大洋伝』という物語の成り行きを確かめるつもりなら、物語の山場を迎える稜で彼が待ち構えていてもおかしくはない。
「島主様の目的が宰師様なら、私の目的は琅藍よ」
夕陽に照らし出されて燃えるような海原を背にしながら、翠は自らに誓うようにそう言い放った。




