第四話 再会
その晩、辺りが再び闇夜に包まれようとする頃合いに、討伐軍の船団から一艘の小舟が音もなく海上を滑り出た。
ここ数日は天候に恵まれて、一帯の海域は極めて穏やかだ。
「どうせなら小雨でも降ってくれた方が、忍び込むにはちょうどいいんだけどな」
小舟の船尾に立って櫂を漕ぐ旋が、ぼやき混じりにそう呟く。だが船底に腰を下ろして前を見つめたままの翠から返事がないと知ると、彼は小さく肩をすくめた。
「まさかまたお前の水夫姿にお目にかかるとは思わなかったよ」
さすがに裾子姿では動くにも不便だし、何より目立つという理由で、翠は旋同様に短い褶と袴を穿いた、水夫の格好に扮装していた。
「このまま真正面からいくの?」
背中を向けたままの翠に尋ねられて、旋は「まさか」と答えた。
「鰐と連絡を取るときは、あの端の岩壁の裏にある洞窟を使ってた。灯は使えないから多少難儀するぞ。ちゃんとつかまってろよ」
「わかった」
おとなしく頷く翠の声は、よく聞けば語尾がわずかに震えている。
「翠、怖いのか?」
すると翠は振り返らぬまま、今度は小さな両肩をぶるっと震わせた。
「怖いに決まってるでしょう」
そう答えても、翠は相変わらず視線を前方に据えて動かさない。両手は船の縁をしっかりとつかんで、少女は暗闇の中に重なるように聳える何枚もの岩肌に目を凝らす。そのところどころにいくつもの灯りが揺れ動いて、ふたりが向かう先には賊がひしめいているのだということは遠目にもわかった。
「でも、鰐には一言、私ががつんと言ってやらないと」
己の恐怖を振り払うかの如く、まるで自身に言い聞かせるような翠の台詞を耳にして、旋もまた腹を括った。
***
旋は物心ついたときから、船を操る術について飛禄に骨髄から叩き込まれてきた。だからこそ操船については海賊ごときに負けないという自負があるし、事実彼の腕前は内海でも群を抜いているだろう。
その操船技術は小舟を操る際にも遺憾なく発揮された。翠を乗せた小舟は明かりもない夜闇の中、しかも入り組んだ岩壁に挟まれて複雑に流れる波間を、一度も岩に掠ることもなしに目的地までたどり着いてみせたのだ。
左腕を怪我していたことなど、旋自身忘れていただろう。
「ここから陸に上がれる。暗いから気をつけろよ」
先に船を下りた旋が差し出した手を素直に握り返す。その手に引かれて、ついに翠は洞窟の内に上陸した。ここから外に出るのかと思ったら、旋は逆に奥へと向かう。
「この先に抜け穴があって、そこから賊のねぐらの端っこに繫がってるんだ」
足下は岩肌がむき出して、あちこち濡れて滑りやすい。翠は旋の後を追って、へっぴり腰になりながらそろそろと洞窟の中を進む。
やがて途中で重なる岩の合間にぽっかりとした穴が開く。どうやらここが旋が言う抜け穴らしい。迷わず穴に飛び込む旋に倣って、翠もおそるおそる後に続く。
だがその抜け穴は存外に短く、ふたりはあっという間に開けた場所に飛び出した。
そこは周囲を背の高い岩に囲まれた、せいぜいふたりが定員の、行き止まりのような空間であった。
「どうするの、ここから」
翠が不安そうに旋の褶の裾を引っ張る。だが彼は暗闇の中で岩肌にぺたぺたと手を当てているかと思いきや、「あった」と呟くと同時に何やら引っ張るような仕草を取った。
同時に乾いた木と木がぶつかり合って、からんころんという小さな音が響く。それからしばらくすると、おもむろに岩の上から縄梯子が投げ出された。「上るぞ」という旋について一段ずつ梯子を上りきると、そこにはどうやら海賊と覚しき男が松明を掲げて待ち構えていた。
「飛家の若造か」
どうやら旋と顔見知りらしい傷だらけの面相の男は、翠の顔を見て一瞬眉をひそめたものの、それ以上は何も言わなかった。男は無言で踵を返し、ふたりに向かって顎でついて来いと促す。旋と翠は傷だらけの男が手にする松明の明かりを頼りに暗闇の中、道とも言えない道を黙々と歩き続けた。
どれほど歩いただろうか。たいして時間は経っていないのだろうが、道中の翠は強烈な緊張感に囚われていた。今さらになって海賊の本拠地にいる自分が信じられなかったし、時折り波が岩肌に打ちつける音に、何度も喉から心臓が飛び出しそうになる。
いったい自分は何を考えて、自ら海賊のねぐらに飛び込もうとしたのか。だが『大洋伝』のあらすじを知ったときには、賊に――というよりも鰐に直談判するのは翠自身以外に考えられなかったのだ。
それは鰐の失踪を伏せていた父や旋への反発や、そんな事情を知らないまま過ごしてきた自分への怒り、そして何も言わないまま消えた鰐に対する言いようのない想いなど、様々な感情が同時に噴き出して整理がつかなくなってしまった結果であった。
とにかく鰐には一言言わなければ気が済まない。その思いだけでここまで来た翠は、闇夜の中に切り立った崖の上を歩き続けている内に、抑えつけてきた恐怖心がそろそろ頭をもたげつつあった。
「入れ」
気がつくと傷だらけの男は足を止めて、先に行くよう促される。そこは岩山の合間に設けられた砦の裏口らしく、狭い石切り場のように切り開かれた四角い入口の奥から微かに明かりが零れていた。男の言うままに入口に足を踏み入れたふたりがくねくねとした細い道を歩き続けると、やがて突き当たりに堅牢な扉が現れる。
ふたりの後をついてきた傷だらけの男が、来客の到着を告げた。すると応という返事と共に、頑丈そうな扉がゆっくりと開く。
扉の陰から現れたのは、頭巾を鉢巻のように巻きつけた上から伸び放題の蓬髪に、顔の下半分が無精髭に覆われた長身の男。だが削ぎ落とされたような頬といい、重そうな瞼の下から覗く挑発的な眼差しといい、何より無精髭に覆われても隠しきれない斜に歪んだ口元を、翠が見間違えるはずはない。
「鰐……」
思わず翠の口から漏れ出たその言葉を聞いて、長身の男は心持ち腰を屈めながら声の主の顔を覗き見る。
やがて彼が驚愕に目を見張るまで、それほどの時間はかからなかった。




