第一話 乙に寄る
宮殿を辛うじて脱出した上紐恕たち一行は、稜の川港を目指すことはなかった。稜の川港のみならず紅河一帯には、既に変翔の追っ手が回っている可能性が高い。また鱗の島主であれば当然船を使うものという読みの裏を掻いて、彼らは陸路をひた走り稜よりさらに河口を下った、内海に面した旻北岸の町まで向かったのである。
島育ちの翠にとっては、陸路の逃避行は宮殿脱出以上の苦行であった。
「もう二度と馬車なんか乗らない」
上紐恕が町に待機させていた快速船に乗り込んで、翠は狭い船室で尻に手を当てながら横になっていた。
「貴人の乗り物だって聞いてたのに、あんなに乗り心地が最悪なんて。これじゃしばらく椅子にも座れない」
涙目になりながら尻をさする翠の横で、キムも盛大に足を崩して船室の壁にしなだれかかっている。
「実際に体験すると、自分の想像力不足を痛感するわ。文章だったら『事前に用意してあった馬車に飛び乗り、北岸の町まで逃げ切った』の一言で済むのに」
彼女もまた馬車という乗り物は初めてで、しかもろくに舗装されていない路面を高速で走るものだから、道中で散々に腰を痛めて立ち上がれないでいた。ふたりとも船に乗り込んでからは、未だに一度も床に尻を下ろしていない。
「それでスイ、馬車の中じゃ途中でそれどころじゃ無くなっちゃったから、もう一度訊くわ。あの男、本当にローランって名乗ったのね?」
腰を押さえながら身体全体を傾けたまま尋ねるキムに、翠は横たわったまま頷いた。
「聞き間違いじゃない。琅藍って言ってた。キムとはまた違う、見たこともない黒い顔してた」
「黒い顔……」
キムは顎先に指を当てて思案顔を見せる。
「そういう黒い肌の人って、私が元いた世界にはたくさんいたわ。私も特に気にしないで、一緒に生活してた」
その発言は翠には初耳である。というよりもキムが自ら元いた世界のことを語ったのは、これが初めてのことであった。
「キム、もしかして元の世界のことも思い出したの?」
片肘を突いて上体だけ起こしながら翠が尋ねると、今度はキムが頷いた。
「全部ってわけじゃないけど、だいぶ思い出せたと思う。あの本を読んだせいよ」
「あの本って……」
「ローランが書いたっていう『天覧記』」
そこで再び琅藍の名前が飛び出して、翠の口元が無意識に歪む。いったいあの黒い肌の男が『天覧記』を書いたのか。だとしたら彼はどうして、キムがかつて暮らしていたという『天』の様子を知っているのか。
そもそもなぜ――
「つくづく謎めいた存在ね、ローランって」
ただキムの疑問は、翠のそれとは微妙に異なるところにあった。
「スイには前に言ったでしょう。『大洋伝』にスイに当たる登場人物は出てこないって」
「ああ、うん。私にしてみたら不本意だけど」
「ローランも同じなのよ。そんな人物、『大洋伝』にはいない」
キムは顎先に当てていた右手を口元まで這い上がらせながら、自身の疑問を一言一言確かめるように口にする。
「私が『渺遊紀』の作者ローランを知らなかったのは、本当の作者であるスイを知らなかったんだから納得いったわ。でも『天覧記』が都で人気を博しただけならまだしも、その後宰師の側近になるなんて。そんな人物がいたら『大洋伝』で触れないわけがない」
「ねえ、それって」
何かに思い当たったように翠はがばと身を起こして――次の瞬間に声にならない叫びを上げて悶絶していた。急に姿勢を崩したせいで、裾子越しに尻が床に触れてしまったのである。激痛のあまり無言でのたうち回る翠に代わって、彼女の考えを察したキムが口を開いた。
「もしかしたらローランは、私と同じ世界の出身なのかも」
「……それだったらある程度、筋は通るんだけど」
目尻に涙を浮かべながらもキムの言葉を肯定しつつ、だが翠には今ひとつ大きな疑問が残る。
ではなぜ彼は、よりにもよって琅藍を名乗っているのだろう?
***
翠たちを乗せた快速船は、程なくして乙の港にたどりついた。
内海最大の島でもある乙では上紐恕の部下・駕蒙たちが、秘かに鱗を進発させていた水軍と共に、島主の合流を今かと待ちわびていた。
そして翠も安心出来る顔との再会を果たす。
「旋、なんであなたがここに?」
驚く翠を見て、旋は誇らしげに白い歯を見せた。
「忘れたのか。賊討伐には是非お供させてくれって頼んだろう。駕蒙様があの言葉を覚えていてくれて、現地の先導役に呼ばれたんだ」
そう言って旋が拳を握る左腕には、三角巾は取れたものの未だ包帯が巻きついている。その腕を目にしたキムは心配そうに眉をひそめた。
「でもまだ傷も癒えてないみたいなのに、大丈夫なんですか?」
「なんてことないさ、この程度、ほら!」
キムの心配を払拭しようとして、旋は四方八方に左腕を振り回し――途中で全身を強張らせるように固まってしまった。どうやら万全には程遠いらしい旋の顔を見て、キムはますます不安げに表情を曇らせる。
「やっぱり。あまり無理すると後に響きますよ」
「いや、大丈夫、大丈夫」
旋は脂汗をかきながらも、今さら討伐軍から離脱するつもりは微塵も無いようだ。彼の中では己の左腕の負傷よりも、飛禄や仲間たちを傷つけた賊への怒りが勝るのだろう。
ただ次に彼が発した一言に、翠は思わず旋の顔を見返した。
「今回ばかりは、俺自身が乗り込まなきゃいけねえんだ」
そう語る旋の両眼には復讐以上の、余人には窺い知れぬ思い詰めた表情が宿っていた。




