第五話 宰師変翔
旻の宰師である変翔は、元々は耀の出身である。
神獣を祀る神官の家系に生まれた彼は、幼い頃から学問に秀でていた。その能力は神事よりはむしろ政事に向くと判断した変翔の父は、彼を旻の都・稜の大学に留学させる。果たして父の見極めた通り、変翔は大学でも優秀な成績を修め、見事稜の宮殿に仕える役人として登用された。
耀人が稜で役人となること自体は、そう珍しいことではない。だが変翔のその後の立身出世は、歴代の耀人官僚の中でも群を抜いていた。彼は持ち前の才覚を活かして宮中でめきめきと頭角を現し、いつしか旻王の側に仕える重臣筆頭にまで登りつめていた。
「変翔を怖れる者は多いが、嫌う者は存外少ない」
上紐恕は変翔の人となりを、そう説明した。
変翔という男は冷徹で目的のためには手段を選ばない。一方で彼の私邸は稜の都でもとりわけ質素で蓄財にも全く興味を示さない、無私の人というのがもっぱらの評判だ。
「奴が単陀李を追い落としたのは、単陀李のような小物が側にいることこそ、王陛下には災いになると見做したからだろう。変翔はあくまで己の職責に忠実なだけだ」
「そのようなお方が、今度は島主様を危険と判断されたということですね」
頭から顔まで純白の頭巾に覆われたキムの瑠璃色の瞳に見返されて、上紐恕は声を立てずに笑ってみせた。
上紐恕とキム、そして翠のほかにはお供の二名という一行は、稜の川港で船を下り、今は広大な都の街区の合間を練り歩いている最中である。
島主ともあろう者ならてっきり馬車でも使って真っ直ぐに宮殿を向かうのかと思ったが、上紐恕はまるで都を見物でもするかの如くのんびりと歩いている。お陰で翠などは船中の不安などどこへやら、港を降りたときから稜の壮麗な町並みにすっかり目を奪われっぱなしだ。なにしろ大きな通りは鱗の港町をはるかに上回る人混みに埋め尽くされ、左右に並ぶのはそのどれもが洗練された豪奢な建物ばかりで、キムも目移りしてばかりである。
翠に至っては気がつけばふらふらと一行から離れて、目を離したらあっという間にどこへと行きかねない。
「スイ、あんまりよそ見ばかりしてるとはぐれるわよ」
キムは口元に巻いた頭巾を片手で押さえながら、夢遊病者のようにうろつき回る翠をその都度呼び戻す。
「迷子にならない程度なら大目に見てやれ。なんならキム、お前も一緒に見て回っても構わんぞ」
上紐恕の言うことは、いくらなんでも鷹揚に過ぎるようにキムには思われた。これほど巨大な都市を見て回りたいのはキムだって同様だが、そもそも今回彼らが稜を訪れたのは旻王に呼びつけられたためなのだ。暢気に街中を観光している場合ではないだろう。
だが上紐恕の涼しげな目元に、一向に焦る気配はない。
「いずれ宮殿には着く。稜は広いのだ。のんびり見て回るのも一興だろう」
そう言えば鱗からここ稜に向かう船も、取り立てて船足が速いわけではない、平均的な中型船であった。そのことに思い至って、キムはようやく上紐恕の意図を悟った。
「……あまりあからさまな時間稼ぎは、かえって怪しまれるのではないですか?」
キムの言葉を受けた上紐恕は、彼女の顔を見返して薄い笑みを浮かべる。
「さすが、この世界を書き著した天女にはお見通しか。そうだな、もしお咎めを喰らったらそのときには、迷子になった天女の世話役を探して遅くなったとでも言い訳させてもらおう」
そう言うと上紐恕は、今度は呵々と大きな声で笑った。
***
港に着いたのは朝方だったはずの一行が旻王の宮殿にたどり着いたのは、間もなく陽も落ちようという頃合いのことであった。
厳めしい面構えの衛兵たちが守る宮殿の門でしばし待たされた後、ようやく現れた案内人の後に付き従って歩く宮中は、噂に聞くよりもはるかに広大だ。白い玉石が敷き詰められた中庭を貫くように伸びる参道には、両脇に等間隔に備え付けられた篝火が列を成している。その中央を行く一行の足取りは、いささか重い。
「まさか本当にスイを探すのに時間を取られるとは思わなかったわ」
くるまった頭巾の隙間から覗くキムの瑠璃色の瞳に、少なからぬ疲労の色が見える。その後ろで翠は悄然と肩を落としていた。
「……ごめんなさい」
「嘘から出た誠という奴だな。言霊の力を侮ってたわ」
上紐恕の言い草が皮肉程度で済まされていたのは、翠にとってはいっそ救いであったろう。稜の町並みについ紛れてしまった彼女を探し出すために、一行は図らずも最大限に時間稼ぎをこなしたところであった。
「お陰で待ちくたびれた宰師殿は、さぞお怒りだろうよ。宰師殿の焦りを誘おうという主君の意を汲んだ翠の配慮、儂は果報者だわ」
言葉の端々に嫌みを込められて、翠は改めて大袈裟に頭を下げる。
上紐恕は天女たるキムを同席させることで、宰師の追及をかわす算段らしい。そのキムと会話するには世話役の翠が必要と申し伝えていた以上、その翠を稜の町に置き捨てるわけにもいかなかったのだ。
身体全体で恐れ入る翠を見て、上紐恕は軽く口角を上げた。
「まあ、良い。この程度で焦れてくれるような宰師殿であればこちらも楽なのだが、そう簡単な相手ではなかろうよ。いよいよ王陛下との謁見だ。お前も同席するのだから、せいぜい礼を失せぬよう心懸けよ」
宮中でも最も奥深いところにある王宮に足を踏み入れた一行は、ついに旻王との謁見の間に通された。
天井の高い、巨大な一室の手前から奥に向かって伸びる、金毛に縁取られた鮮やかな深紅の絨毯の中央に上紐恕が平伏する。彼から数歩下がった後には未だ頭から純白の頭巾を被ったままのキムが、さらにその斜め後ろに翠が、若い島主の仕草を真似て面を伏せる。
絨毯が伸びる突き当たり、数段上がった床上に設けられた背凭れの高い椅子に腰掛けるのが旻王であった。立派な冠に黒と赤の衫を重ね着した王らしい装いの旻王は、痩けた頬に青白い顔が見るからに生気に乏しい。当代の旻王が病弱であることは、旻の民には公然の秘密である。
だがこの場で彼が口を開く必要はない。彼の一段下に立つ、真っ直ぐに背筋を伸ばした小柄な男が、上紐恕との会話を全て取り仕切るからだ。
「鱗の島主、上紐恕にございます。陛下の思し召しにより、稜に参上いたしました」
面を伏せたままの上紐恕に向かって声をかけたのは、王ではない。上紐恕の頭の上から言葉を投げかけたのは、王の傍らに侍る宰師・変翔――この国の実質的な最高指導者と目される男であった。
「上紐恕、面を上げよ」
その声はしんと静まりかえった広間によく響き渡り、だが氷を呑み込んだかのように冷ややかで、端から妥協を許さないという意志が込められていた。王の側に侍る変翔はその小柄に反して、この場で最も威圧的な迫力を身にまとっている。
「そなたが今朝方にはもう川港に到着していたことは、港湾頭から既に聞き及んでおる。宮殿に参上するまで何故これほどの時間を要したか」
冷ややかな口調で遅刻を咎められて、震え上がったのは翠であった。絨毯に額を擦りつける勢いの彼女の前で、上紐恕は努めて慇懃に答える。
「我らのような田舎者には、この稜はなにしろ大きい。遠くに聳えます宮殿に向かって歩けども歩けども一向に距離が縮まらぬことに焦り、つい道に迷いました。何卒ご容赦頂きたい」
「そなたは過去にも参上しているだろうに、道に迷ったと申すか」
「その際の案内役を同伴させることがかなわず、このような不始末と相成りました。なにしろ近年、鱗に課せられる税はいや増すばかり。随行人もぎりぎりまで絞らねばならぬ有様でして」
釈明するようでいて、さりげなく稜への貢納品の多さに関する不平を混ぜ込む辺り、上紐恕も言われっぱなしでいるつもりはないらしい。平伏したままの翠はふたりのやり取りを耳にしながら、早くも首筋に冷や汗が滲む。
上紐恕の言を聞いても変翔は眉ひとつ動かさない。もとより彼らの遅刻を詰ることに時間を費やすつもりはないのだろう。
「さほどに懐具合が厳しいという割に、鱗では兵を募っているというではないか」
いよいよ喚問の本題に、変翔が触れた。