第四話 稜へ
島主の屋形に稜からの遣いが訪れたのは、鱗の島中で海賊討伐の準備が推し進められる最中のことであった。
「海賊を討つために軍を編成中という報告は受けているが、それにしても規模が大きすぎるのではないか。島主直々に稜に上り、陛下に詳細を報告せよとのお達しです」
使者の口上はつまり、鱗の島主である上紐恕に対する、都への召喚を命じる内容であった。
上紐恕は使者に向かって「陛下のお達し、謹んで承りました」と従順にひれ伏してみせる。だが彼の部下たちは大上段な物言いに一様に色めき立ち、使者は全身に殺気を浴びて震え上がる始末であった。
這々《ほうほう》の体で屋形から退去する使者を見送ってから、上紐恕は部下たちに向かってしかめ面を見せた。
「お前ら、都から直々の遣いをあまり怖がらせるな。鱗の屋形には礼もわきまえぬ荒くればかりと噂されるぞ」
「申し訳ございません。あの居丈高な振る舞いには我慢がきかず」
上紐恕の一の部下である駕蒙が、恐れ入りながら頭を下げる。
「儂に召喚命令が下るだろうということは、事前に言い含めていただろうが。これも天女の思し召しだ」
上紐恕は『大洋伝』の存在までは部下には明かしていない。ただ彼らを不安がらせない程度に、必要と思われる箇所だけを天女の託宣という形で伝えてある。
「それで島主様は、やはり召喚に応じられるのですか」
駕蒙の問いに対して、上紐恕は肩をすくめながら頷いた。
「やむを得まい。ここで応じなければ叛意有りと見做されて、やがて鱗は大軍に取り囲まれるぞ」
「ですが稜の宰師は島主様を良く思っておられぬ様子。島主様が稜の宮殿に着いた途端に捕縛されるという可能性も十分有り得ます」
上紐恕ならずとも、近年の稜が鱗に対して圧力をかけ続けているということは、彼に仕える者であれば誰しも痛感している。駕蒙の言葉は部下一同の心情を代弁していた。
「せめて私と護衛百名の随伴はかないませんか」
駕蒙の申し出を、上紐恕は却下した。兵を伴って都に上るなどすれば宰師のみならず、旻王にもかえって怖れを抱かせることになるだろう。
「稜に上るのは儂を含めて数名とする。案ずるな、駕蒙。伴には天女も同行させよう。宰師はともかく、陛下の興味を惹くには十分だろう」
むしろ上紐恕としては、彼が不在となる鱗にこそ駕蒙が必要であった。
「儂が稜に上る間も軍の編成は進め、予定通り乙に進発するのだ。儂のことは乙で待て。これほどの大事を任せられるのはお前しかいない」
島主から重要な任務を託されて、駕蒙は深々と頭を下げた。
***
「まさかこんな形で稜を拝むことになるとは、思ってなかったなあ」
父の船に忍び込んだ際にたどったときと同じ海路を、また船の上から眺めることになろうとは、翠には思いもよらなかった。
あのときは往路で早々に旋に見つかって、結局稜の港で停泊する船から一歩も下船させてもらえないまま、鱗に舞い戻る羽目となったのだ。
そしてその帰りに空から降ってきたのが、今並んで甲板に立つキムである。
「リョウに着いたら、もしかして幻のローランともお目にかかれるかもしれないわね」
キムにそう声をかけられてもどんな顔をすれば良いのかわからないまま、翠は手摺りに凭れかかった。明るい日差しの下、やや波の高い海面を、ふたりが乗る船は滑るように駆け抜けていく。
上紐恕が都・稜に上るため進発した船には、同伴する天女たるキムの世話役として、翠もまた同乗していた。なにしろ翠は世話役だけでなく、上紐恕の思いつきによってキムの通訳係という役まで押しつけられている。
もっともお陰でキムから離れずに済むのだし、こうして憧れの稜を訪れることにもなったのだから、本来なら上紐恕の機転には感謝しても良いぐらいだろう。
だがそこまで手放しに喜んでられるほど、翠も脳天気ではない。そもそも今回の稜行きは、旻王から召喚されたという上紐恕のお供としてなのだ。稜に着いたとして、のんびり都を見物して回る余裕などないだろう。
それ以上に翠の心が晴れないのは、キムに指摘された通りであった。
仮に翠も宮殿に上がったとして、もし宰師・変翔の傍らに琅藍を名乗る人物がいたとしたら。いったい自分はどうすれば良いのだろう。
彼女の筆名と偶然同じ名前の人物がいる可能性は、もちろんある。ただ琅藍という筆名は、翠としては絶対にこの世界では無さそうな名前を選んだつもりなのだ。それほど珍しい名前であることに加え、その琅藍が書いたという『天覧記』は『渺遊紀』にも似た、異世界紀行文の体を取った創作物なのである。
これほどの偶然が重なっても無関係であると言い切ることは、翠には出来ない。
「『渺遊紀』って、翠が私に見せてくれたあの一冊だけなの?」
キムの質問に対しては間違いなく言い切れる。この世に『渺遊紀』は、飛家の屋敷に置きっ放しの、翠が自ら書き起こした一冊しかない。
「『渺遊紀』を実際に読んだことあるのは旋と鰐、それにキム、あなたを入れて三人だけだよ。鰐なんかは、面白いから写本しまくって売り出そうとか言ってくれたけど。さすがにそこまでやる度胸はなかったなあ」
「だとすると、誰か『渺遊紀』を読んだことのある人がローランを名乗っているとか、そういう可能性はなくなるわね」
キムの言う通りなのだ。仮に翠が『渺遊紀』を世に出していたならば、誰か手にした者が琅藍の名を騙る可能性はあった。だがそんな可能性はないということは、誰よりも翠がよくわかっている。
「せっかく稜に行けるってのに、こんなに複雑な気分のまま行きたくないよ!」
これ以上悩むのは御免だとばかりに、翠は力一杯に両手を天に突き上げる。その様子を見てキムが愉快そうに笑いかけて、だが彼女の笑声は尻すぼみに掠れていった。
「そうだねえ。どのみちリョウに着いたら多分、結構どたばたすることになるはずだから。のんびり観光は諦めた方がいいよ」
「……やっぱり稜でもひと悶着あるのね?」
今やすっかり『大洋伝』の中身を思い出したらしいキムは、稜に着いたら何が起こるのか、既に心得ているはずである。その彼女がやけにげんなりした顔を見せるので、翠には悪い予感しかしない。
「ひと悶着っていうかなんていうか。スイ、鬼ごっこは得意?」
どうしてキムはそんなことを尋ねるのか。やがて真相を聞き出した翠は、キム以上にげんなりする羽目になった。