第一話 大飛沫
どこまでも澄み渡る青い空に、彩りを添えるかのように幾筋かの白い雲が走っている。
中天にある太陽に向かって聳える三本の太い柱には、それぞれ巨大な帆が掲げられていた。
大きさの異なる三枚の帆は、西からの風を受けて一様に大きく膨らんでいる。
「いい風だ」
船首に立つ若者が、帆を仰ぎ見ながらそう呟いた。頭巾の下の精悍な顔つきといい、中背ながら引き締まった体躯といい、見るからに船乗りらしい青年だ。
彼の視線の先にある帆は大きさこそ異なるものの、そのいずれも何本もの竹材が横に入った長方形の四角帆である。強風などの非常時には即座に巻き上げて畳み込むことが出来る、海に生きる民にはお馴染みの帆だ。
洋上を複雑に吹く風を捉えるのに、三枚の帆が綺麗に真正面を向くことは意外に少ない。飽きるほど船に慣れた青年の目にも、その様子は雄々しく美しく映る。
「この調子なら、あと三日もすれば鱗に着く」
快調な船足に、青年の口振りは満足げだ。そんな彼の声とは対照的に、露骨に不機嫌な声が応じる。
「ああ、もう。最悪だったわ」
その声は青年の落ち着いた声音に比して、いかにも年若い。少女の声だ。
少女は両腕を前に投げ出して、船首の手摺りに全身を預けるように凭れかかっている。揺れる甲板上でもびくともしない青年の逞しさと比べると、その姿のだらしなさは一層際立って見えた。
「いい加減にしろ、翠。いつまでふて腐れてるんだ」
青年が呆れ顔で声をかけても、翠と呼ばれた少女は振り返ろうともしない。
「だってせっかく都を目の前にしながら、船の中に閉じ込められたまま引き返すなんて。いくらなんでもあんまりじゃない?」
「そもそも勝手に船に潜り込んだお前が悪い。頭領の娘じゃなかったら、海に叩き落とされてるところだ」
「何よ、旋のわからず屋」
少女は両手で手摺りを押すように身体を起こして、肩越しに睨みつけるような視線を寄越す。
「まだ若いくせに、言うことがいちいち爺臭いのよ」
青年に悪態をつきながら、そして少女はようやく振り返った。
中背の青年よりもさらに頭ひとつほど低い、年には相応の背格好に、やや丸顔気味の十分に可愛らしい面持ち。だが大きな黒い瞳から窺える、見た目にそぐわない気の強さが、可憐と呼ばれる余地を吹き飛ばしている。
「誰のせいだと思ってるんだ」
両手を腰に当てて頬を膨らませる翠を見て、青年――旋は頭巾の上から頭を掻いた。
「毎度暴走するお前さんに振り回されてたら、誰だって爺臭くなるさ」
「振り回される方が悪いのよ」
「よく言うよ。だいたいなんだ、その格好は」
旋に指摘されて、翠はばつが悪そうに口をつぐんだ。
自慢の長い黒髪を頭の上で無造作にまとめ上げて、その上にくるむように被さった頭巾の余った先がうなじにかかっている。細身の身体に羽織るのは、裾の短い褶と袴だ。さすがに褶の下には内衣を着込んでいるが、要するに見た目は船乗りの旋と変わらない。
「水夫に変装してまで乗り込むとは、奥方様が見たら目を回すぞ」
「だって一度でいいからこの目で都を見てみたかったんだもん。仕方ないでしょう!」
何が仕方ないというのか、少女の言い分は勝手もいいところだ。だが幼い頃から見てきた彼女のことを、旋はよく知っている。思い立ったら行動せずにはいられない、それが翠という少女なのだ。
「まあ、俺からはもう何も言わんよ。せいぜい家に帰ったときの奥方様への言い訳を考えておくんだな」
そう言って大袈裟に肩をすくめる旋の態度がよほど悔しかったのか。翠は細い眉根を寄せて、何か言い返そうと口を開きかけ――
「――あれ、何?」
翠の目は正面の旋ではなく、彼女から見て左手の、それも上の方に向けられている。旋は彼女の視線につられて、右斜め後ろを振り返った。
大きくはためく帆の、さらに向こうに広がるのは見渡す限りの大海原。今日はほどほどに白い波頭が見え隠れする程度の、穏やかな海面だ。ほかに見えるものといったら、ところどころ白い雲はあるものの快晴そのものといって差し支えない、突き抜けるような青空ぐらい――
いや、それだけではなかった。
「なんだあ、ありゃ?」
四角帆のてっぺんよりもさらに上の、小さな雲と雲の合間の辺りが何やら輝いている。一瞬太陽かと見違えたが、そんなはずはない。反対方向に目を向ければ、そこにはここまでの航程で燦々と陽光を降り注ぎ続けてきた、見慣れた太陽の姿が見て取れる。
「太陽じゃない。こんな昼日中から、あんなに眩しい星ってある?」
「聞いたことねえぞ」
翠も旋も右舷の手摺りに駆けよって、ふたり揃って輝きに向けて目を凝らした。輝きはどうやら徐々に明るさを増していくように見えた。
「ねえ、なんだかあれ」
「もしかして、こっちに落っこちてくる?」
その頃にはもう彼らふたり以外にも、船員たちの多くが輝きの存在に気がついていた。皆が作業の手を止めて見上げる間に、その輝きは加速度的に近づいてくる。それが落下しているのだとわかったときにはもう、その場から逃げ出す暇などなかった。
「危ない!」
思わず旋が翠の身体に覆い被さったのと、大きな着水音と共に海面に水飛沫が上がったのは、ほぼ同時だった。
甲板に大量の波が降り注ぐ。背中から海水を浴びてびしょ濡れになった旋が「大丈夫か」と声をかけると、彼の腕の中の翠はこくこくと頷き返した。
「お陰様でね。旋こそ大丈夫?」
「こんなもん日常茶飯事だ」
そしてふたりは再び手摺りをつかんで、今度は水飛沫が上がったと覚しき辺りの海面に目を向けた。大きな波紋が残る、その中心にはまだ泡立ちが残っている。ただ、先ほどまでの眩いまでの輝きはもう消え失せていた。
「なんだってんだ、おい」
「星が落っこちてきたらしいぞ」
「馬鹿言え、そんなわけあるか」
翠たちと同じように右舷に駆け寄った船員たちが、銘々に思うままを口にする。
「なんだと思う?」
波紋の中心から視線を逸らさないまま、翠が尋ねた。
「なんだろうなあ……」
旋は皆目見当つかないといった面持ちで翠の横顔を見返した。少女の瞳は、つい先刻までの不機嫌など忘れ去ったかのように、好奇心に充ち満ちている。
「本当に星が落っこちてきたのかしら?」
やがて海面に目を凝らしていた船員の内、とりわけ目が利くひとりが発した大声が、彼女の問いに答えを告げた。
「人だ!」
その声に翠と旋は、信じられないという表情でお互いに顔を見合わせる。
「人?」
「本当かよ」
それぞれ口にした言葉を打ち消すように、船員はさらに興奮した口調で喚き立てる。
「若い女だ! 女が天から降ってきた!」