回想③〜謎の男、中野独人〜
やってしまった。本当にやってしまった。2004年の3月15日早朝、僕は頭を抱えていた。酒に酔って落ちて、気づいたら朝。これまでROM専を守ってきた掲示板に書き込んだのだ。しかも、完全な嘘話を。いや確かに本当か嘘かなんて誰にも分かりやしなけれども、だからと言ってまるっきりな嘘を書き込んでしまったのは事実である。
何だよ勇気のあるオタクが電車で暴れている酔っ払いに仲裁に入ったって。入ってねえよ腹殴られただけだわ。そこで女の子助けて警察沙汰になってひと事件解決したって、釣りにもほどがあるだろ!!しかもなんで僕働いている設定なんだよ。僕はそこら辺にいる大学生だぞ!?!?
あーだめだだめだ今すぐ消したい。いやでも待てよ、このまま書き込みをしなかったならば、ただの勇気あるオタクが勇気出して事件を解決したそれだけのお話になるではないか。そうだここから何も書かなければいいのだ。いい話でしたで完結完結。ほら掲示板にいる人間もみんな別の人の恋路を注目しているじゃないか。うん、忘れよう。電車男なんていなかった、いいね?
僕はそれから、いつも通り暇な大学生活を過ごしていた。大学生活と言ってもその頃はまだ春休み。バイトをしたり同級生たちと遊んだりリア充どもは彼女と旅行にでも出かけているのだろう。まだ留学ブームも来ていない頃だし、大学生の春休みなど遊んでばかりのものが大半だ。そしてそれは、僕も変わらない。ただ遊び方がBBQをするかアニメとゲームに没頭するかの違いだ。
昨日買ったライトノベルを読破した僕は、その足で感想を書き込みにブログを更新しようとした。当時はブログブームの初期である。黎明期と呼ぶにはすでに知れ渡っていたが、当時は何かあればブログを更新する時代だ。僕も自分のブログを持っていて、たまに北田とか鈴木とか見知らぬアニメファンがコメントを書き込んでは議論を繰り広げていた。
「本作はこれからのアニメ界をしょって立つ一作となるだろう、っと」
独り言を言いながらブログを更新した。結構な褒めちぎりである。その時本作の内容にとても感動したのを覚えていた。その時付いたコメントが確か、
【今更かよ、俺は1巻発売時から確信していた】
というさらなる信者からのコメントだったことを覚えている。そして現代からの視点で言わせれば、この谷川先生の著作はアニメ界どころかオタク文化すらしょって立つ社会現象を巻き起こしたのだから面白い話である。少し威張りたくなった。
それからその当時追っかけていたHPの小説を読み漁った。VRMMOという当時まだ聞きなれなかったジャンルのファンタジー小説と、北海道のファミレスを舞台にした日常系4コマラブコメ漫画。どちらも今となっては超がつくほどの人気作だが、当時はネット上で公開されていたのだ。いや後者は今でも公開されているが。その他にも色んな作家さんがHPをもって作品を公開していた。今のネット小説文化、ネット漫画文化の先駆けである。
作品鑑賞がひと段落したらアニメを見て、PS2でゲームをして、掲示板をぶらぶらと徘徊して……そんないつもと変わらない日々を送るうちに、自然と機能の出来事など忘れつつあったのだった。あるコメントがつくまでは。
戦国無双で前田慶次を使いひと暴れした後で、自分のブログに戻ってきた。コメント欄に何か書かれていないかなあと思ったのだ。もう時刻は夕方になっていただろうか。そろそろ版ご飯を食べに王将にでも赴こうかと思っていた。
コメント欄にURLが貼ってあった。その下には書き込みがあった。
【初めまして!!そのスレのリンクにいた人のことを探しています。昨日の夕方に秋葉原から帰宅したとのことですが、もしかしてこんな事件が起こってたとか、そんなことありますか?あれば教えて下さるとうれしいです。追伸、ハルヒ大好きです。今後ともよろしくお願いします】
怪しい、と今なら思う。当時でも怪しいとは思ったが、一応読んでくれた小説についても触れていたからとURLまで飛んでみることにした。
リンクが貼られていたのは普通のブログだった。何の変哲もない、飾り気のないブログだった。そこにはこう題名が書かれていた。
【感動の実話!?電車男がとった勇気ある行動!?】
そして内容はというと、自分の書き込みが抜粋して掲載されていたのだ。酔っぱらいの男が電車内で女性に絡む。それについて電車男である僕が注意する。酔っぱらいに殴られる。近くにいたサラリーマンに酔っぱらいが制止される。警察のお世話になり、近くにいた女性たちから感謝されるまで、わかりやすく要点だけまとめていた。そしてそのブログは、最後にこう締めくくられていた。
【いかがでしたか?是非ともこの続きの物語を知りたいですよね?皆さんの情報も募集しております。再び電車男が現れるのを待ちましょう!!】
いやいやいやいや、おかしいだろう。僕が掲示板に書き込んだのは昨日の夜だ。それがこんな早くに取り上げられるなんて、当時の時間感覚としてあまりにも不自然だった。しかしながら、僕は少しだけこうとも思ってしまったのだ。
これは、続きを掲載しなければならないのではないか?と。
確かに本文には今後動きがあれば展開するとは言っていたものの、その気は既に消え失せていた。でも、待ってくれている人がいるのなら、少しくらい……
いや何を書けっていうんだよ!!!完全に捏造だってのに。
とりあえずコメントを返そうと思って、何気ない内容を返した。内容は知らない、ハルヒは好きだ。そんなやる気のない読書感想文のような内容を書きこんで、一旦息を吸った。落ち着け落ち着け。
カップ麺を作るためにお湯を沸かしている間に、昨日書き込んだスレを覗いてみた。もう別の人の報告で話題が染まっていた。よかったよかった。もう忘れられているみたいだ。
いや、書き込みがあった。
【731
1が~大変スレで登場。電車に乗っているとき、DQNの爺さんからおばさんと女性を助けた正義のヒーロー。おばさんと女性に名前と住所を教え、連絡待ち。うまくいくと、おばさんと女性の両方を獲得できるネ申。】
うん、やはり待たれているのか。僕は頭を抱えてしまった。いやでも、昨日の今日だ。まだ報告しなくてもいいだろう。そんなすぐに進展なんてしない。男女の関係なんて結構時間のかかるものだし良く知らないけれど。
そうやって自己完結して、現実から逃げようとしていたときに電話がかかってきた。ケータイがブルブルと振動していた。あまりにもびっくりしてしまって、変な声が出そうになった。丁度カップ麺にお湯を注いでいたので、注ぎ終わってから電話に出た。
「はいもしもし」
「……もしもし」
今から思えば知らない番号に出てしまったのか。不用心である。まあ当時は世間知らずなただのオタクだから許してほしい。この世の怖さを一つも知らない20歳に、ここからのはったりを見抜く力はなかったのだ。
「電車男さんですか?」
低い男の声がした。テレビで流れているナレータ―の声かと思うくらい、大人の声だった。
「私はあのブログを書いたものです」
え???どうして????どうして電話番号を知っているんだ????思えばここでさっさと着信拒否をすればよかったのである。しかしながら理解できない状況に陥った僕は、そのまま電話主の話を聞き入ってしまったのだ。
「貴方様のご友人より紹介を受け連絡させていただきました。誠に申し訳ございませんが、あの後どのような状況になっているか教えていただけますでしょうか?」
「あの……あなたは誰ですか?」
ようやく出た言葉がこれだった。いいから切れと、コメントで起こられてしまいそうだ。どれだけパニックになっていたのかがわかるだろう。
「私ですか、本当ははぐらかしたいところですが、私だけはぐらかすのも不公平でしょう」
電話口の男は軽くリップ音を鳴らしつつこう告げた。
「名前は、中野独人。しかしこれはHNのようなものです。ですので所属会社をお伝えしましょう。株式会社O-tech」
聞いたことのない名前だ。それは向こうも承知だったのか、
「お聞き慣れしていないでしょう。業態は、ネット広告代理店とでも言いましょうか」
広告代理店?電通とか、博報堂とかだろうか。そんな会社が僕に一体何の用事だというのか。
「は、はあ」
「あとでデジタル名刺をメールアドレスにて送信いたします。よろしくお願いいたします」
「いや、それはまあいいんですけれど、僕に何の用事が?あと僕電車男って名乗ってなくて……」
「申し訳ございません。何分名前も知らぬままお電話をおかけいたしましたので……しかしながら、掲示板にお書きになったあの物語、私共大変感動いたしまして。オタクな青年が勇気を出して女性を救った。素晴らしい若者だと感服いたしました」
嘘だけどな。これは……多分言うべきだろうな。僕は流石に直感的に思った。どうやって見つけてきたのかわからないが、あれは嘘だと伝えるべきだ。さすがに嘘の喧伝をされて心が痛まないほど神経は太くない。身体は太くても神経は細いのが僕だ。
「私共はネット広告代理店。こういったネットに落ちている情報を吸い上げて発信することをその生業としております。掲示板に落ちてある書き込みをまとめ、わかりやすく可視化して皆さんに提供する。将来的にはそのサイト内に広告主を募り、サイトを運営していくことも考えております。その際に、是非とも本件を取り上げたく。何せこんなにも勇気ある行動、広めたいという一心でございます」
「いや……あの……」
「これまで、オタクという者は蔑まれてきました。ロリコンだの社会不適合者だの犯罪者予備軍だの、散々な扱われ方をしてきました。しかし、それは違うと私は思うのです。あなた方はとても温和で、優しく、思慮分別がある人間だと思うのです。アニメには無限の可能性がある。世間で認められているのはポケモンのような子供向けアニメとジブリのようなお墨付きのあるアニメだけですが、そんなものではないと思うのです」
「はあ」
「一般の大手広告代理店は既存のメディアに都合がいいものを売り出すことに躍起で、こうした今眠っている潜在的な魅力を打ち出そうとしておりません。そもオタクを犯罪者呼びしたプロパガンダの頂点は今の既存メディアです。このままオタク達が悪い意味で注目を集めてしまったならば、この文化は滅んでしまう。それを防ぐべく、我々は活動を続けているのです」
どんどんと熱くなる中野さんの言葉を聞いていると、徐々に口をはさめなくなっていった。麺も伸びてきたし、今回は適当なところでお茶を濁そうかなと思ってしまった。こうして問題を先送りにするのは、僕の悪い癖だ。
「あっ、わかりました。只今のところ書き込んだ内容より進展はございませんので……」
「いえ!!!続きでしたらまた掲示板に書き込んで下されば結構です。書き込む前に一方メールしてくだされば大丈夫ですので、何卒宜しくお願い致します。ありがとうございます」
どうやらまとめるのは確定路線らしい。こんなの、一体誰が見るんだろうかと思いつつ、僕は適当に相槌を打って話を切り上げさせた。そしてネットにも書き込んだ。
【昨日はどうもです。昨日の今日ですが、さすがに何もアクション無しです。……以下略】
そのほかその場にいた人間の特徴を適当に書いて、少しやり取りしてその日は落ちた。まあ、ここからこのスレに書くような話はないだろう。そんなに世界はうまくできていないのだから。
次の日の夕方のことだ。バイトに出かけて帰ってきている途中に、携帯のバイブ音が鳴った。自転車に乗って帰宅していたため、駐輪場に止めてからその内容を見た。あて先は……
「お疲れ様です。久保柳です。この前はご歓談にお誘いいただきありがとうございます。宜しければ、少しお話したいと思っているんですけれども……」
久保柳さんからだった。このメールが、僕が母親以外で初めて女子からもらったメールになるのだが、今となっては恥ずかしい話だ。