現在①-祭りの後に舞う
目を覚ました時に、まるで誰かに殴られたかのような腹痛がした。誰かに殴られたかのような頭痛もした。そして視界がゆがむほどに気持ち悪かった。僕は即座にトイレへと駆け込んだ。この症状を僕は知っている。いわゆる二日酔いだ。
昨日の記憶が朧げになっていた。何軒回ったかも最早覚えていなかった。どんな会話をしていたかも、記憶が薄くなっていた。加齢というのはよくないな。昔は飲み屋に行って酔っ払ってもある程度記憶が保たれていた。何を話していたか覚えていないとか、寝る前どんなことをしていたのかとか、完璧に覚えていたのに。僕は粗方吐き切った後で、テレビをつけた。
都内に2DK1人暮らし。36歳にしては贅沢なのかもしれない。いや貧乏なのか。動機の中には結婚して子供を作って一軒家を買って暮らしている者も多数いる。自分の同期でも未婚率は低めだ。それでもこの二部屋暮らし、苦労することは特になかった。寝る場所と飯を食べる場所だけ別けてあれば、QOLは向上するのだから。
朝ごはんのパンを頬張る気になれなくて、僕は水を啜りながらぼーっとしていた。時刻は朝の8時。ワイドショーが最近の政府批判や官僚批判について話し合っていた。そういや最近はテレビを見ない若者が増えているらしい。ネットが身近になった現代には、わざわざ買ってきたディスプレイをにらめっこしつつあーだこーだと情報を受け取るのは時代遅れなのかもしれない。良くも悪くも発信できるのが現代のネットだ。受動的な人間には生き辛い世の中だ。
テレビとともにネットを開いてしまうのは昔からの悪い癖だ。今ならリアルタイムの反応を、いわゆるSNS類いのもので手に入れるのだろう。しかしながら昔はネットの掲示板くらいしかなかった。そりゃ昔からデマを流したり口汚い言葉を使う者はいたが、それでもワイワイと盛り上がれる空間だった。今のSNSと何が違うのかといわれたら、いや多分何も違わない。ネットを使う人間が多くなったから、いわゆるローカルルールという者が完全撤廃されているくらいか。本質的には何も変わらないと、少なくとも自分はそう思うのだ。
今でも掲示板では喧々諤々と議論が酌み交わされている。そこで、あのツイートについての掲示板を発見してしまった。
≪【速報】Twitter民、電車男を偽って投稿wwwwwww≫
興味本位でスレをクリックしてしまった。
≪Twitterとかいう自己顕示欲の塊wwwww≫
≪こんなんに釣られるやつおんのかwwwww≫
≪そもそも電車男自体が壮大な釣りだろ≫
≪こいつがマジって可能性あんの≫
≪>>135んなわけないだろ。だとしたらこんなところで言うわけないし≫
ネット民からの評価は散々だった。そりゃそうだろう。SNSを使っている人たちと掲示板を使っている人たちとは全然合わない。その割にネットをネタにして色々論評を繰り広げていることは内緒だ。寄生しているのでは?とすら思ってしまう。
中にはこんなことを書いているものもいた。
≪そもそも本物でもがっかりだよな。あの時には散々自分はスレ民全員で作り上げたとかぬかしておいて、こんななんでもない時に武勇伝みたく拡散するってさ。電車男も落ちたなって感じ≫
≪そもそもネットミームって、もっと権利者とかあいまいなものだから、慎重に扱うべきだと思うんだよな。俺が生み出した!起源だ!みたいなの、控えめに言ってくそ≫
多分こう書きこんでくれている人たちは、昔ながらの掲示板住人なのだろう。目立っていくことについて警鐘を鳴らそうとするそれは、スレの中ではむしろ少数派だ。
≪なにこれ新たな祭りwwwww≫
≪おいネット探偵こいつの嘘を暴けよ≫
≪電車男?あーあのオタクがきれいな女の子と結ばれましたーっていうクソおもんない妄想話のこと?≫
≪今の時代ならマジで嘘松乙って感じだよなwwww≫
≪ほんとなら金の亡者って叩かれるし、嘘ならさらに叩かれる。こいつ詰んでるwww馬鹿だろwwwwww≫
まあ、うん。掲示板の人間に良心なんて求めてはいけない。そんなことは百も承知だったけれども、流石に自分のことが絡んだら少しだけむっとした。自分も散々してきたことだから、書き込むことはやめたけれども。
そもそも最初の投稿自体は夜の11時に行われたという。僅か8時間でこんなにも話題になるのかと。もしもTwitterとやらを見に行けば、どんな状態になっているのだろうか。気にはなったものの、見に行く勇気はなかった。古のオタクとして生きてきた僕にとって、それは未開の地。こんな心の銃撃戦中に足を踏み入れたい場所ではなかったのだ。
≪お前らめんどくさいからとりまプリキュア見ろよ≫
という書き込みを見て、はっとなった。そうか今からプリキュアが始まるじゃないか。見なくては……ん?
そう言えば、秋葉原で買っていた北田への選別の品、ちゃんと渡したっけな。結婚祝いの方は渡した自信があった。問題はアニメイトで発見したグッズの方である。
≪いい年してプリキュア見んな死ね≫
というコメントを流し読みしつつ、僕は北田に連絡を取ったのだった。
待ち合わせはいつも通りのラジ館前から。ラジ館も随分と様変わりしてしまって、昔の面影を残している場所は少なくなっている。それでも、待ち合わせはいつだってこの場所の前だ。人混みがすごいのは学生が春休みに突入しているからだろう。後外国人の多さも目立つ。そんな中でチェックのシャツをインしながら髪も碌に結わずはあはあ言いながら汗をぬぐう自分の姿が、誰を投影してもダサかった。これなら36歳妻無し子無しでも誰一人として疑問を持たないだろう。
「うー、頭痛い……」
さっと手を挙げた北田は見るからに二日酔いな顔をしていた。時刻はもう既に昼過ぎになっていた。
「すまんなわざわざ呼び出して」
「いいんだよ。嫁さん今日埼玉のライブに行ってて暇だったし、この辺歩く方が昨日の酔いも醒めるだろ」
「腹減ったんだけど」
「……安藤は相変わらずだな。昨日も食べ放題の焼き鳥何本食べたんだよ」
「お前は今まで食ったパンの枚数を覚えているのか?」
北田はジョジョのツェペリにそっくりなキレ顔を僕の方へ見せてきた。無精髭と彼の濃い顔とあいまってとても出来が良かった。その辺の外だけ似せたコスプレイヤーよりもよっぽどそれらしかった。強いて注文を付けるなら、学生時代の方が似ていたくらいか。やはり増量というのは厳しい現実なのだ。
「相変らずその顔うまいよな、北田は」
「安藤も得意じゃん」
「いや得意じゃねえよ」
「ほら、どの作品にも出てくるデブの悪役」
「うひひひひひ、僕の……僕の獲物だあ……」
僕は少しだけ涎をたらしながら腹の底から奇声を上げた。顔だって悪人面にして、まるで本当に相手を食べたいと思っているかのような……何年たってもわからない。
「それさwww昔っからずっと疑問なんだけどさwww一体何のアニメのキャラなのwwwwwww」
「わかんないwwwwwww」
2人していい大人が道の真ん中で大笑いしてしまった。昔からの持ちネタだ。一体どのアニメキャラなのか本当に分からないのだが、よく友人からはやってくれと懇願されたのだ。
「その、細かすぎてわからない物まね感ホント好きだわ」
「えー、どっかのアニメの、デブの悪役。うひひひひひ、僕の……僕の獲物だあ……」
僕はコント前の名乗りを追加して、某番組風に再度物まねをした。無論、北田には大うけしていた。
「地面パカっと割ってwwwwww落とさなきゃwwwwwwww落とさなきゃwwwwwwww」
その番組ではセット下に落ちるまでが芸だから、どこかにそんなところがないか探していた。無論そんなものないのだが、まあ悪乗りというやつだ。
「そろそろやめとこうぜ北田。めっちゃ奇異な目で見られるから」
既にすれ違った女子高生集団からなんだあのおっさんみたいな冷たい視線を頂いていた。残念ながら女子高生は最強なので、僕や北田みたいな小汚いおっさんは太刀打ちできない。
「そうだなwwwwwというかまず用事終わらせろよ」
急に北田は真面目な返答を始めた。元々は真面目な奴だ。
「あーそうだった。今日昼めし富士そばでいい?」
「全然かまわん。そばみたいなあっさりしたものを食べたい」
「おけ、んじゃ行こうぜ」
と言いつつアニメイトの袋を彼に差し出した。
「開けていいの?」
北田は歩きながらそれを開けようとしていた。僕もそれに追従していた。
「いいぞ」
「マジか。にしても懐かしいものってどんなの……」
そうして袋を開けて出てきたのは、アニメタッチのフィギュア。赤色のジャケットとチェックの入った青っぽいスカートを履き、白衣を着て眼鏡をかけた女の子。右手には試験管を持ち、左手はあごの部分に手を当てていた。ふわりと揺れた髪も表現して、上目遣いが可愛さを存分にアピールしていた。
「これはまさか……」
「キュアホワイト。お前ゆかな大好きだろ」
「あったりまえだろ俺の青春だぞ。マジありがと!!!」
声豚の北田には色んな推し声優がいるが、ゆかなは別格だと何度も言っていた。僕が何度言ってもみようとしなかった女児アニメも、ゆかなさんが出るといった瞬間に毎日朝早くに起きて見出したほどだ。
「にしてもアニメイトに入ったらふらっとこんなの買えるんだな。昔は入手するの結構大変だったのに」
「時代の流れだろ。それ渡せたからもう思い残すことはねえわ。そば食ってのんびり歩こうぜ」
僕はそう言って富士そばへ入った。紅しょうが天のそばを頼んで、2人そろってズーズー啜り始めた。
「そういやさ、久保柳って覚えてる?」
僕はズーっと啜っていた麺を吐き出しかけてしまった。いきなりその名前を呼ばないでほしい。
「お、おいおいどうした??漫画か?」
「現実だ」
この返しも昔からやっている定番ノリだ。漫画みたいなことが起こった結果、漫画か?→現実だ。と答える。動揺しながらでもこの返しができた自分に、少しだけ褒賞を上げたいと思った。
「で、どうしたんだ」
「いや、最近Twitterしてたらめちゃくちゃくさいアカウントがあってさ」
「くさい?アカウントって匂いがあるのか」
「まあそんな感じ」
いやそんな感じじゃないと思うが。
「ほら、ずっとお金のことばっかり呟いてるだろ」
そこに書かれていたのは、簡単に月10万円稼げる方法だの、仮想通貨の正しい始め方だの、自分がどれだけ成功を収めてきておりその方法は?などなどが書き連ねてあった。控えめに言って自分みたいな凡庸根暗サラリーマンとはそりが合わなさそうな内容だった。
「で、Twitterって他アプリで連絡先知ってたら知り合いですって出るんだけど、このアカウント、ずっと知り合いの方ですって出てくんだよ。で、Twitterのアカウント知らないのって久保柳さんくらいだなあって」
「だとしたら」
「アラフォーになってもこんなツイート」
やべえな、という心の声をすっと胸にしまった。
「まあでも全然確定してるわけじゃないだろ」
「まあな。他の子の裏垢の可能性もあるし。だから聞いたんだよ。あの子の近影を知らねえかって」
知っているわけがないだろう。知っているわけがない。16年前の5月16日。彼女との関係は完全に断ち切られたのだから。僕はそんなことを思いつつ、首を横に振った。
「そうかあ」
見せてくれたTwitter画面では、別の話題がちらついた。
≪電車男、ついに公開≫
≪電車男を名乗る者、嘘か誠か≫
≪真実か、嘘か……電車男の素性に迫る≫
「なあ、北田」
「なんだ?」
「電車男のやつって、まだ話題なのか」
「そりゃまあ。一番ホットな話題だな。色んな人が書き込んでるし」
「そうか……」
僕は少しだけ苦々しい顔をした。どうしよう。とても気になる。気になるし、言わないでいいのだろうか。本当は僕が電車男ですって、言った方がいいのではないか。
そんなことを言って、一体世界の誰が信じてくれるのだろうか。
「そういや、安藤っていっつも電車男の話題が出たら沈んでたよな」
北田の言葉に、僕ははっとなった。
「なんだ?個人的な恨みか?私怨か?逆恨みか?」
「ろくでもない奴ばっかだな」
「あ、沈んでたのは否定しないのか」
北田はそう言いつつズーズーそばを啜っていた。僕も無言で啜る。
過去に僕は、それを言えなかった。言いたくなかった。恥をさらしたくなかった。根掘り葉掘り聞かれるのを怖がっていた。信頼なんて、どこかに置き忘れてしまっていた。
「なあ、北田」
「ん?」
そばを食べ切った後で、僕は尋ねることにした。例え変なやつだって思われてもいいから、一度だけでも口にしたら何か変わるかもしれない。加齢による神経の鈍化が、この言葉を導いた。
「もしも、もしも僕が電車男だって言ったら、信じるか」
「信じるね」
即答だった。
「少なくとも、こんなところで今更のこのこ出てきた今の電車男よりは信じる」
なんだ、こんなにも心が落ち着く帰結があったのか。僕は若いころの自分を恥じた。恥じる点しかなかった、あの時の自分を……さっさと相談しておけば、あんなことにはならなかったのかもしれない。なんて。