回想①―本当のきっかけ―
2004年3月14日、僕はいつもと変わらず秋葉原にいた。その数年前からオタクの街として定着しつつあった秋葉原においては、自分のような日々隅っこで暮らしている青年からしたらこの街にしか居場所がなかったのだ。大学から地元を出て下宿をし始めた時から、僕の居場所はここくらいしかなかったのだ。
何を買ったのか、何を見に行ったのか、そんなことは全く覚えていない。思い出す気もない。多分冬クールの終わりかけだったから来期のアニメ情報を手に入れに行ったのだろう。覚えているのは、日が沈む前に京浜東北線に乗り込んだことだ。
電車に乗り込んだ瞬間、声をかけられた。
「北田じゃんなにしてんの?」
声をかけられたのは自分ではない。一緒に秋葉原で買い物をして、当時流行っていた女児アニメのグッズを買いあさっていた北田にだった。どうやらその男性は、北田と知り合いだったようだ。
「アキバに行ってた」
「まーたあそこ行ってたのか。お前も好きだねえ」
「別にいいだろ。そっちは?」
「上野でバイト。紅茶淹れてた」
北田に声をかけてきた男性は、大凡生きている世界が同じとは思えない風貌をしていた。重ね着したインナーに、金色の髪の毛。腰にはいたGパンに、春の気候にぴったしのデニムジャケット。黒色短髪とチェックのシャツと腰骨ぴったしに履いたチノパンで応戦するには、いささか以上にダサさが上回ってしまった。話し方も砕けていて、いかにも今どきの大学生という感じだった。いや当時の北田も僕も大学生だったのだが、流行とは真逆の方向へ向いていたから仕方ない。
「隣にいるのは?知り合い」
「おい同じ大学だぞ。学部は違うけど」
「えーマジで!?俺同じ大学の同じ学年のやつ大体覚えたと思ってたのに……何々??編入生!?」
「ちげーよ俺らと同じタイミングで入学してる」
「まじかあ。それがちで俺の失態だわ」
北田の友人らしき男性は手を伸ばしてきた。どうやら握手を求めているらしい。
「俺の名前は眉谷。眉谷尋。お前の名前は」
「あ、あ……安藤」
「安藤っていうんだ。よろしくね」
僕は手を握り返して、目も合わさずに下を向いていた。昔からのくせで、人の目を見て話すことができないのだ。今でも部下への指示をパソコン見ながら話したりしてしまう。一生をかけても治らない不治の病だ。
「もしかして北田こいつもオタク?」
「まあそうだな」
「そうかあ。安藤君も好きだねえ」
眉谷はそう言って手を放した。避けている、というよりも理解できない奴らだという諦めの視線だった。尊重というより、無関心といった感じか。
まだオタクという言葉が市民権を得ていない頃の話だ。今の人間ならこの反応でも目くじらを立てるかもしれないが、僕からしたら遠巻きで見られたりあからさまな拒否反応を示したりしてこなかっただけ救いだった。握った手を払われるくらいの態度は覚悟していた。一般人とはそういうもの。かの有名な掲示板と秋葉原とビックサイトにしか、僕らの居場所なんてないのだ。
「まあでもさ、北田。俺ら経済学部じゃん」
「そうだな」
「昨今の日本経済見てるとさ」
「うん」
「もうこの国は観光資源で生きてくしかないんじゃねって思う……」
そこから北田と眉谷で、とりとめのない話をしていた。内容は忘れてしまったが、それは彼が品川で降りるまで続けられた。僕はその言葉に耳を傾けなかった。傾けても教育系の学部に所属する自分では理解できなかったし、そもそも知らない人、しかも自分と全然タイプの違う人、と話をするのは苦手だったのだ。話をするのが得意ならオタクにならないというのは、昔の価値観であることは認める。でもその頃は、その昔だったのだ。
問題は、北田が降車した瞬間である。残されたのは、今日であったばかりの陽キャ大学生。こんなの対人スキル0の自分には地獄以外何物でもなかった。仕方ないので最近話題のライトノベルを読むことにした。ブックカバーをしているから何を読んでいるのかわからないだろう。
谷川何たらという新人作家が描く本作の実力を僕は少し疑ってみていた。本作がSFだという意見にはSFを軽視しすぎていると警鐘を鳴らしたかった。しかしそのストーリーの軽妙さは唸らせるものがあった。またスレ内で功罪含めて紹介しておくか。まだステマなんて言葉のなかった時代だから、気軽にそういった普及活動ができたのだ。
眉谷は眉谷で携帯電話を見ていた。当時はパカパカの携帯で、見れるサイトも制限されていたし、携帯用のサイトなんてものもあった。徐々に電車の中で見るものが、新聞書籍から携帯、そしてスマホへと移行する丁度最中の頃だったのだ。
そして事件はその車内で起こった。
「おおい!!!お前ら席を譲れ!!!!」
時刻は夕方5時半ごろだっただろうか。車内に入ってきたスーツ姿の男が、座っている女性たちに文句を言い始めたのだ。白髪が混じっており、皮膚に皴が寄っていたのを見ると、50歳か60歳くらいだろうか。確かにそろそろ退社ラッシュの始まる時間だったが、それにしては爺さんの顔が赤くなっていた。心なしか、一瞬で車内が酒の匂いで充満したようなそんな気がした。
「譲れっつってんだよ!!!お前らと違って俺たち男は毎日汗水たらして働いてんだよ!!!!」
流石にお互い大声の方を向いた。眉谷も、僕も、考えることは一緒だった。
「なんか、いますね」
「いるね」
眉谷はちょっと笑ってしまっていた。多分、あまりに状況が、というか怒鳴り始めた爺ちゃんが滑稽すぎて変な笑みがこぼれたのだろう。
「携帯遣うな!!!携帯使うなって!!!その電波は人の脳を壊すんだぞ!!!!」
ここで我慢できずに二人して吹き出してしまった。先に忠告しておくが、当時こうした携帯電波が何たらといった話はたまに囁かれる程度だった。ペースメーカーは誤作動するとかいう話はあったな、今は?今も?しないらしいけれど。
「やばいねあいつ」
眉谷は小声で僕に話しかけてきた。僕は無言で頷いた。
「携帯使ったらただじゃおかねーぞ!?!?!?」
しかしながら車内は騒然となってしまった。これは、誰か駅員さんを呼んだ方がいいやつじゃないか??おかげさまで車内に座っていた女性も男性も皆携帯電話をしまってしまった。なぜか眉谷もしまっていた。僕も流れでラノベを鞄にしまった。何か言うことを聞かないと、銃でも乱射しかねない雰囲気があったのだ。
「女なんて黙って男に使われときゃいいんだよ。いいから席を譲れ……譲れっての!!!」
ついぞそのいかれた酔っぱらいは一人の女性の顎をつかんだ。その瞬間だった。青年の声が、車両に響いた。
「おい、やめろよ!」
叫んだのは自分ではない。自分の隣でさっきから冷たい視線を向けていた眉谷だった。
「なんだあお前らジロジロ見やがってえ!!!!!」
そう言って爺さんはこちらに近づいてきた。僕は慌てるだけだった。でも眉谷は、きりっとした顔で毅然と爺さんを睨みつけていた。
「やめとけって言ってんだよ聞こえなかったのか?」
眉谷は明瞭な声でそう注意していた。その見た目とは裏腹に背筋をピンと伸ばして言い返す姿は、さわやかな好青年な印象すら与えていた。いやまあ、陽の者だ。僕とは違うのは知っていたけれども。
「はああ???お前何歳だよ!?!?!?」
「22だけど、何か?」
「俺はもうすぐ60だぞ!?!?!?お前の何倍も生きてんだぞこらあ!?!?!?」
「だからどうした?爺になったら酒飲んで酔っ払って人に暴行していいの?馬鹿じゃね?」
冷たい声だった。心底馬鹿にしていたのだろう。
「なんだおいやるのかこら!?!?!?」
そう爺さんが言ったから喧嘩でもするのかと思ったが、
「やるわけないでしょ警察呼びますよ?」
眉谷にはそんなことをする気がないらしい。案外冷静な人間なのかもしれない。しかしながら、制している相手は全然冷静ではなかった。
「うるせえこのクソガキがあ!!!!」
そう言ってスーツを着た爺は振りかぶり、眉谷に向けてグーパンチを繰り出した……はずだった。しかし爺さんはとても酔っぱらっていた。だから殴ろうとした瞬間に、足腰にガタが来たのか大きくバランスが崩れた。それが悲劇の始まりだった。バランスが崩れても、爺さんはパンチを繰り出すべく腕を伸ばした。その先に居たのは注意をした眉谷ではなく、先程から何もできずおろおろしていた僕だったのだが。
更に悪いタイミングだったのは、僕が降車ドアにもたれていたことと、殴られる瞬間に駅に到着しドアが開こうとしていたことだ。不意打ちで腹を殴られた僕は、開き始めたドアの隙間を抜け、まるで投げられたように駅のホームへ飛んで行ったのだった。バランスを崩したことで足腰を踏ん張り直し、爺さんの思っていたより強いパンチが、僕の腹を襲ったのだった。
いったいどうしてこんなことになったのだろう……僕は夕焼けの空を見上げつつ、殴られた痛みよりトラブルに絡まれ理不尽に殴られた悲しみを身に染みて感じていたのだった。
「あの……」
そしてそんな滑稽に吹っ飛ばされた僕に話しかけてきた女性がいた。茶色の長い髪の毛に、白いワンピースがよく似合う細身。派手過ぎず、地味過ぎない小奇麗な雰囲気。それはオタク活動に精を出す自分には、わかりやすく高嶺の花だった。
「大丈夫……ですか?」
世界中の誰もまだ知らない。そして今でも僕しか知らない。この女性が、電車男のヒロイン、エルメスのモデルなのだ。