プロローグ;16年越しの悪夢
今日は楽しい休日だというのに、悪夢を見てしまった。昔からのことだが、心が疲れてくるとよく見てしまうのだ。
その夢ではいつも、僕は大ヒット作家になっていた。内容はわからないし、ジャンルすら不明だ。
しかし、特に女性から多大な人気を得て、100万部くらい売れたのだという。
映画化やドラマ化もして、アメリカでも類似品が作られたり朗読劇が開催されたり反響がすごかったとも聞いた。
現実が冴えない中年サラリーマンなことを考えると、とても出来すぎた夢物語だ。まあ夢なんだけど。
僕の作品はいつも称賛されていた。
この作品が生きる希望になった、勇気をもらえたなんて言われていた。
この作品が人々の価値観を変えたなどと大げさに語るものもいた。
何年経っても色褪せない思い出として、語られることも増えていった。
そして僕は、いつもそのニュースを見ていた。
見ているだけだった。
インタビューもないし、次作の抱負も訊かれない。スキャンダルなんて以ての外だ。
大ヒット作家になったっていうのに、誰も僕のことを褒めてくれない。
何故ならみんな、僕が作家であることを知らないのだから。
いや断定するのはよくない。事実だけで語ると、誰も僕に見向きもしないのだ。
その作家がすごい、なんて報道されることもないし、取材が来ることもない。
何かしらの賞をもらったとしても、その授賞式に僕は呼ばれない。
ただただ、自分の産み出した作品が、世間で一方的に称賛される。別世界の出来事のように。
それが気持ち悪くて、気味が悪くて……
それならいっそのこと取り上げないでくれよとすら思ってしまうのだ。
そしてその夢は、いつだって同一の帰結へ向かう。
エルメスのTカップを持ち、チェックの長そでシャツをズボンにインした男が、プリキュアのグッズを首にぶら下げてこう言うのだ。
「この作品を書いたのは私です」と。
そしていつもそこで夢から醒める。醒めた後はいつも息を切らし、頭を抱える。そこまでで1セット、悪夢の輪廻だ。
2020年3月14日、幾年月が経過しても、取り憑かれたナイトメアから逃れられない。それを確信した僕は、そのまま二度寝したい気分になったものの、その日は大事な用事があったことを思い出して重たい身体を起こした。
まずはアキバへ向かおう。時刻は昼の12時。寝坊が過ぎるとは思いつつも、僕は出かける準備を始めたのだ。
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アキバも随分と様変わりしてしまったな、なんて感想を抱くのは僕が所謂老害だからだろう。かつて自らを老害と名乗るものは老害ではないと宣った奴がいたが、僕はその意見に反対したい。過去を美化し今を卑下する態度を少しでも見せたならば、それはもう老害認定だ。何故ならその今は、過去を生きた自分たちに起因している。終尾が思うようにならなかったからと言って、それをぶつけるのはナンセンスだ。
しかしながら、素直な感想として変わったと述べあげることは憚らないでおこう。今日が土曜日というのはもちろんあったが、雑踏には若い女の子や観光客がたくさんいた。制服姿のJKとか、オタクとは無縁そうな白人の兄ちゃんとか。
この国は今、アニメを文化にしようとしている。クールジャパンなどと名前を付けて、1つの観光資源にしようと取り組んでいる。そしてその取り組みは、細かな不満不平もあるものの、大きく見れば難なく受け入れられている。かつてオタク=犯罪者だなんて言われていた時代の人が聞いたら耳を疑うだろう。
そしてそのクールジャパン発信基地としてその存在が注目されているのがここ、アキバってことだ。かつては電気街、その次は世間で受け入れられなかったものの逃げ場と来て今は観光地。立身出世しているのか、それとも腐朽退転しているのかは結論を出さないでおくが、これだけは言える。
どうなってもアキバはアキバだ。電気街もあるし萌えキャラのポスターも残っている。僕はプレゼントを受け取るまで、可能な限りアキバを散策し、その結論に至ったのだった。
頼んでいたプレゼントを受け取ったついでにアニメイトへ立ち寄った。かつては男オタの聖地だったアニメイトも、今はそれと同等以上に女子オタのスペースが設けられていた。これも時代の移り変わりかと思いを馳せつつ、懐かしいものをワゴンから発見した。それを購入してから駅に向かった。
別に荷物の受け取りなんて家でもできるし、アキバを経由する必要はなかった。それでも僕は気づいたらこの地を歩いていた。どれだけ街が移り変わっても、僕のホームはここなのだ。それは帰る家に誰もいないからかもしれないが。
京浜東北線に乗った。関内が目的地だが、横浜戦が目的ではない。いや今はDeNAと表記するのか。いやそもそも今はシーズン中ではない。目的はただ一つ、そこで友人と落ち合うのだ。
時刻は17時を過ぎていた。ぶらぶらとアキバを散策していたが、結果的にはいい時間になりそうだ。電車に揺られている時に、遠くでめんどくさそうな会話をしている男2人がいた。
「お前!!ウィルス持ってんなら電車なんか乗るな!!マスクをしろ!!」
「マスクなんて買ってらんねえんだよ……つうか何このおっさん」
どうやらマスクをせずに電車に乗って咳をする見た目20前半くらいの若い男性に対して、60過ぎくらいのご老人が文句を言っているようだった。同じ車両だから声は丸聞こえだったし、今にも取っ組み合いになりそうな雰囲気は感じていた。
しかし仲裁に入らなかった。入ってどうする?むしろ殴られるだけだ。ドラマだったらここで助けに入って助けられた方と恋を……いや絡まれているのは男か。ならそうはならん……いやいやLGBTの可能性も考慮すると、決めつけてしまうのはよくないか。僕はLGBTではないけれど。
ともかく、僕が言いたいのは面倒ごとに首を突っ込むの人間などドラマの中にしか存在しないということだ。無視しておけば駅員さんが何とかしてくれる。それをわかっているからか、止めに入ろうとする乗客は誰一人としていなかった。みんなスマホを見て、ワイヤレスイヤホンを耳栓のようにして、無関心を貫いていた。
それでも、たまに、たまに過去の取返しをしたくなる。ここで無視しなかったら、どうなっていたのだろうと。もしかしたら、あの嫌な夢から解放されるかもしれない。
拳が震え始めた。最初は無視を決め込んでいたのに、徐々に視線は2人に釘付けとなっていた。唇が一気に渇いた。カサカサになってもまだ、じっと見ていた。
そして品川に着く直前、遂に老人が若者の胸倉をつかんだ。その瞬間、7人掛けの椅子1つ分離れていた僕は、思い切って一歩足を踏み出した。止めようと思ったのだ。
しかしその踏み出した一歩は、ただの一歩で終わってしまった。
「すみませーん!!道を開けていただけますかー?」
駅員さんと鉄道警察の方たちが一気に電車内へ入ってきた。品川駅で待機していたようだ。どなたかが連絡を入れたのだろう。こんな無関心な時代に、親切な人もいたものだ。
結局僕は、何もしないまま、何もできないまま、一歩踏み出した足が滑稽に残っていた。電車はそこまでロスすることなく動き始め、車内はスムーズに平穏を取り戻した。まあ、現実なんてそんなもんだ。ヒーローなんて必要ないのだから。
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その日は大学時代の友人とお酒を飲む約束をしていた。しかしながらそれは、ただの飲み会ではなかった。
「それではわが盟友北田剛大くんの結婚を祝して、乾杯!!」
この掛け声をきっかけに、3人揃って生中を天井に翳した。掛け声の主、鈴木兼史は大学時代から変わらない蟒蛇っぷりを見せ、もうジョッキの半分以上を飲み切っていた。僕と北田は、ちょびっと飲むとおつまみの焼き鳥に手を伸ばしていた。男くさい場所で恐縮ではあるが、今日は友人の結婚祝いなのだ。
「いやあ、おめでたい時の酒は進みますなあ」
「ってか鈴木、普通の言葉話せたんだな」
「ちょっと北田氏―!某はもう社会の奴隷でございますぞ??パンピーを偽るなどお茶の子さいさい」
「パンピーってww死語過ぎて草も生えん」
僕はそう言いつつ焼き鳥を一本丸ごと頬張った。
「安藤氏!!某の焼き鳥も残しておいてね??絶対だお??良い子のみんなとのお約束だお??」
「食べ放題なんだからたのみゃいいじゃねえか」
「北田氏は解ってないでござるよ。これは損得ではなく気持ちの問題なのであります!!小生が食べたくて仕方なかったこの皮しおを、誰かに食べられてしまうという屈辱!!!それはまるで……」
ピーンポーン!!僕は呼び鈴を鳴らした。
「あ、皮の塩ひとつ」
「安藤氏!!!!!!!」
隣に座っていた鈴木は、冗談で首元をつかみ、少しだけ揺らしてきた。それを北田は若干冷めた目で見つつも、少しほほえましそうだった。この3人の関係は、向こう15年と少し、1つも変わっていなかった。
「にしても北田氏も結婚かあ」
「あんなに女に興味はないとかなんとか言ってたのにな」
しかしながら今日の主役は北田である。いつものボケとツッコミもある程度で切り上げ、主役に話を振ることにした。
「まあ、あれ、今でも二次元の方が上だと思っているさ。二次は三次に勝る。そして声優は二次元の存在。これは絶対の掟だ」
「異議なし!!!」
「わかりみが深い」
裁判ゲームの前をした鈴木も、深く頷いた僕も、その定理には完全同意だった。
「でもそれ女性側からしたらむっとされんじゃ?」
「いやないな。だって向こうもオタクだし」
僕の質問に対し、北田はさらりと告白した。
「え?北田氏。友人の紹介とは聞いておりましたが……」
「お互いの趣味知ってた状態で出会ったってことか?」
「うーん、まあそんな感じ。職場の先輩がさ、オタク趣味がある女の子が知り合いにいるから会ってみろって言ったのが最初」
あまり自分のことを話したがらない北田は、酒をあおりつつ目線を逸らしていた。大学時代と比べて10キロほど太ったらしく、顔に肉がついていた。
「趣味が合うって良いでござるなあ」
「まあ向こうは女オタだから、見るアニメ全然違うけどな。だから話は基本合わないし、お互いのオタ活の話はしない」
「そんなもんなのか」
「そんなもんだぜ安藤。俺らからしたら、オタ活を認めてくれるだけで神of神。俺は堂々と声優のライブに行けるし、向こうは向こうで乙女ゲームの人気声優のケツ追っかけてる。たまに推し声優が被って出演してるアニメのイベントがあったら一緒に行くけど、それ以外で干渉しない」
「理想的でいいですなあ」
そう言いつつ鈴木はもう2杯目のジョッキに手を伸ばしていた。
「まあでもあれだろ?今ってオタクだなんだってあんまり言われなくなっただろ?俺らの学生時代と違って」
僕らの学生時代、というと、まだハルヒがヒットする前の暗黒期だ。そりゃ、90年代に比べたら状況は好転したと言われるかもしれないが、今のように堂々とアニメを見ていると宣言するオタクは極々稀だった。
「いつ頃からなあ。こんなに世間の風当たりが緩くなってきたのって」
僕もその話題に乗りつつ、ねぎまを食した。昔から僕は、人より食が進むタイプなのだ。一方で酒はほとんど減っていなかった。
「某は電車男ではないかと睨んでいる故」
鈴木の言葉で、僕は追加の焼き鳥を頼もうとして急速停止してしまった。
「あー懐かしい。昔流行った」
そしてやたらと早口かつ感情の無くした声でそう相槌を打った。何ならこの後別の話題に切り替えようかと思ったが、鈴木のマシンガントークが勝ってしまった。
「電車男のインパクトは中々だったと認識しておりますぞ??これまでオタクと言えばすっと距離を置かれておりましたが、あの作品のヒットからオタクといえば電車男と言われるようになりましたからなあ。丁度会社に入った当時、仇名が電車だったことがありまして」
「それ入社した時めっちゃ愚痴ってたよな」
「おー覚えておりましたかあ北田氏!!鉄オタではなくアニメオタだと100は下らぬ回数申し上げたにもかかわらず同期からも上司からも電車君といわれてですね。悲しくなりましたが、そうして輪に入れてもらえるというのは中々に嬉しい出来事でした」
「日陰者のような扱いだったもんな」
「まあ??オタクが公言できる時代になって尊大になっているだの増幅しているだの批判されることもございますが??人権がないくらい冷たい目で見られるよりよっぽどいいのではないかと常考」
いやだ!!!いやだ!!!早く、早くその話題をやめてくれ。鈴木はそのいつまでも骨みたいに細い腕について語ってくれ!!!北田はラブラブカップルについてもっと詳しく語ってくれ!!!しばらく2人は【オタクはいつから市民権を得たのか】について語っていたが、僕はそれを黙ってやり過ごしていた。早く終わってくれと念じながら聞くと、耳から脳へ言葉が来ない気がしたのだ。
「安藤氏……?」
そうして酒も飲まず飯も食べずにいると、流石に気づかれてしまった。
「体調悪いのでしたら言っていただければ……」
「いや、違う違う違う!!!焼き鳥の食いすぎだ。いやあ昔は何本でも食べれたのに、年には勝てなくて……」
「本当でござるか!!!あの鉄の胃袋を持つと言われ続けてきた安藤氏も寄る年波には敵わないと……」
こうして話の流れは自然と、加齢とどう立ち向かっていくかというおっさんあるあるな話題へとシフトしていった。こういうのを、怪我の功名というのだろうか?ちょっと違うか。
なんにせよ、気の置けない同窓との会話を楽しんでいた。お互いもう36になるというのに、馬鹿な話をすればするほど大学時代に戻っていく感覚。これはかけがいのないもので、僕は年々貴く思っていたのだった。
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3軒目に入ってすぐのことだった。いち早く注文内容を確定していた北田は、肘をテーブルに置きつつスマホを眺めて待っていた。恐らくそこに書かれてあったのだろう。
「今Twitter見てたんだけどさ」
僕と鈴木はメニューからひょっこり顔を出した。北田が見せてくれたのは、知らない人のツイートだった。
≪今から16年前の今日、電車男と名乗り2chに書き込んだのは自分です。あの時は正直すまんかった笑≫
下にはタグ付けで、♯フォロワーさんに知られていないすごいことを公表する と書いてあった。僕はそれを見て、しばらく固まってしまった。
「ほーこれまたさっき出た話題の」
「なんかネットでめっちゃバズってんぞ」
「確かにこれまで特定されておりませんでしたからねえ」
鈴木と北田はこんな世間話のように会話のキャッチボールをしていたが、僕はもう既にグローブを投げ捨てていた。瞑想して考えさせてほしかった。目の前のツイートの意味が、全く持って理解できなかった。何故か?簡単な話だ。
僕が本当の、電車男だからだ。
2004年3月14日から2004年5月17日までの約2か月間、後にエルメスと言われた女性との恋愛話を書き込んだ。
当初は731、後に電車男と名乗ったのは、あの日の未熟な僕だ。思い出したくもないほど黒歴史な僕だ。間違いない。
どうして……どうして今頃になって、そんな話が出てきたんだ……2人が別の話題に移行した後も、僕はずっとそのことだけ考えていた。誰だ??一体誰が、僕を騙っているんだ??と。