FIRST KISS 〜ファースト・キス
本作は、武 頼庵さま主催「初恋」企画参加作品です。
「あ……ここでいい」
停めて下さいと由佳子は言った。
「ここだとマンションまで少し歩かないと。この時間、危ないな」
ひとまず道路の脇に車を寄せた高橋だが、「どうしたの」と由佳子の顔を覗いた。
「あ、あのね……」
「また、由佳ちゃんの「あのね」が始まった」
高橋は面白そうに笑っている。
それだけで由佳子は真っ赤になって下を向いた。
自分でも幼さを感じないわけではないのだが、大学で初めて一人神戸に来た由佳子はまだ関西弁をうまく喋れない。
それでなくても二歳年上の高橋には、どうしても敬語を使いがちだ。
それをよそよそしいと高橋に指摘され、なんとかくだけた言い方を心がけていたら、言葉の初めに「あのね」とつける癖がついてしまった。
それはそれで高橋には新鮮らしく、事ある毎に揶揄される由佳子だった。
「で、どうして今日はここなん?」
エンジンを切り、ハンドルに体を預けながら高橋が問い直した。
「ん、この前、隣の部屋の子に見られちゃって。色々からかわれちゃって……だから」
「からかわれたって、何を」
「だから、高橋さんのこと。サークルの先輩だって言っても信じてもらえなくて……」
「そりゃ心外だな。まだ、部屋にも入れてもらってへんのになあ」
「え?それはだって、こんな……8時も過ぎた夜だから……。ごめんなさい」
関西きっての名門女子大・S女学院大学いわゆるハイレベルのお嬢様大学に入学して、由佳子が入ったサークルは、「deja-vu」(デジャ・ヴュ)という、大阪を中心に京都や奈良・神戸にまで部員を有し活動しているテニスサークルだった。
「お嬢様」目当てなのかどうか、ビラを配りにくる他大学サークルは数知れない。
入学当時はしかし、由佳子はそれらにあまり興味を持たず、すぐに学内のオーケストラ部に入部した。 そして、バレエと共に三歳から始めたヴァイオリンを今でも熱心に弾いている。
ところがクラスメイトから「見学だけでも一緒に」という誘いを受け、大阪吹田市の万博コートを訪れたのは4月も終わりの日曜日だった。
そこに、K大工学部3年の高橋がいた。
高橋に限らずサークル全ての学生から実に盛大な勧誘を受けた由佳子は、結局断りきれず、また断るほどの理由も実際にはなかった。
むしろたまに総譜から離れ、戸外で汗を流すのは思いがけず気持ちの良いものだった。
ゆるやかなラリーとごく簡単なネットプレイを覚え、夏期休暇も間近なこの頃、由佳子は夏合宿が待ち遠しいくらいになっている。
そうなるまでに、ひとえに高橋の存在があった。
ラケットを買いに連れていったのも高橋なら、イースタングリップから始めて基礎の基礎から由佳子にテニスの手ほどきをしたのが高橋だった。
高橋と由佳子が「アヤシイ」とサークル中で噂になるのに時間はかからなかった。
週に一、二回テニスが終わると大抵はファミレスで食事をし、ミーティングを兼ねたお茶が済んだら男子部員が車で女の子を家まで送る。
由佳子を送るのは高橋という暗黙の了解がいつの間にやら出来ているのも当然の成り行きだった。
「夜明けの珈琲」
「え……?」
「とは言わへんけど、一度、由佳ちゃんの煎れてくれるコーヒー飲んでみたいよなあ」
ジョークなのか本気なのか高橋は意味深に笑っている。
その言葉に由佳子はやや戸惑いながらも、
「えっと、紅茶なら……」
と、どぎまぎしながら答えたが、ふと思いつき、
「あ、今度のサークルの時、アイスティー作って持っていきますね。それから、スコーン焼いていきます」
名案とばかりにそう言った。
「スコーン?」
「ビスケットとケーキのあいのこのようなイギリスのお菓子で私、大好きなんです」
「それ、俺だけのために作ってくれるん?」
高橋はハンドルから身を起こすと、まっすぐ由佳子を見つめた。
由佳子はその視線をまともに受け止めることが出来ずに、思わず視線を逸らした。
それは、由佳子が初めて見る男の表情だった。
どうしていいかわからない……
「た、高橋さん……?!」
高橋の行動は由佳子にとって、それ以上に予測できるものではなかった。
腕をとられ、強引に抱き寄せられた由佳子は今、暗い車内で初めて高橋の胸の中にいる。
「大丈夫。大丈夫やから──────」
高橋の声は極めて冷静だったが、今の由佳子は無理に捕まえられた野良猫のようなものだった。
身を固ばらせなんとか逃れようとするが、高橋の力は強く、由佳子を抱きしめたまま離さない。
「こわい……怖い……」
由佳子は譫言のような呟きを漏らす。
本当に目の前にいるのは高橋なのだろうか。
由佳子には信じられない。
今までずっと、高橋は兄のように大人で、紳士で、優しい存在だったから……
もう力も言葉も失い、震えるだけの由佳子の掌をしかし、高橋はそっと片手で握りしめた。
そして、もう片方の手で背を軽く撫でる。
安心していいんだよとそれは語りかけているかのようだった。
高橋の温もりに、何か形容しがたい安らぎを少しづつ、由佳子は感じ始めている。
由佳子は高橋が好きだった。
初めて出逢ったあの日から。
桜はとうに散り、新緑が目に鮮やかだった万博公園。
フェンス越しにコートの中の高橋を見た。
高校時代ラグビー部だったと後に聞いた高橋の体は陽に焼け、程良い筋肉質に引き締まっていた。
真剣にボールを追う高橋の姿を由佳子もまた目で追っていた。
由佳子達の姿に気づき、声をかけてきた高橋。
やや目線を上げねばならない長身。
甘いフェイスに似合わず、体育会系のノリの男っぽさ。
そして、これは御多聞に漏れず、関西人特有のユーモア。
一目惚れというものが実際に有るということを、その日、由佳子は初めて知った。
それでもそんな自分の気持ちを高橋に知られるのは、怖かった。
中高時代も女子校育ちの由佳子は、およそ男という存在に対して免疫がない。
サークルの先輩連中にちやほやされても戸惑うばかりで、そして何より、高橋は誰に対しても、どの女の子にも等しく優しかった。
見た目や好みで露骨に態度を変えるような男も許せないが、周りが言うほど、自分が高橋にとって特別な存在であるという確信は、由佳子には持てずにいた。
あ……
その時、それは不意に訪れた。
高橋の乾いた口唇が、由佳子の口唇をしっとりと包みこむように触れている。
それはそれ以上でもそれ以下でもない。
そしてそれは、短くも長いともつかないひとときだった。
口唇が離れ、由佳子は俯いている。
何故だかわからないが瞳が潤んできて、由佳子は自ら高橋の胸に顔を伏せた。
「泣いてるん?」
弱ったなあ、と高橋はひとりごちながらも由佳子の肩を抱き、由佳子の長い髪を一筋もてあそんでいる。
それが由佳子にはどこか馴れたような行為としか映らず、由佳子は途方に暮れた。
自分だけが一人、取り残されたような想い。
優しいけれど怖かった。
泣くほど動揺している由佳子に対し、高橋は今までにどんな女の子とこんなことを繰り返してきたのか。
それは高橋にとってはいわれなき嫉妬だ。
そんなことすら由佳子自身は気づいていない。
ただ心細さに堪えきれず、
「失礼します……!」
と、高橋から身を翻そうとした瞬間だった。
「由佳ちゃん、聞いて」
しかし、それとほぼ同時に高橋の声がした。
「俺は本気やから。俺が好きなんは、君だけだから」
初めてのキスだった。
ただわからないまま怖かった。
それでも初めて好きになった男だ。
それだけでも十分に幸せだと由佳子は思う。
この人を信じよう。
今はそれだけしか考えられない。
「私も、好き……。高橋さんのことがすき」
「それ本気……?!」
まだ涙の光る瞳で、しかし確かに笑んでいる由佳子に、高橋は脱力したような面もちを見せた。
「ヤバかったー。どうかしてた。とうとう由佳ちゃんに手、出して……フラレルん覚悟してた」
そう呟くと大きな息を吐いた。
「でも今日から由佳ちゃんは俺の……俺だけの彼女なんだ」
しかし髪をくしゃくしゃにかきあげながら高橋は、無邪気そうに笑う。
その時初めて由佳子にも、高橋が二十歳を少し過ぎたばかりのごく普通の大学生にみえる気がした。
十八の夏の淡い初恋は、涙色のキスを湛えていた。
了
本作は、香月が初めて三人称で書いた作品を加筆訂正したものです。拙いかと思います。
最後までお付き合い頂き、ありがとうございました!