Hate you, detest you, let you laugh me
猫の姿を解かないまま、ティキは目の前の男、トーレンに尋ねる。
「お前は人間だろ。」
トーレンはシューに見せていた穏やかな笑顔で「もちろん」と頷いた。
「それがどうかいたしましたか?」
「じゃあ、何故テメエから精霊の、いや、シトリの気配を感じた。」
形の整った唇が弓月のように変化し、黒く冷たい瞳が最大の侮蔑を持ってティキを睨んだ。
「どうして私が悪魔にそれを答えなきゃいけないんです?」
どんよりとした冷たい空気がティキの周りに広がる。
「やっぱり気づいてやがったか。」
そこにいるのは不細工な猫。中級悪魔と称されるティキと、天才的な魔法の才があるシューの合わせて複雑化した魔法を見破れる者はそういない。何しろ悪魔を追い出す神殿の『禊』すら乗り越えたのだから。
「あの時はシューの御前、気づかぬふりをしておりましたが、ノコノコと一人でお越し頂き感謝しております。」
水を多く含んだ空気にティキはあるかも分からない心臓が大きく脈打ったように感じていた。
「許しはしません。」
勢いよく水の刃がティキを襲う。
「おいおい、俺様は確かに白猫を探していた訳だが、テメエだけは勘弁だぞ。どちらかというと黒いし。」
猫の素早さが功を奏したのかなんとか彼の魔法から逃れているが、間隙を縫うこともできない。
「太陽から愛された色ですよ。」
ティキは彼が『人間』であると確信していたが、通常の人間ではないことは分かっていた。悪魔とは違って人間は簡単に死ぬ。反撃することは可能だが、ティキの目的は人間からかの精霊シトリの気配を感じる理由を知りたかったのだ。
「まさかテメエがシトリを殺したのか?」
シューが話していた「東蓮」もシトリの国の名前だ。
「悪魔に話すことはない。」
避けきれなかった水の刃が、ルルの胴体に赤い線を描いた。猫の姿から変えて、もっと戦いやすい身体に変えることもできるが、ティキはそれをせず、ピリッとした痛みを無視して必死にある魔法の呪文を呟く。
「…纏の精霊シトリ、汝我に力を。」
「誰が力を貸すものか。」
服飾に力を与える纏の精霊の魔法は、トーレンによって打ち消された。
「悪魔が精霊魔法か。やはり貴方は彼を殺したのだな。」
ティキはここで自分が大きな間違いをしていたことに気づいた。しかし、それが相手に大きな隙を与えることになってしまった。よくシューは悪魔は死ぬことはないと考えているが、大きな間違いだ。例えば取り憑いている人間が死した時上手く抜け出さなければ簡単に死んでしまうし、身体のどこかにある核を破壊されれば終わりだ。光魔法ならばもっと簡単に死ぬ。
「太陽に道を切り開く者、汝我に力を与え給え。裁きを受けよ。地を分けよ。さあ、切り開け。」
弁解をする余地もなく、雷が悪魔ティキ・シルヴィアを貫いた。
近くにいた小鳥が雷鳴に驚き、飛び立った。
王宮で必死に窮状を伝えるフアナに、最初こそ疑心の方が大きかった。いつもシューを見下げて笑っている彼女だからそれも致し方ない。
「君たち、仲悪かったんじゃないの。」
「嫌いよ。でも、死なれるのは嫌なの。どちらも本当よ。」
真に迫った様子にシューはと大きく息をついた。
「王女殿下、礼を失しますが…。」
「私のことなら気にしないでください。」
本当なら転移魔法を使って外に出たいくらいだが、王宮内の使用は禁止、かつ厳重に結界魔法で封じられているため、それもできない。最低限の礼をし、急いで王宮の敷地を出た。
「フアナ、どこの場所かな。」
「こないだの鍛冶屋の前よ。あのトーレンって男はティキを恨んでいるようなのよ。」
シューは見開き、その目から輝きが徐々に奪われる。王宮の門前だろうが、側仕えのカーティスの言葉だろうが全てシューは気にしなかった。気にすることができなかった。カーティスの眼前から魔法を用いてシューは消えた。フアナが告げたのは、カーティスも以前訪れた場所だ。カーティスは間髪入れずに広場の方へ向かった。
「フアナさん、話せたのですね。」
全力で走りながら、側を飛んでいるフアナに話しかけた。
「ええ、そうね。ずっと前から私は貴方のことを知っている気になっていたのだけれど、今初めて会った気分だわ。」
そうフアナも言葉を返すが、フアナもカーティスもお互いを蔑ろで言葉は続かなかった。
広場を抜け職人街通りの二つめの角を右に曲がった時、カーティスの前を跳ぶフアナが不意に止まった。彼女のことなんてどうでもよかったのだが、カーティスは釣られて止まった。
「貴方はティキが死ぬことを喜んでいるのに、ルルを失うことを恐れているのね。」
その通りで、カーティスのシューの元に向かう足が動かなくなってしまった。普段はそれが面白いと悠々に生きていたフアナがかけるべき言葉を迷った。
「私はあのバカ猫の心は読めないけど、一緒に生きていた時間はそれなりに長いからこれだけは言えるわ。彼はシューのことを自分が死んでもいいと思うくらい、大切にしている。」
「死んでも、いい?」
「あの馬鹿、猫の姿を変えないのよ。」
そこまで言うとフアナは再び前を向いて飛んで行った。カーティスが呆然と立っていたのは一瞬で直ぐに彼女を追いかけた。
4つめの角を曲がる前で異変はすぐにわかった。魔法を使っての乱闘で外に出るものがいないが、さまざまな建物の中から人々はある一点を集中して見ていたのだ。その視線の先には、トーレンとしゃがみ込んで何かーーーそれは恐らくルルーーーを抱え込むシューがいた。
フアナとカーティスが頑張って門前から広場へと駆けていく頃、シューは魔法で一度だけ訪れた鍛冶屋の親方の店の前まで訪れた。
目の前には恐ろしく優しい顔をしたトーレンと倒れ伏している不細工な猫がいた。その猫が何なのかシューが理解するのに数秒かかった。
数秒の空白が無かったかのように、周囲の目すら何も気にしないでシューはティキに駆け寄ろうとしたが、トーレンに手を掴まれた。
「シュー、あれは悪魔です。我々の敵でございますよ。」
「敵じゃない。」
いやいやとシューは首を振った。
「敵です。彼は我らの同胞を殺した最悪の敵です。」
「同胞?馬鹿言わないで。」
シューは力では敵わない男に対して、光魔法でフラッシュを焚き拘束から逃げ出し、消えかかっている猫を抱き寄せた。
「なんで、まだルルのまま。」
ティキは薄っすらと目を開け、歪な瞳でシューに笑った。
「坊ちゃん、は、知らなくていい話、さ。」
「勝手に死にそうになってるなんてありえない。」
シューがすぐに治癒魔法をかけようとするが、それを精霊の男は許しをせず、シューにロックの魔法をかけた。
「シューは騙されているのです。悪魔の甘言を信じてはいけない、人族だろうが魔族だろうが、ましてや精霊でも同じです。」
美代子は魔法に限ればシューがどのキャラクターよりも強いと信じていたが、この精霊の男がかけたロックがなかなか外れなかった。
「精霊が何故僕の邪魔をするの。」
「精霊?」
トーレンは目を丸くして、心底驚いた様子だった。
「私は精霊ではございません。」
彼は何かの罪を告白するかのように、シューから視線を外した。彼が嘘つきかもしれないが、シューには嘘には思えなかった。しかし、黙ってしまったシューを見て、トーレンはシューが疑っていると思ったのか、懐からナイフを取り出すと左腕を切りつけた。深い傷ではないが腕から赤い血が流れ出した。
「何を。」
「精霊はこの程度の傷はすぐ治ります。」
しかし、血はどくどくと流れ出し、止まる気配は無い。それは彼が生命活動をしているという何よりの証拠だった。
「おい、ぼっ、ちゃ。」
血を流すトーレンに視線が奪われていたが、シューに抱えられていたティキの生命の輝きは更に消えていっている。
「…ら、な。」
「ティ。」
「うら、むな。」
憎んで、恨んで、さあ、笑え。自分の感情には素直に生きて、それが滑稽だとシューが知っているティキという悪魔はそういう男だった。
「らしくもないこと言わないで。」
「シュー、耳を貸さないで下さい。」
トーレンが息も絶え絶えなティキの言葉に重ねる。
「ミヨコ。」
この世界でマリアンヌ以外に呼ばれたことはない名前に、シューの心臓は止まるかと思った。
「…ベスに、つみ、は、無い。」
「なに言って。」
「シュー。」
「ミヨコ、いきろ。」
トーレンにかき消されそうなかで、それだけが良く聞こえた。でも、聞こえてはいけなかったのかもしれない。それが伝わったと同時に、ルルの身体は光と弾けて消えた。
なにが起きたのか分からなかった。足の先から徐々に心臓、脳みそと冷たい闇に侵されていく錯覚に囚われた。
「シュー!」
シューの意識が完全に闇に侵略される前に、何があってもシューから離れることはないと誓ったシューの従者の声が届いた。
「私は、ここにいます。」
ゆっくりとはっきりと落ち着いた声でシューを宥めながらカーティスは幼子を抱きしめた。
ティキは、ルルはもう側にはいないけれど、とカーティスは心では嘆いてもそれを口には絶対しなかった。
人形に体温はない。体温があるだけシューは優秀だとアレンにそう自分で評した。でも、それはただのジョークではなかったとカーティスが証明してくれたのだ。
カーティスはシューを抱きしめながら、変に静かで落ち着いていると疑い深く周囲を見渡した。トーレンはルルを悪魔ティキだと周りにも聞こえるように話していたし、実際に戦っていた。先程までここは職人街の中心地のように隠れた人々の視線で溢れていたが、今はそのような気配は無かった。
「…フアナさん。」
「私は人外かもしれないけれど、貴方の主人に協力している存在を蔑ろにするわけにはいかないでしょう?」
神殿に一人フィリップを置いてきたのは良く無かったかもしれない。得体の知れないフアナに対して、1人では対応するのが恐ろしかった。シューが通常のようにどっしりと構えていればカーティスも落ち着いていたかもしれないが、今はそうにもいかない。
「…認識も変えて人々の視線は誘導したし、そちらの精霊の気配のする人間とどうにかしないといけないんじゃない?」
カーティスは頭を抱えた。エリオットJr.とシューが未来に対しての話し合いもどうするか考えていたし、シューの話していた重要人物「マリアン」に関してもマリアンヌと話し合わなければいかないのに、更にこのシューの大切な存在を殺した、不思議な男トーレンもどうにかしなければならないのだ。この状況ならシューが側にいることを許しているフアナに関しては後回しにする方がいいだろう。
「トーレンさん。」
「どうしましたか。」
トーレンは悪びれる様子もなく、淡々と自分で傷つけた左腕の応急処置をしていた。カーティスの腕に抱かれながら、それを見たシューが憎々しげに見ながら、
「そんな汚い布で巻いたら化膿して、腕を切る羽目になるよ。」
と、宣った。光の魔道士としてのプライドも捨てきれないようだ。
「ありがとうございますね。」
素直なトーレンの礼にシューは許せなかったのか、カーティスに強く抱きついてトーレンの目から逃げた。
「貴方はシューからルルさんを奪い、何がしたいのですか。」
「悪魔を引き離すなら、なるべく早く、と私は覚えておりましたが?」
それは人々の常識ではあるが、カーティスはどうしてもこの男が許せなかった。そんなカーティスの怒りを感じた男は観念して正直に答えた。
「ティキ・シルヴィアは私の大切な同志を殺したのです。そして、同志の代わりにシューをも取り入ろうとした。許せません。」
「…同志?さっきから同胞とかって何?」
未だカーティスの腕の中に隠れながらもシューはトーレンに尋ねた。
「あと2年、それで分かりますよ。」
2年、ゲームのシナリオの開始する年と言われ、シューはカーティスから顔をはがした。
「…君は未来を知っているの?」
「残念ながら、私が知るのは過去のみです。」
シューはどんなに心を抑えようと頑張っても、トーレンに対する憎しみは消えない。トーレンの知っていることを問い詰めたい心も勿論消えないが、まともに顔を見ると思わずカーティスを振り切って殺しに行きそうになる。
トーレンは思うところがあったのか、悲しそうに眉を曲げた。それから、やや戸惑いながら鍛冶屋に帰り、ある物を手にして戻ってきた。
「暫くお会い出来そうにないので。ほとんど作り終わってますし、問題なく使えるとは思います。」
それは親方を通じてトーレンに頼んだ、護身用の魔法補助できる短剣だった。空の色を映したような宝石が着けられていて、その宝石より少し深い色と麦穂のような色が合わさった組紐で柄の部分が飾られていた。
「本当はシトリの加護もお付けしたかったのですが、それはまたいつか。」
カーティスが短剣を受け取ると、トーレンは2人から離れて、深々と頭を下げてから目の前から立ち去った。しかし、それでもシューは動けなかった。
「もし僕が王宮内を走っていたら間に合ったのかな。」
「それは却って王宮の人に捕まり時間がかかったと思いますよ。」
「あの馬鹿、なんで動きが制限される猫の姿なんかさっさと捨ててしまえばよかったのに。」
「私もあの不思議な少年とティキの関係は分からないけれどね。」
そこでフアナも言葉に詰まった。涙も流さず、ただ絶望し動けなくなっている少年に「貴方のためだ」とはとても残酷で言えなかった。ティキが最後まで猫のルルであることに貫いたのは周囲の人間に「ティキが悪魔であること」を確信に持たせないためだった。いくらトーレンが騒いでいたとしても、ティキだと肯定しなければ、アルバート家なら幾らでもごまかしが効くと思ったのだろう。結局はフアナが魔法を使って周囲を騙したが、ティキはフアナを信用していないから意地を張ったのだろう。
「なんでもないわ。」
「…隠さなくてもいいのに。」
フアナはバツの悪い顔をする。フアナは性格の悪く、人を絶望に落とすのは好きだったし、困って泣いている姿を楽しんでいたのだから、普段なら気にしないのだけれど。
「あまり貴方に嫌われたくないのよ。」
正直どうやってシューは神殿に帰ってきたか分からなかった。迎えたクラウス神殿長とその秘書のアレンにギョッと驚かれ、早々に部屋に戻るように指示された。抵抗する気もなく言われた通りに部屋に戻れば、留守番をしていたフィリップもあまりのシューの憔悴ぶりに戸惑いを隠せていなかった。フィリップに申し訳なさを感じつつも、そのままベッドの上に倒れこむように寝転がった。フアナはその小さな嘴で毛布をかける。
「暫くシューをお休みして、美代子として生きていたら?」
「シューを、休む?」
「シューにとってはティキはずっと寄り添った存在だけれど、美代子にはそうではないでしょう。」
フアナの提案にシューは首を振った。
「美代子に人を治す力は無いし、頭もない。僕じゃないとここにいる意味もないよ。」
そして、美代子にはこの世界で生きる場所もないし、美代子の友人はシューでないと会いにいけない真理亜だけだ。だからこそ、シューはシューでなければならないのだ。何より美代子はシューと似ているかもしれないが、美代子は昔からほとんど動じない人間だ。
「…僕も君に嫌われたくないからね。」