兄
「ねえ!シューちゃん!」
次の日の朝、大きな音を立てて自室の扉が開かれた。無理やりたたき起こされたことで、シューは不機嫌になる。これは美代子だって怒る。
「なんなの、貴族なんだから礼節弁えてよね。」
「それどころじゃないよね?なんで光の神殿に仕えることになってんの?!」
他人のベッドにぐいぐい載ってくる兄に一発蹴りをお見舞いする。
「僕がお兄様に頼みました。」
「聞いてない!」
「エリオットのお兄様です。」
「リオ兄様なにもいってなかったよ!」
「あの人にとって貴方はそれくらいの存在だったってことでしょう。」
「知ってるし!」
そういえば、ゲームでヒロインにそんなことを言っていた。昨日は多すぎる情報に混乱し自分のことばかり気にしていたが、ゲームの中でオズワルドも苦しんでいた。優秀すぎるエリオットJr.に比較され続けて、母親にも父親にも大して目をかけてもらえなかった。シューをからかったり、馬鹿にしていたのは自分の存在をまだましなのだと思って防衛するためからだった。
「なんで言ってくんないの?兄弟じゃないんだ?」
「オズ兄様は僕のこと兄弟だって思ってたんですか?」
ゲームでもオズワルドの興味は殆どエリオットJr.の方ばかり向いていてシューのことはあまり弟として扱ってなかったように見えたのに、ゲームでは描かれない裏で彼はこのように思っていたのか。シューの問いかけにオズワルドは視線を外した。
「オズ兄様?」
「思っちゃいけない?」
びっくりして、2、3度瞬きをした。いつも軽薄な言葉を並べてヘラヘラしていた兄が、怒って真剣な目をしていた。
「あの、すみません。何て言っていいのか。」
思うのは人を陥れたいと思っていた自分が凄く単純で愚かで滑稽だったということだ。もし、この兄弟が真正面からぶつかり合っていたらゲームでシューは魔族側にならなかったのかもしれない。
「僕、貴方から『アルバート家の恥』とか『妾の子』とかばかり。」
「う、そうだけどさ…。」
「それで僕、ここに居場所なんてないって。」
「…うん。」
「誰も信じないって思って…。」
今しか思っていたことを言うチャンスはない。美代子は相手を怒らせてでも言うしかないと思った。
「誰も、僕、傍にいてくれない、から。」
「ごめんなさい。ごめん。」
オズワルドも自分がしてきたことに気づいているらしかった。1つ1つを言葉にしていく度にシューの目頭が熱くなってきて、溢れた。
「僕、が、悪魔に。」
「ごめん。」
朝早くから兄弟二人が涙を流し合うのも可笑しかった。いつも起こしにくる侍従が誰も入ってこなかったから周りに気を遣われたのだろう。
ユーリが入ってきて、オズワルドに学校に行くように言うまで、誰も止めなかった。
「…シューが出家するなんて言い出したの、俺のせいだったってことだよね。」
初めて登校するオズワルドを見送りに来たが、まだ落ち込んでいるようだった。
「オズ兄様だけのせいじゃないですし、どちらかというと僕の行いのせいっていうか。」
追い詰められたのはオズワルドも一因ではあったが、追い詰められたシューがしてきた行いに対しての罪悪感から逃れるためだったから、オズワルドに責任を擦り付ける気はない。
「今まで兄弟になりきれなかったけど、これからは兄弟になれますよね。」
「…そうだね。じゃあ、行ってくるよ、シューちゃん!」
「いってらっしゃい。」
「それから、シューちゃんもいってらっしゃい。」
今までに見たことないくらいオズワルドはいい笑顔で屋敷から出ていった。その顔を見て、シューは初めてある感情を覚えた。
「お前が見送りなど珍しいな。」
後ろからもう1人の兄がいつものように着崩すことなくきっちりとした格好で、令嬢たちが見惚れるようなきっちりとした動きで玄関ホールにやってきた。
「お兄様もいってらっしゃい。」
「昨日使いに走らせたんだ。気が変わったなどと言うなよ。」
「ええ、勿論。僕が望んだことですから。」
「無駄な時間を過ごすな。」
シューに注意するのに、シューの顔なんて見ようともしない。でも、先程オズワルドとの関係が改善されたときに生まれた思いがあった。
何かを変えようとすれば変わるかもしれない、と。オズワルドに関しては偶然だったが、積極的に変化を起こせば、この血も涙もない男も変わるかもしれない。ヒロインだってこの男を変えたのだし、兄にもまったく感情がないわけじゃないのだ。ただ無策でいってもこの男に鼻で笑われるだけだから、慎重に考えよう。まずは光の神殿で「兄が思い描くように」やってみせようと思う。
ユーリが服を持って、シューの部屋を訪れた。
「フットマンの私服を借りてきました。着心地が悪いとは思いますが我慢してください。」
ユーリがシューの着替えの手伝いをすることは珍しい。普段彼が手ずから手伝うのはダブルエリオットのみだ。
「僕の手伝いなんて珍しいですよね。」
「ええ、貴方がとても珍しい様子ですので、気になっただけです。」
確かにすぐに癇癪起こして、使用人を辞めさせたりしていた悪い子供が、急にしおらしくなって出家するなんて言い出したら、病院か何かに連れていく気がする。
「…昨日何があったんですか。ジャスミンに聞きましたが、彼女が言うには目を覚ましたらこうだったと。」
「僕が悪魔にでも憑かれた、とでも?」
魔族の中に、そういう人族にとりついて破滅に導くような種族がいて、人族は彼らを常に恐れている。悪魔は人族にとりつき人族の町にある結界を通り抜けるので防ぎようがない。唯一の救いが、彼ら悪魔は気まぐれでプライドが高いので、他の魔族にその力を貸したりしないことだ。
眉をひそめながら、文句をいうとユーリはクスリと微笑んだ。
「どちらかというと、憑き物が取れたようです。」
実際には、美代子の記憶に「憑かれた」ようなものだけれど、それを言うはずはなかった。
「下男が貴方たちの道案内を致しますから、気を付けてくださいね。」
そういってユーリはフードつきのポンチョのようなマントをシューに着せ、丁寧にフードを被せた。
「誰にも顔なんてバレてないですよ。」
家族や使用人以外と顔を会わせたことはないし、エリオットJr.やオズワルドでなければ拐う理由もない。
「念には念を、ですよ。」
「分かりませんが、ユーリが言うなら。」
逆らう理由はないので、素直に聞いておく。ヒロインはともかく、普通の女性ならエリオットJr.ではなくユーリに惚れそうだなと思った。彼はゲームでは「アルバート家の執事見習い」で名前すら出てこなくて、グラフィックも汎用紳士キャラの使い回しで、シナリオ上モブでしかなかったから残念だ。本来の彼は攻略対象のエリオットJr.と並んでも遜色ないほどかっこういい人だ。美代子の人格が混ざっているとはいえ、近くで微笑まれれば同性でも少しドキッとする。
結局荷物はジャスミンが厳選して4つにトランクを収めてくれた。まだ多い。カーティスは1つに収めたので、1つ持ってくれるという。そして、ユーリに任された下男が2つ持ってくれた。残る1つは自分で持つしかない。殆ど服とはいえ、トランクの重さが12歳の引きこもりにはなかなか辛い。
「足りないものがあれば後日持っていきましょう。」
「これで足りないものってなに…。」
庶民だった美代子からすれば、半年くらいのホームステイなんかよりも多いと思う。
「…ミカ先生によろしくお願いします。」
ユーリやジャスミンに、別れを言った。従者の振りをしているので表門から出ていく訳にもいかず、裏門から出る。
屋敷から出て裏通りに向かってあるいていた。ユーリに任された下男はオズワルドと同い年くらいで、背の高い浅黒い肌の男だった。タウンハウスでも多くの使用人がいるアルバート家では知らない使用人がいても普通だ。特にシューは、ナニー、家庭教師や側仕えや食事の際の給仕係くらいしか顔を会わせない。その見知らぬ下男の男は2つのトランクを持って、シューのことなんて知らないとでもいうようにさくさく歩いていく。
「待て、シューに合わせて。」
「…誰かさんがちんたらしていたせいで、裏通りも混みそうなんだよ。」
トランク1つ抱えて歩くのにも大変で、彼に言い返す気力もない。
「我が儘な坊っちゃんに合わせるほど暇じゃねぇ。」
「いくらなんでもアルバート家の子息になんてこと言うんだ!」
シューをおいてけぼりで二人の従者は言い合いし始めた。ただでさて体力がないのに、面倒なことになった。
「いいよ、カーティス。さっさと行こう。」
「でも…。」
どんなに下級であっても、カーティスは貴族。カーティスとしては公爵家の息子に不遜な態度をとることなんてあり得ないことだから、この下男の男につっかかるのだろう。
「ここまで自分の体力がないなんて思ってなかった僕の責任だから、彼を責めないで。」
看護師はかなりの肉体労働で、美代子も体力に自信があったからシュー自身の力を誤って判断した。
「面倒な道案内させてごめんよ。でも、長いものには巻かれた方がいいと思って諦めてくれないかな。」
下男の男とカーティスは目を丸くして顔を見合わせた。シュー自身もらしくない発言だと思う。例え心のなかでだれかを気遣ったりしていても、それを言葉にしてこなかったから。
「もう、急いでるんでしょ!」
気恥ずかしくなって、棒立ちした二人の間を縫って先へ進んだ。
馬の声と人々の歓声が隣の道から聴こえた。裏通りからも続々と人が移動する。ユーリが言っていた視察が始まったらしい。
「シャルル・ド・オルレアン殿下。」
きっと兄二人は彼のこととは面識あるはずだが、シューは会ったことがない。ただ美代子は知っている。人気の高い、攻略対象の1人だからだ。
ゲームでは王道な王子様で、民にも優しく声をかけ、平民のヒロインにも目をかけていた、ザ・理想の兄のような人だ。ステータスとしても理想的で、もう1人の主人公といってもよいくらいのバッファー兼アタッカーでバーディーから外れることは殆どない。美代子も彼にはお世話になった。
「見たい。」
「え?」
「は?」
美代子のミーハー心が出てしまって、二人の従者を困惑させた。だって、ミーハーのみーちゃんだもの。
「ここで待ってて、すぐ戻るから。」
「ちょっと待て。」
下男の男に止められる前に、転移魔法を発動させた。シューが闇魔法の前に覚えた光魔法で、これがあったから体力がなくても秘密裏に屋敷を抜けだせたのだ。
「まじかよ。」
下男の嘆きなど既に聞こえない。
転移魔法でメインストリートの家屋の屋根に移動すると丁度真下に王子の姿を確認した。
キラキラと輝くプラチナブロンドが、優しげな彼にはよく似合った。
「良い天気ですね。暮らしはどうですか?」
市民と会話をしている王子は、とても生き生きしてて、楽しそうだ。
屋根から落ちないようにへばりつきながら彼を見ていると、ふと彼が顔をあげた。窓を開けて見ている人たちがいるから上を見るのは普通なのだが、彼のの目とあった。これがアイドルのファンのような勘違いであるかもしれないが、変に顔を覚えられたのなら困る。父や兄たちと面識がある彼に、気づかれたくない。覚えられないうちに魔法で元の場所に戻る。
「おい、てめぇ、何勝手に行動してんだ!」
下男は戻ってきて早々、シューの服をつかみ怒った。いくらシューが気に食わないからといって彼からすれば護衛対象がふらっと消えたことは見過ごせないことだったんだろう。
「ちょっと見たかっただけだから。」
ジルやカーティスの実力はよくわからないが、上級魔族くらいか、戦争レベルの「足軽」が来なければシューを害することなんて恐らく無理だから、シューは護衛なんてどうでもよいのだ。
「つーか、その魔法があんなら歩いていく必要ねえだろ。」
「…お兄様たちやユーリにばれたくなかったから。」
「なんで?」
「そうじゃなきゃ、簡単に屋敷なんて抜け出さないし、軟禁生活なんてやってけない。」
転移魔法が彼らにバレれば監視の目が増えたはずだ。下男やカーティスの前で今使ったのは、光の神殿にいけたことでバレても構わなくなったから。
説明が面倒で投げやりに答えたのだが、小姓は
「あははははは。」
凄く楽しそうに笑っていた。カーティスもシューも突然笑いだした男に呆然とした。
「いや、悪いな。噂しかしらなくてよ、どんな甘ったれた我が儘坊っちゃんかと思ったけど、結構骨のあるやつだったんだな!」
このゲームで一番骨があるのは、シューだろうと美代子は勝手に思っている。この粗雑な男は、それだけでいたくシューを気に入ったようだ。
「俺はジル。こんな口調だから分かると思うが、平民だ。何かあったら手伝ってやるよ!今度屋敷抜け出すこととかさ。」
「ちょっと!」
カーティスはシューに雇用されている訳ではないから、父エリオットの命に反することを良しとはしないためジルに噛みつく。先程と同じ展開だ。
「僕暫く帰らないし、もしまだ抜け出す予定があったら二人にこの魔法をバレるようにはしないから。さ、さっさといくよ。」
道に置きっぱにしてしまった荷物を取ると歩き出す。それを見たジルが
「いいよ、持ってやる。」
片手に2つのトランクを持って、シューの手に持っていたトランクも持ってくれた。
「ありがとう。」
持てたのか、と思いながらも口に出さない。せっかく持ってくれるというのだから、余計なことは言いたくない。
黙々と歩いているなか、シューはシャルル王子について美代子の記憶をひっぱりだそうと考えた。戦闘メインとはいえ乙女ゲームだから、王子にもヒロインにしか明かせない悩みがある。
彼は少しばかり体が弱い。それは本当に少しだと思う。大きな病を患っているということでもないし、虚弱体質というわけでもない。人より少しだけ風邪にかかりやすくて、こじらせやすいのだ。だから、10回に1回くらい公務を休むことがある。ただそれを理由に彼が次の王になることを懸念している人間が多い。そういう人間たちが彼の実の弟である、セルジュ第二王子を擁立しようとする動きがある。シャルルとセルジュの兄弟仲は悪くないが、セルジュはとても利発的な人間で、優しい第一王子よりも非情な決断をすることができるような人だ。セルジュ自身、兄よりも王に向いていると思っているところがあって、第二王子派の動きを許している状態だ。それが、シャルルの悩みだった。
シューに関係がないといえばないのは事実だが、ゲームの中のパーティーで唯一シューに優しく接してくれていた人だったから、仲良くなれたら嬉しいと思っていた。だから、シャルルの悩みを解決できたらいいなと思う。
「ぼっちゃん?」
「…シューでいいよ。」
「じゃあ、シュー。何ぼーっとしてんだ。なんか面白れぇことか?」
「ジルのいう面白いことってなんだい。」
今までのシューの興味は人を出し抜けそうなこと全般だったが、今はそれは興味ない。
「面白れぇっていりゃあ、そうだなぁ、悪戯とか楽しくねえ?」
「子供か。」
一応シューよりは年上だが、くだらない。秘密裏に屋敷を抜け出していたと聞いたたら、ちゃんとしたやつならカーティスのように非難するような反応するのが常識人だろう。
「君を喜ばせる考えはないよ。」
「ちぇー、つまらねえわ。」
シューは考えたいことがたくさんあったが、ジルはただ歩くだけじゃつまらないようで、話を振ってくる。
「じゃあ、なんでシューだけ珍しい名前なんだ?」
「…は?」
エリオット、エリオットJr.、オズワルド、この3人は確かに英語圏っぽい名前だ。シューは日本人の「修」や「秀」の名前や、フランスにシューという姓の人がいたはずだが、名前ではなかった。どちらにしても家族と国が違うから違和感を抱くのは仕方ない。
「…音の雰囲気だけで決めたんじゃないの。」
「ええー?そんなチンピラみたいなつけかたするか?」
それはゲーム制作者に聞いてほしい。ファンの間では「終」という意味でつけたんじゃないかという憶測が人気だった。しかし、いくらこの世界がゲームと似ているからといって、今シューは思考して、行動しているわけだから、親が「シュー」と名付けた理由はあるはずだ。
「もしこの名前に意味があるなら、きっと母様がつけたものだよ。」
「ディアナ夫人が?」
「僕の母様は、ディアナ様じゃないよ。出生証明書でもディアナ様じゃない。」
ディアナ公爵夫人は、エリオットの正妻で、エリオットJr.とオズワルドのお母さまだ。勿論彼女は娼婦なんかじゃなくて、立派な侯爵家のご令嬢だった、聡明な方だ。シュー、なんて変な名前つけるような人じゃない。
「ああ、そうだったけ。」
彼はそれをなんでもないとでも言うように返してくれたのがありがたい。気にしていないつもりでも、正妻のディアナ公爵夫人と血がつながっていないことは心にひっかかることだった。ディアナ公爵夫人は領地のマナーハウスから出たがらないし、父エリオットがシューをマナーハウスに連れて行こうとしていないので余計に会う機会は減っている。シューとしては公爵夫人と一緒にいると疲れてしまうから、それでかまわない。
「シャルル殿下はなんで見たかったんだ?」
「野次馬に理由いる?」
「要らねえわ。」
元が庶民であるシューとしては、彼が平民であることもどうでもいいし、口調が荒いことも気にしてはいない。しかし、軽薄なところなどうも苦手だ。たかだか16,7の少年に人としての厚みを求めること自体まちがっているけれども、苦手なものは苦手だ。
「あ、そこの角を右な!」
「そこに出るのか。」
「神殿の場所、知ってたのか。」
「なんとなく、ね。この道は知らなかったけど。」
「ここらへん、道入りくんでるもんなぁ。」
この王都の神殿は、各国から信者が来る大きな神殿だから、メインストリートから向かえば、迷うことなんてないのだが、今回は裏通りからだから、ジルがいてくれて助かった。
メインストリートに出ると、警備や王子に会いたい人たちでごった返していた。ユーリが馬車で行くのは難しいといった理由がよくわかる。この人だかり、引きこもりお坊ちゃまには辛い。
「おい、シュー!」
「シュー!」
トランクで両手が塞がっている二人には、シューの手を引くことは無理だった。シューが必死に二人の服の裾をつかもうとしたが、人込みでうまくつかめない。
「待って。」
もう少しで掴めると思ったのに、前から歩いてきたおじさんによってそれは届かなかった。二人の従者も焦っているが、大荷物と大人数の流れに身を任せるしかなかったらしく、どんどん遠くへ離れてしまう。もう目と鼻の先だから、迷うことはないし、目的地がはっきりしているから最悪そこで会えばいい。そんなこと分かりきっているのに、シューは不安で心細くなってしまった。また置いて行かれるのかと、怖くて足が震えた。
「行かないで。」
遠くに離れた二人へ手を伸ばしていると、ふと誰かに手をつかまれた。
「大丈夫、行こう。」
手の主はとても優しい声で、優しく、しかし離れないようにしっかりと握ったまま手を引っ張った。そして、彼に引っ張られるまま人込みから脱した。
「あのう、助かりました。」
そういっておずおずと顔を上げ、手を引っ張ってくれた人の顔を見て、固まった。
「ん?どうかした?」
「ああ、あの、知っている人と似てたから…。」
「そうか。お坊ちゃん、一人?」
彼はゲームの攻略対象ではないのに、すごく人気が高いキャラクターでグッズも販売されていた「ヒロインの実兄」、アンドリューだった。ちなみに苗字はヒロインと同じになるから決まっていない。まさかこんなところでゲーム関係者と会うなんて思ってもみなかった。ゲームを開始するとまず会うのが彼で、最初のクエストは彼からだった。誰のルートに進んでも、最初から最後までヒロインの味方でいてくれる最強の良心だ。ゲーム開始時点で20歳だから、今は18歳だろう。しかし、間近で見るアンドリューはもっと大人に見える。ちなみにファンの間では、攻略対象にシューよりもアンドリュー追加待ちされていたくらいだ。ただ公式が「彼は良い兄です」と返答したので、永遠に攻略対象にはならないと言われていた。動揺で固まっているとただアンドリューは迷子になったせいだと思ったらしい。
「えっと、友達が二人。」
「そっか。はぐれちゃった?」
「そうなんだけど…。」
「きっと友達も君を探してるよね。探しに行こうか。」
「あ、えっと、光の神殿に行くはずだったから、そこに行けば会えると思う。」
すぐそこじゃん、と呆れられるのは嫌ですぐに言えなかったが、彼は安堵して笑ってくれた。
「そっか、目星がついているならよかった。」
「う、うん、ありがとう。」
見下しながら話すのは慣れていても、ただ親切にしてくれた他人に対してどうやって話せばいいのか分からない。なぜこういうときに美代子らしく振舞えないんだ。美代子ならもっと自然に笑顔で感謝できるのに、シューは嫌に緊張してしまう。
「じゃあ、あんまりもたもたしていると心配しちゃうね。行こうか。」
再びシューの手を引っ張って人込みを突っ切ってくれた。アンドリューは背が高く、筋肉も程よくついているから、流されずに歩ける。見ず知らずの子供に対して優しくしてくれるなんて、この兄にして、ヒロインありだと思う。美代子の思考が邪魔しない限り、シューだったらやらない。
神殿の入り口までいくと、二人の従者が立っていた。二人はシューの姿を認めると、ほっとしたように顔を崩して大声でシューの名前を呼んだ。
「よかった、お友達に会えたね。」
「あ、う、ありがとう。」
「うん、どういたしまして。じゃあね!」
彼はシューを二人のもとに送り届けると、なんとでもないというように戻っていこうとする。
「待って、あの、お礼とか。」
「そんなのいいって!」
でも、アンドリューは両親が亡くなっていて妹との二人暮らしで、王都ではなく村に住んでいたはずだ。彼が王都にいるということは、作物とかを売りに来たはずなのにこんなことに巻き込んでしまって申し訳なかった。
「いつか、いつかお礼するから、名前!」
勝手にゲームの知識で覚えてしまっているのも罪悪感があったし、ヒロインといつか会う時があるなら、お返ししたいから、なにかしらの繋がりがほしかった。
「アンドリュー、アンドリュー・ホワイトだよ。」
名前だけ教えると、手を振って人込みの中に戻っていった。アンドリューが帰っていくのを見送って、改めて二人の顔を見ると、凄く複雑そうな顔をしていた。
「悪い、油断していた。」
「御身を危険にさらしてしまいすみませんでした。」
カーティスはかわいそうなくらい必死に謝り、ジルは気まずそうに頬をかいていた。
気にしていない、そう答えようと思ったが、彼らのこれは慈善事業なんかではなく、「シューの護衛」という仕事だ。人混みは最初から分かっていたことで、シューの体格が人混みに弱いのも分かっていたことなのに注意を怠った。エリオットJr.やユーリなら怒るのだろう。
「じゃあ、次からは気をつけてよね。今日は何もなかったけど、怪我や誘拐もあり得たところだった。もしアンドリューが誘拐犯だったら今頃…。」
疑心暗鬼の塊のシューが、あのときゲームの登場人物以外の知らない人間に手を引かれることはしなかっただろうけど。
「はい。承知してます。」
「ごめん。」
「ま、元の原因はユーリが手配していた馬車を断った僕だからね。僕の方こそ、我が儘に付き合ってもらってごめん。」
「シューって噂より全然良い奴だし肝っ玉据わってるよな。」
いや、美代子の記憶が戻る前だったら、多分噂よりヤバイ奴だと思うだろう。使用人たちにした酷い嫌がらせのなかで、最も酷いのは使用人が可愛がっていた猫の首を落としたことだ。正気の沙汰じゃない。自分でしたことなのに、美代子になってからトラウマのように猫の頭がフラッシュバックする。
「ま、まあ…、誉め言葉として受けとるから。」
「褒め言葉以外にどう捉えるっていうんだ?てか、顔色悪くなってないか?」
「さ、早く中入ろう。」
辺な顔をしている二人を促して、神殿の中にはいる。