破滅への足音
河合の介錯をしくじって以来、谷は隊の中で孤立していくことになった。えばりまくっていた平隊士達からは逃げるように避け、組長や近藤、土方、伊東らには頭を下げる一方だった。そんな谷に同情の目を向けている者がいる。どうも弱い立場の人間を庇いたくなるのがなつの性格のようで…。
なつにだけは、谷も心を開いていたようだ。大量の洗濯物に囲まれるなつの横に谷がいた。
「ちょっと谷さん、突っ立ってるだけで暇なんだったら手伝って下さいよ。」
谷を見上げながらなつは言う。
「何故俺が隊士達の洗濯物をやらなくてはいかんのだ!まっぴらごめんだ。」
「じゃあそこ、邪魔なんであっちに行ってくださいよ。」
「そんな事言うなぁ。俺を一人にせんでくれよ…」
なつ溜め息をつく。でもこの男も哀れだなと思う。居場所が無くなり、ここへ来たのだと。
「おなつ、俺は武士として失格だな…自分から河合の介錯をやると言ったのにこの有様だ。でも分かってくれ…やる時に迷いが出てしまったんだ…」
谷は誰にも言えなかった言葉をなつに話した。
「私には分からないですよ?私は武士ではありません。でも私も剣を使う者です。迷いは自分の命をも脅かしますよ?」
励ましを期待した谷。しかしなつからの言葉に愕然としてしまった。
「…でも……一人の人間としてなら理解できます。」
谷の顔は見ずにぽつりと呟く。それを聞き、谷はフッと笑った。今まで、何故なつがこんなにも試衛館組から慕われているのか分からなかった。女人禁制の新選組にまだ壬生浪士組だった頃からいるのだ。確かに隊士の世話をする女中は必要だ。しかしそんなものはいくらでも雇える。密偵としてでも土方なら島原の女を間者にすることぐらい考えるだろう。しかしその全てをなつに任せている。
それはただ単になつが使い勝手の良い人間だからというわけではない。人間の強い部分も弱い部分も全て受け入れてくれる。それを分け隔てなく、誰にでも同じように接する。なつは心の休息所となっているのかもしれない。だから試衛館の面々はなつを置いているのだと、谷は思った。それと同時に近藤達を羨ましく思った。
その晩、谷は脱走した。なつに宛てた一通の文を残して。
「まったく…肝の据わらねぇ奴だな。斎藤、追ってくれ。
土方は呆れながらに斎藤に指示を出す。斎藤はひとつ頷くと出て行った。
谷からの文は総司から受け取った。
「なんて書いてあるの?」
「『いつまでもお前はお前でいろ』…だって。」
「??なんかよく分かんないな…。きっと居辛くなったんだ。なつは気にしない方が良い。」
総司には理解出来ない谷からの文だが、なつは分かっていた。いつまでも隊士達の心の寄り所でいろ。谷はそう言っているのだろう。谷が帰って来たら、真っ先に迎えに行き、切腹の時間まで話を聞いてあげよう。なつそう思った。しかし、谷は、変わり果てた姿となって帰って来た。追っ手の斎藤に見つかると、刃向かったようだ。変わり果てた姿の谷を見つめ、なつはうつろな目で谷を見つめた。
せめて武士らしい死に方をしたら良かったのに…
斎藤に刃向かったのは谷の最後の意地だったのだろう。なつは谷の遺体に手を合わせた。
伊東の部屋では、何やら怪しい会合がもたれていた。そこにいるのは伊東一派と平助。
「そろそろ潮時だとは思わないか?家茂公が亡くなられ、帝までご崩御あそばされた。新選組の未来は見えたものだ。新選組を抜け、我等だけの組を作る。」
そこで話されているのは伊東一派の新選組脱退策だった。
「平助、お前は元はといえば伊東道場の者。私達と一緒に来なさい。」
「…しかし…新選組を抜けるという事は法度で禁じられていますが…」
平助には迷いがあった。
伊東は北辰一刀流の師でもある。平助が江戸へ帰った時に新選組への加入を勧めた。尊敬もしている。しかし、長く試衛館で貧乏生活をし、新選組旗揚げの時を共に過ごしてきた仲間と離れるのはとても心苦しいものだった。
「法度など気にするな。我等は先日亡くなられた帝の陵墓をお護りする御陵衛士となるのだ。近藤が反対するはずもない。」
さすが伊東の頭である。近藤さえ納得させれば土方は文句を言うまい。
「差し当たっては仲間を増やしたい。斎藤くん、永倉くんには加わっていただきたいものだ。彼等が入れば剣の腕は確かだからね…」
平助は迷っていた。どう考えても答えは出ない。平助はなつの所へ向かっていた。
なつは食事の準備に大忙しだった。そこへただならぬ顔をして入って来た平助に、なつの手が止まった。
「あの、なつちゃんにご相談したい事が…」
「どうしたの?!顔色悪いけど…。とりあえず食事の準備だけして良いかな?終わったらすぐ行くから。」
それを聞いていたおそのとおまさはニッコリと笑う。
「ここはもう大丈夫やさかい、平助さんの行ってあげ。ただ事じゃなさそうや。」
「そうどす。今日はおまささんもいはるさかい。」
二人の好意に甘え、なつは頭を下げると平助とともに裏庭へと向かった。
「平助さん、どうしたの?そんな深刻な顔して…」
「まだ近藤さんとかには言わないで欲しいんだけど…伊東先生、新選組を抜けるつもりなんだ。それで…私にもついて来いって…」
「…っでも勝手に抜ける事は法度で…」
「御陵衛士っていうのを作るんだって。帝の陵墓を護るっていう…私は伊東先生も尊敬してる。でも近藤先生だって尊敬してるんだ。選ぶなんて…出来ない…」
平助は俯いたままだった。彼にとって伊東も近藤も大切な人。どちらかにつかなければいけないのは断腸の思いなのだろう。なんと声をかけてよいのか分からなかった。
「…平助さんはどうしたいの?」
「それは…分からないんだ。伊東先生も近藤先生も好きだ。それになつちゃんと離れるのは…嫌だ…////」
平助は未だなつを諦めきれていないようだ。平助の想いはとっくの昔に知っている。それから随分経つのにまだ想っていてくれたことは素直に嬉しかった。しかし、色恋だけのために平助の未来まで奪ってはいけない。ましてや返してあげられない想いなのだから。
「あたしも平助さんと離れてしまうのは寂しいよ?でも平助さんの未来は平助さん自身が決めるべきなんじゃないかな?伊東先生は必要としてくれたから誘ってくれたんじゃないの?もちろん、新選組にとっても必要だけど…」
「伊東先生には恩がある。それに新選組に誘ったのは私なんだよね…」
「何もこれから会えなくなるわけじゃない。会おうと思ったらいつでも会えるでしょ?」
ニッコリと笑うなつに平助の顔も明るくなる。
「本当に…?毎日会える…?」
「…毎日は…でも時間があればいつでも!」
なつは苦笑いしていた。平助はなつの両手を掴み、今にも泣き出しそうな勢いだった。
やっぱり諦めないで良かった!!
小さく胸の前で拳を作り、天を仰いだ。どうやらなつをを総司から奪った気でいるようで、平助は先程までの落ち込み方は天と地の差であった。
「あ…それから永倉さんと斎藤さんも声をかけるみたいだよ?」
「…え?永倉さんと斎藤さん?左之助さんとかは違うの?」
「うん。永倉さんと斎藤さん。」
なつは直感的に怪しい空気を感じていた。伊東一派と平助だけなら納得できる。しかし永倉と斎藤という事は剣の腕を買われたはず。伊東はただ単に分裂だけが目的じゃないはず。平助には口止めされているが、これを近藤に言わない訳にはいかなかった。