天神牡丹
屯所をひっそりと出てきたなつ。必要最低限のものだけ持って、見回りの隊士に合わないように急いで島原へやってきた。
なつの密偵は幹部のみが知る、重要機密でもある。いつ新選組に長州からの間者が入るかも分からない。もしなつが密偵であることが長州にばれると密偵であることの意味がなくなってしまうからであった。
なつが遊女として出る店は、富音屋という店。島原に多くある置屋のひとつでもある。
「こんにちはぁ。」
なつの声が店の奥にいる女将に聞こえた。
「へぇーい…あんた、おなつはん?」
「なついいます。急なお願いで申し訳ないんどすけど、よろしゅうおたの申します。」
なつが頭を上げると、にこやかな女将の姿があった。
「おなつはん、よろしゅう。うちは女将の菊どす。あんたには天神を用意してあるさかい、頼むえ?」
天神という太夫に次ぐ地位をもらい、驚きの表情のなつ。その顔を見て、女将はくすくすと笑った。
「なんえ?その顔。あんたぐらい別嬪なら天神じゃたりひんぐらいやわ。太夫にしてあげたいんやけど、それやったら張り合いないやろ?おきばりやす。」
「天神なんうちにはもったいないくらいどす。せやけど精一杯努めさせてもらいます。」
なつの前向きな姿勢は、女将に好印象を与えていた。
「せや!うち、あんたの名前考えてん。『牡丹』や。寒い冬に咲く花。この物騒な世の中でも綺麗に咲いてほしいんや。えぇ名前やろ?」
「ほんまえぇ名前。名前に恥じんようにせなあかんな。女将さん、ほんまおおきに。」
ここに新選組密偵なつ、天神牡丹が誕生した。
天神には、身の周りの世話をする『禿』という、見習いの女の子が付く。寝食を共にし、天神の振舞いや気配りなどを見て学ぶのだ。
禿はほとんどの子が売られてきた子。七、八歳ほどの少女だ。こんなにも小さい頃から、遊びに来る男達を見ている。心に傷を負っている子も少なくなかった。
天神牡丹に付いた禿は八歳の蓮華という少女である。彼女はとても好奇心旺盛で、彼女の方からなつに話しかけてきた。
「牡丹姉はんはどこから来はったん?」
「うちは大坂から来たんよ。」
「ほなすぐ大阪に帰りはるん?」
「うちはここに手伝いに来たんや。せやから何れは帰らなあかん。」
そういうと蓮華はとても悲しい顔をした。
「そうなん…。うち、牡丹姉はん好きや。ずっと傍におって?」
「しばらくはずっと一緒やで。仲良うしよな。」
蓮華の頭をぽんぽんとすると、蓮華は満面の笑みを浮かべた。
「蓮華、ひとつ約束事があんねん。」
「なんどすか?うち、約束は絶対守るえ!」
人懐っこい笑顔を見せた。
「うちの大事なお客はんが来てはったら、良い言うまで入ってきたらあかんえ?」
蓮華は一瞬戸惑いの表情を見せたが、その意味を理解したのかしてないのか、大きく頷いた。
こんな小さい子に見せるわけにはいかない。ここは島原、遊郭。男と女には何が起きるか分からない。ましてやなつは密偵としての仕事がある。体を売ってでも得なければいけない情報が眠っているのだ。
愛する相手でなくとも、仕事だと割り切らなくてはいけない。それが天神牡丹に与えられた使命。