3話 離れ森の魔術師③
家の明かりが見えてほっとしたのも束の間、森の影は先程よりも明確な悪意を滾らせて、リリアに絡みついた。
黒い靄が縄のように形を変え、細い首に巻き付き呼吸を奪おうと圧迫する。
実体は無く、こちらから触れる事は叶わない。それでも助かりたい一心で、どうにか引き離そうとリリアは自分の首に爪を立てた。
「は、離して……」
声を振り絞ると、締め付けが一層増した。骨が軋み、声にならない悲鳴が漏れる。
頭のどこかで、もう駄目かもしれないという諦めが過ぎった。
(こんな事になるのなら、パンプディングは食べておけば良かったな……)
師匠の帰りを待っていたので、夕食はとっていない。人生最後の食事が冷えたパンとドライフルーツなど、あまりにも寂し過ぎる。
脳裏に浮かぶのは、他愛もない事ばかり。走馬灯と言うには地味とも思える、当たり前な日常の、些細な出来事ばかりだ。
リリアの思い出の中には、いつも師匠がいた。そのどれもが、頼りなく笑う顔だったり疲れたように歩く姿だったり、情けないものだったが、リリアにとっては大切な思い出ばかりだった。
(私がいなくなったら……あの人、まともに生活できるのかなぁ)
浮かんだ疑問に、無理だろうな、と胸中で即答する。
それに、あんな生活破綻者の面倒を見てくれる物好きもいないだろう。自分以外に、誰も。
それならば、
「私……まだ、死にたくない」
一人では何も出来ない師匠を残して死んでいくなど、考えたくは無い。
唇を噛んで、落ちかけた意識を引き戻す。鉄の味を口内に感じる。まだ生きている、と自分を鼓舞する。
出来る事はやった。だから次は、出来ない事をやってのけるまで。
「――闇を照らす者よ、知恵の炎に宿る精霊よ」
古い書物に載っていた呪文を、リリアは何度か見たことがある。精霊術と呼ばれるものだ。魔術とは理の違う術であり、一度もそれを教わった事はない。
白魔術師としても未熟な自分に、精霊が応えてくれる可能性は低い。だが、リリアにはもう縋るものがない。
このまま死を待つよりも、僅かな希望に賭けてみたかった。
飛散する意識をかき集め、記憶の中にある呪文をできるだけ正確に口ずさむ。
「契約を交わし、印を与えよ。我が声に応え、力を示せ……!!」
詠唱は完了した。
そして術は発動する――かに思えた。
精霊術には、『混濁』と呼ばれる現象がある。
術者の力が精霊を御するまでに満たない場合に起こるもので、未熟な魔術師が陥りやすい現象だ。
術者の魔力を対価とし、一時的に精霊と契約を交わし使役する精霊術。だが、精霊達は好き好んで人間に力を貸すわけではない。古の時代に交わされた盟約により、そうせざるを得ないのだ。
契約は、正確な術式と完全なる呪文の詠唱により執り行われる。どこかに不備があれば、契約は成立しない。
だから精霊達は、綻びを見つけようとする。術式の細部から呪文の一言一句を見逃さず、僅かな穴を見つけては抵抗する。
その際に起こるのが、混濁である。
精霊の抵抗に負けた術者は、逆に心身を明け渡す事となり、術式が切れるまでの間使役される側となる。
リリアに襲い掛かったのは、まさにその現象であった。
四肢が力なく垂れ、目が虚ろに淀んでいる。森の影は依然リリアの首を締め付けているが、苦しいと思う事はない。今、リリアを支配しているのは、彼女自身ではないからだ。
細い身体が、影によって吊るされる。緩々とやって来る死の足音は、リリアには聞こえない。
静かな夜だった。虫の声も、風の音さえも聞こえない。
そして、微かな呼吸音ですら奪い去られようとしていた時――。
「まったく……精霊術の呪文なんて、教えた覚えは無いのになぁ」
やる気をまったく感じさせない声が、森の影の背後から響く。
闇に紛れて立っていたのは、一人の男だった。
よれた白いローブの上からでも分かる、芯の通っていないくたびれた背中。中途半端に伸びた髪は煤けた銀色で、そこから覗く瞳はぼんやりとした青い光を湛えている。
溜息をすれば、同時に膝から崩れ落ちるのではないかと思うほど精彩を欠いてはいるが、それでも男は大きく息をついて、
「呪文については及第点と言ったところか。でも、術式の構成が甘いかな」
などとブツブツ呟いている。
森の影は突如現れたそんな男の姿に、虚を衝かれたかのように動きを止めた。だがそれも一瞬で、すぐに攻撃を仕掛けてくる。
黒い靄が触手のように伸び、男へと向かう。その拍子に、吊るされたリリアの身体がブラリと揺れた。
「あまり、その娘を乱暴に扱わないでくれよ。大切な弟子なんだ」
男が右手を突き出すと、伸びた靄は跡形も無く霧散する。
呪文は唱えていない。無詠唱での魔術は、高位の魔術師にしか出来ない芸当だった。
効果は尚も続く。男の放った術は、やがて森の影の本体にまで広がり、リリアを残して全て消し去った。