14話 師匠と弟子⑧
『我が親愛なる娘、フローラへ。
フローラ、元気にしているだろうか? この手紙を君が読んでくれるか分からないが、伝えたい事がありこうして筆を取っている次第だ。
君が去って以来、我が家は凪いだように静かになった。
時が経った今でも、この寂しさには慣れぬ。だが、落ち込んでいたフェリシアも、子供達の暖かな励ましにより、再び笑顔を見せるようになった。
妹のローズは、先日結婚が決まったよ。相手の青年はしっかりとした方なので、きっとあの子を助けてくれるだろう。
ルンドクヴィストの家は、兄のエヴァンが継ぐ事になる。身体が弱いのは相変わらずだが、彼も立派に成長してくれた。魔術師としての力は弱いが、その聡明さで皇家をサポートしてくれるだろう。
君は優しく、責任感の強い娘だ。
だから、もし我々の事で思い悩む事があるのなら、心配をする必要はない。
君が家を出たあの日、私は色々な事を思い知らされた。君が抱えていた悩みや苦しみ、そして、家族へ対する思い。
私は君に対して、良き父親となれなかった。
許して欲しいと言えば、きっと君は怒るだろう。だが、許してもらえなくても、憎まれていても、一つだけ君にお願いがある。
フローラ、どうか幸せになってくれ。
結婚して、子供に囲まれ、笑顔の絶えない幸せな家庭を作ってくれ。
私は今、病の床に臥している。恐らくもう長くはないだろう。この手紙は、愚かな父親が残した懺悔とでも思ってほしい。
出来る事なら、もう一度その顔を見たかった。
――エミリオ・ルンドクヴィスト』
この手紙が父親からのものだという事に、フローラは最初から気付いていた。
宛名も差出人も書かれていない封筒を、配達人が届ける事は出来ない。しかし、手紙はフローラの元へ確かに届いた。それが何故なのか、彼女には分かっていた。
手紙から、よく知る匂いがしたからだ。
『魔力の馨り』と呼ばれるその匂いは、絆を持つ術者同士にのみ感じられる、一種の識別知覚のようなものだ。魔力を発動させたモノや人物、空間に至るまで、その馨りは残るという。
それを、フローラは感じ取った。幼い頃からずっと自分と共にあった、懐かしくも忌まわしい、父の馨りを。
「この手紙は、父が魔術によって転移させたものです」
「転移術……確か、高位の黒魔術ですね」
リリアの言葉に頷くと、フローラは瞳を翳らせ、目の前に置かれた手紙を見た。
「ええ。これには、父の魔力が僅かに残っていました。それに、この方法でしか、父は手紙を送れません。私の居場所など、知らないのですから」
「でも、転移術だって目的の場所が分かっていないと、正確に送る事は出来ないんじゃ……。むやみに使えば、それこそ全然違った場所に行くって、師匠から聞いた事があります」
「通常であれば、そうね。でも、私と父には――認めたくはないけれど、絆があった。リリアちゃん、あなた、ラクラさんの魔力を感じた事は?」
客室で眠っているであろう師匠の事を思い出し、リリアは答える。
「あります。師匠が魔術を使うと、何となく分かるんです」
「それは、リリアちゃんとラクラさんの間に絆があるから。私と父も、そう。……転移術はね、絆を持つ者同士なら、たとえ居場所を知らなくても正常に発動するのよ。相手の魔力を辿り、転移させる事が出来る術なの」
「そうだったんですね……」
リリアは、黒魔術について多くの事を知らない。稀に師匠から話を聞く事はあっても、それを学ぼうとはしない。彼女が目指すべきは、白魔術師であるからだ。
初めて触れた転移術の真相に、どこかピンと来ない様子を見せながらも、リリアは相槌を打っていた。
二人の会話を横目に、ノエルは手紙を取り、もう一度読み返す。
そして、何か思うところがあるのか、深く息をついて、
「いいのか、フローラ?」
隣に座る妻へそう声を掛け、言葉を続けた。
「親父さん、もう長くないって……。お前、会わなくていいのか?」
「……もう会えませんわ」
「何言ってんだ。まだ間に合うだろ。二人で一度――」
――顔を見せに行こう。言いかけたノエルを遮って、フローラは頭を振った。
「無理なのです。だって、それは……その手紙は……、もう何年も前に届いたものなんですから……!!」
フローラは、滅多に取り乱す事をしない。いつだって美しく聡明で、凛とした佇まいで前を向いていた。
そんな彼女が、声を荒げている。
呼吸を乱し、肩で息をすると、悲痛に歪んだ顔を両手で覆った。
妻が珍しく見せた激情に、ノエルは息を呑む。リリアでさえも、どう声を掛ければいいのか分からない、といった表情で口を閉ざしている。
「何年も、前……?」
沈黙の中、ノエルは声を振り絞った。
「お前……この内容を知っていたのか?」
「いいえ。読んだのは、今日が初めてです。手紙の存在すら、今まで忘れていたんですもの」
「じゃあ、これが届いたのはいつの事なんだ?」
「この街で暮らし始めて、すぐに」
「……俺達が結婚した頃か」
気ままな旅を終わらせ、共に暮らし始めたのは七年近くも前の話だ。
フローラは、当時の気持ちを今でも鮮明に覚えている。結婚を申し込まれた時の嬉しさ、共に暮らす日々の楽しさ、穏やかな時間が流れる幸せ。他愛も無い事だって、彼女にとっては宝物のように感じられた。
だが、そんな平穏の中、ある一通の手紙が届く。
父親からだという事に、フローラはすぐ気が付いた。
宛名さえも書かれていない真っ白な封筒は、一瞬のうちにフローラの心を暗い不安に沈ませた。
父は一体、この手紙に何を書いた?
また、捕らえられるかもしれない。
今の生活が壊されるかもしれない。
最愛の夫と、離れてしまうかもしれない。
次から次へと過ぎる悪い予感に、フローラは恐れ戦いた。
――あの手紙を、見てはダメ。見てしまえば、何かが壊れてしまう。
だから彼女は忘れる事にしたのだ。不安を押し殺し、平静を装い続けて。
そして、マッカラム邸のクロゼットの奥深くでは、封さえ切られる事の無い手紙が眠り続けた。本日に至るまで、ずっと。
「でもフローラ。親父さんはまだ……」
まだ生きているかもしれない、と一縷の望みをかけたノエルに、フローラは弱々しく笑いかけ、
「父は、昔から弱音一つも言わない人でした。そんな人が、手紙にあんな事を書くなんて……よほど死期を悟っていたのでしょう」
そう言うと、向かいでじっと話を聞いていたリリアに視線を移した。
リリアは何も言えぬまま瞳を潤ませて、フローラの言葉を待つ。
「この手紙を読んだ時にね、私も何となく分かってしまったの。父は、もう何処にもいないんだって。魔術師の絆とやらが、そう伝えてくるのかしらね。あの人との絆なんて、私には無いと思っていたのに……」
「フローラさん……」
「でも、どんなに離れていても、結局私達は親子で――師弟でもあった」
こんな時にもフローラは笑顔を見せ続けるが、ノエルにはその身体が小さく震えているように思えた。居た堪れなくなり、細い肩を引き寄せる。フローラも夫の手に抗うことなく、そっと身を寄せた。
辺りには、沈黙が訪れる。
薪ストーブの炎だけが時折パチパチと音を立てる中、ノエルもリリアも声を発する事が出来ず、ただ黙り込んだ。
「……深層治癒で、私は自ら押し殺していた気持ちを知りました。そして、忘れ去っていた家族の記憶も」
やがて、フローラの唇から、ポツリポツリと言葉が溢れ出した。
「私は、自分の立場や責任から逃げる為に、家族を利用していたのです。両親は確かに厳しかったけれど、それだけではなかった。父はいつも真剣に、私と向き合っていました。母からは、何度だって励まされていた」
そんな両親の想いを、フローラはずっと重荷に感じていた。
父から魔術の教育を受ける度、自分の力量の無さに嫌気が差した。
母から労りの声を掛けられるたび、何もかも中途半端な自分が惨めに思えた。
「父のように、立派な魔術師にはなれない。母のように、家に尽くし生きる事も出来ない。それに気付いた瞬間、私は恐ろしくなった」
自分には何も無かった。力も、誇りも、覚悟さえも。
何も持たずに、フローラは育ってしまった。『後継者』という言葉の重みを、自分で考える事もしないまま。
だから、恐ろしくなった。
この先に待ち受ける、未来の事全てが。
「……家族を憎んでしまえば、私は其処から逃げ出せると思った。両親を嫌い、兄妹に目を向けず、多くの事に耳を塞いできた」
フローラが追い遣ってきたものの中には、家族との思い出も含まれていた。
優しく笑い掛けてくれた父や、子守唄を歌ってくれた母の姿。時折、病状の良くなる兄に勉強を教わっていた事。妹に、絵本を読み聞かせた事。
決して、冷たいばかりの家庭ではなかったのに。
それでも。
自分を引き止める思い出を、大好きだった家族の顔を、フローラは悉く沈めていった。
深く、深く――自分でも手が届かぬほどの深層へ。そして、心に蓋を被せた。
「フローラさんは、心から家族を憎んでた訳じゃ無いんですね」
「ラクラさんにも、同じ事を言われたわ」
呟いたリリアに、フローラは小さく笑みを零した。
「でも、そうね……。本当は、父や母の愛情に、気付いていたのかもしれない。それを見ない振りして、私はあの家から逃げた。ただ、自分の為だけに……」
深層治癒術を終えた後、ラクラは彼女にこうも言った。
「その事を、あなたはずっと後ろめたく感じていた。それが罪悪感となって、気付かぬうちに心の底で根付いていたのでしょう」
――と。
水面下でひっそりと根付いた罪悪感は、やがて心の蓋を決壊させるまでに成長したのだと。
そして、きっかけとなる出来事が起こった。フローラの妊娠である。
子供を授かったと知り、彼女は勿論喜んだ。すぐにでも、夫に伝えたいと思った。しかし同時に、言い表せぬほどの不安が襲った。
「……あの時は、自分の気持ちが分からなくて、戸惑う事しか出来なかった。でも、深層治癒を受けてはっきりとしました」
フローラは、真っ直ぐな瞳をノエルに向ける。
「家族の愛情を知りながら、それを捨ててきた私に、幸せな家庭を築く事が出来るのか……両親の気持ちを蔑ろにしていた私が、立派な親になれるのか……私はずっと、それを不安に思っていたのです」
妻の視線を受けて、ノエルもまた、真剣な表情を浮かべ、
「そうか……それがお前を苦しめていたんだな」
言いながら、肩を抱く手に力を込めた。
「情けない話ですわね。魔術に頼らなければ、自分の気持ち一つさえ、分からないだなんて」
「そんな事ありませんよ、フローラさん」
自嘲的なフローラの台詞に答えたのは、リリアだった。
「人間が限界を感じた時、心は自らを守るために働くと、師匠は言っていました。フローラさんも同じです。その時必要なものだけを、心が選び取った。そうでもしないと、きっと、フローラさんが壊れてしまうから……」
リリアは尚も続ける。
「だから、フローラさんが抱いた不安は、きっと今必要なものなんだって思うんです。これからどうやって子供と――家族と向き合っていくか、ちゃんと考えるために」
「どう向き合っていくか……考える、か」
妻の肩を抱いたまま、ノエルは彼女の父から送られてきた手紙を器用に開いた。最後の一文に書かれた義父の名を、どこか寂しそうな瞳が映している。
「リリアの言う通りかもしれねぇな。自分達の事で精一杯で、俺達は周りを省みる余裕なんて無かった」
「そうですわね……」
「お前の親父さんにも、辛い思いをさせてたんだな……俺達は」
「そんな、貴方は何も――」
「いや。お前をこんな所まで連れて来たのは、俺だ。あの家にお前を帰す事だって出来たのに、それをしなかった。……フローラを離したくない、俺の我侭でな」
そう言うと、ノエルはわざとらしく視線を泳がせた。耳の先が、髪と同じくらい赤く染まっている。リリアとフローラが顔を見合わせ、小さく笑う。ノエルはそれを咳払いで遮ると、
「それにな!!」
二人を驚かせない程度に、声を張り上げた。
「結婚する時、俺はお前に約束しただろ。辛かったり、苦しかったり……そういうモンは、俺が一緒に背負うって」
「ノエル……」
「俺は、お前一人を苦しませたりしない。お前や親父さんが望む『幸せな家庭』っつーのは、俺達が支え合わないで作れるようなモンじゃねえだろ?」
それを聞いて、フローラは目を瞠った。横を見上げると、ノエルがこそばゆそうに、口を結んでいる。
荒々しくも暖かい夫の言葉に、胸が満たされるのを感じて、自然と涙が溢れた。
フローラは、手紙を持つノエルの手に、そっと自らの手を重ねると、
「今日、初めてこの手紙を読んだ時……私、一つだけ後悔をしました」
「後悔?」
「もう父に、貴方を見てもらう事は出来ないのだと。私の夫が、どれほど優しく素敵な人なのか……あの人に知ってもらう機会は、二度と無いのだと」
流れる涙を隠そうともせず、ノエルの腕に身を任せた。
ふと、脳裏に父の顔が浮かぶ。記憶の中の父は、どこかノエルに似た眼差しで、こちらを見つめている。
フローラはようやく、その瞳に向かい合うことが出来た。
(私は幸せです。だから、心配しないで……お父様)
密かに呟くと、記憶の中の父が微笑んだ。
「フローラ。子供が生まれたら、一度シエラザムへ行こう」
「でも、母達は私を許さないかも……」
「そんときゃそん時だ。行かねえで後悔するより、ずっと良い。親父さんにだって……俺達の子供を見せてやろうぜ。花と酒でも持ってよ」
フローラは夫の言葉に頷くと、その顔を美しく綻ばせた。
「ええ。そうですわね」
――こうして、フローラの悩みは一応の決着を見せた。
だが、一連のやり取りの後、
「あっ、お腹鳴っちゃった……!!」
腹の虫と共に、リリアの情けない声が響き、どうにも締まらぬ幕引きとなった。
ノエルとフローラは、互いに顔を見合わせると、声を上げて笑う。それは、マッカラム邸に再び賑やかさが戻ってきた瞬間であった。