12話 師匠と弟子⑥
「あ……!!」
氷の刃に背筋をなぞられるような、冷たく尖った感覚に、リリアは目を瞠った。
大きな力の流れが、マッカラム邸を包んでいる。辺り一帯の空気が震え、そこに渦巻く魔力の強大さをリリアに伝える。
「師匠が術を発動させましたよ」
普通の人間では気付く事の無い、魔力の馨りとも言うべき気配を、リリアは敏感に感じ取った。視線の先にある扉の向こうでは、今まさに、禁忌とも呼ばれる術が行われている。
ノエルは僅かに項垂れると、赤い髪をクシャクシャに掻きながら妙な唸り声を上げた。
「どうしました、ノエルさん? そんな乱暴にすると、禿げちゃいますよ」
「大丈夫だ。俺は禿げねえ」
とは言いつつ、ピタリと手が止まる。ノエルは暫く黙り込み、やがて大きな溜め息と共に呟いた。
「俺は、自分をブン殴りてえよ。フローラが思い悩んでるのに、これっぽっちも気付いてやれなかった」
「ノエルさん……」
「フローラは気にするなって言ってたが……あいつの一番近くにいる俺が、何にも出来ないなんて、そんなの情けなさ過ぎるだろうが」
精悍な顔が、自責の念に沈んでいる。鍛えられた広い背中が、力無く丸まって影を背負う。そんな男の様子を見て、リリアは、
「あんまり落ち込まないで下さいよ」
と声を掛けた。
「そうは言うけどな……」
それでもノエルが後ろ向きな言葉を続けそうなので、リリアは思い切り、彼の背中を平手で打った。力を加減しなかったので、切れの良い音が響いた。
少女(とはいっても、十七歳だが)の力と言えど、全力で叩かれれば勿論痛い。ノエルは、背中を襲った突然の衝撃に、小さく呻いた。
「うっ……!?お前、少しは手加減ってもんを……」
だがリリアは、そんなノエルの言葉には耳を貸さず、もう一度逞しい背中を叩く。そして、痛みに悶える男に詰め寄ると、
「しっかりして下さい。ノエルさんは、もう『父親』なんですよ。そんな弱気な事言ってたら、フローラさんだけじゃなくて、お腹の赤ちゃんにも笑われちゃいます!!」
そう言って、大きな瞳を真っ直ぐに向けた。
「リリア……」
「それに、何も出来ないなんて、言っちゃダメです。これからフローラさんを支えるのは、ノエルさんの役割なんですから」
深層治癒術は、使い方一つで他人の精神を操る事が出来る。過去を消し、記憶を書き換え、初めから傷など負っていないかのように心を騙す。そんな事も不可能ではない、悪魔のような力だ。
しかし、ラクラは決してそんな事をしない。
彼は、フローラの奥底に眠る不安の種を見つけるだけだ。それを受け入れ、乗り越えるのは、フローラ本人がやるべき事である。
そしてそれには、支えとなる人間が必要となる。
「だからノエルさんは、いつものように笑っていて下さい。フローラさんだって、そう言うと思いますよ、きっと」
「そう、だな……。生まれてくる子供に、だせぇ面なんて見せられねえよな……!!」
リリアの言葉に、ノエルは頷いた。顔には、強気な笑みが戻っている。
「よしっ、気合を入れ直さねえとな!! リリア。どこでもいいから、もう一回俺を殴れ」
立ち上がって、自分を指差すノエルに、
「えー。私、暴力なんて出来ません」
先程の行いを綺麗サッパリ忘れたリリアが、平然と言ってのけた。
それから暫くの時間が過ぎた。
話題も尽き、暇つぶしにと始めたしりとりも、険悪な空気となって終わった(リリアが毎回同じ語尾で返したせいでもある)。ぐったりと座り込むリリア達の頭上では、日が傾きかけている。
そろそろ喉も渇いてきた。腹の虫がどこかで小さく鳴いたので、二人は顔を見合わせると、互いにそれを押し付けあう。
玄関の扉が開いたのは、そんな時だった。
「フローラ!!」
扉の前に立っていたのは、目を赤く腫らしたフローラだ。弱々しく微笑んでおり、頬には涙の跡が見える。
ノエルは駆け寄り、思わず妻を抱きしめると、
「何があった!? あいつに何かされたのか!?」
そう言って、家の中を睨み付けた。
「いいえ、違うの。これは……違うんです……」
逞しい腕の中で、フローラは首を横に振る。そして再び嗚咽を漏らすと、ノエルの胸元を涙で濡らした。
「な、何があったんだよ?」
「フローラさんは、知ったんですよ」
いつの間にか隣に立っていたリリアが、静かに言った。
「知った? 何をだ?」
「今までフローラさんが隠してきた『何か』を。フローラさん本人でさえ忘れていた――忘れていたかった、そういうモノを。深層治癒は、心を暴く魔術ですから」
リリアはそう言うと、抱き合う夫婦を横目に家の中へと足を踏み入れた。
リビングのテーブルには、水の入った桶がそのまま置いてあり、羊皮紙からは微かな魔力の残り香を感じた。少し視線をずらすと、煤けた銀色が見える。それが、突っ伏したラクラの頭だという事に気付き、リリアは、
「師匠」
小さな声で、彼を呼んだ。
もぞもぞと、銀の髪が動く。
「やぁ、リリア」
死に掛けた虫の様に蠢いて、ラクラは顔を上げた。いつにも増して疲れ切った、酷い顔をしている。相当の魔力を使ったのだろう、とリリアは考えた。
「やっぱり、師匠も少し身体を鍛えた方が良いかもです」
「突然何を言い出すの」
「師匠は見た目が貧弱だから、そうやってバテられると、ちょっと焦ります。ノエルさんみたいな人だったら、『寝てるんだなー』って思うんですけど……」
「それは一応……心配してくれてる、のかな?」
「心配ですよ。師匠だもの」
あっさりと言う弟子に、ラクラは苦笑する。
そうしているうちに、ノエルとフローラも中へと戻ってきた。妻を労わるように椅子へと座らせて、ノエルは向かいのラクラを見た。
「術は成功したんだな」
「ああ。後は、彼女次第だ」
「これから、フローラから話を聞く。お前らにも同席して欲しいそうだが……どうする?」
ノエルの問いに、
「僕はあらかた知ってるし……こんな調子じゃ、聞いてる途中に落ちそうだ。魔力の消耗が激しくてね。出来れば、少し休みたい」
霞んだ声でラクラが答える。顔色は冴えず、覇気どころか生気すらも感じない枯れ果てた様子に、ノエルは眉を顰めた。
「深層治癒術っつーのは、そんなに疲れるモンなのか?」
「まぁ、そこら辺の魔術師がやろうとすれば、干物になる程度かな。もっとも、発動すら出来ないと思うけど……」
「じゃあ、お前は休んでろ。客室のベッド、使っていいぞ」
珍しく気を利かせたノエルが、リビングから通じる客室を指差した。
「リリアはどうする? あいつに付いててやるか?」
墓から這いずり出てきた死者の如く、ベッドを目指して足を引き摺る師匠を眺めて、リリアは答えた。
「大丈夫ですよ。師匠だって、一人で寝るくらいは出来ます」
「ラクラさんに迷惑を掛けてしまいましたね。ごめんなさい、リリアちゃん」
「師匠の疲れ方が大袈裟なんです。フローラさんが謝る事なんて、ありませんよ」
「でも……」
「久しぶりに大きい術を使ったから、身体がビックリしちゃったんです。だから、これから鍛えるようにと言っておきました」
暢気にそう言ってみせると、台所へ向かう為に振り返る。
「お話するんですよね? お茶を入れて来るので、ちょっと台所を借ります」
軽い足取りで奥へと消えてゆく姿に、ノエルとフローラは顔を見合わせると、小さく笑った。