10話 師匠と弟子④
フローラが告げた一言は、ラクラを除く二人の思考を停止させた。ノエルは目を見開いて固まっているし、リリアは口をあけた間抜け面を晒している。
マッカラム邸のリビングは、しばしの間えも言われぬ沈黙に包まれる。穏やかな昼下がり、窓から差し込む光は暖かで、外の通りからは賑やかな声が聞こえる。この天気に誘われた近所の子供達が、その辺で遊んでいるのだろう。
静寂が続く中、ラクラは思わずあくびを漏らしかけた。
「あの……貴方?」
耐えかねたフローラが、夫の顔を覗き込む。
ノエルは、目の前で首を傾げている妻の姿を認めると、
「フローラ、本当に……?」
そう言って、彼女の細い肩に自らの大きな手をかけた。
「ええ、本当です」
「俺達の子供なんだな」
「はい。当たり前じゃないですか」
フローラが頷くと、ノエルは徐々に口元を緩ませ、やがて溢れ出したかのように感情を爆発させた。
「よっしゃああ!! やったな、フローラ!! 俺達に、子供が生まれるんだ!!」
ノエルはフローラを軽々と抱え上げ、そう広くはないリビングを嬉しそうに駆け回る。その様は、大型の野生動物が美女にじゃれついている(もしくは襲っている)ようにも見え、ラクラは微笑ましいというよりも、危なっかしい気分で二人を眺めた。
「ノエル。彼女は今、とても大事な時期なんだ。下手をすれば、お腹の子に障るよ」
「そうなのか!? ったく、そういう大切な事は、早く言えよ!!」
「君の行動がいきなり過ぎるんだ」
ノエルはまるで壊れ物を扱うかのような表情になり、ゆっくりと妻の身体を下ろす。そして無事を確認すると安堵の息をつき、ラクラに向け笑いかけた。
「お前も、随分勿体ぶってくれたな」
「さっきも言っただろう。僕が話すべき事じゃない」
「ったく、ビビらせやがって。それにしてもお前、よく分かったな。俺なんて、一緒にいても気付かなかったのによ」
「まあ、何度かそういう女性を見た事があるからね。症状を知っておかないと、間違った処方をしてしまう危険もあるし」
「薬作るのは下手なくせになぁ」
「うるさいよ」
そうこうしている内に、放心していたリリアも我に返ったようだ。席を立ちフローラへと歩み寄ると、大きな目を輝かせて、
「フローラさん、おめでとうございます!!」
感極まった声を上げた。
「ありがとう、リリアちゃん」
まだ膨らんでもいない腹を慈しむように撫でながら、フローラが笑う。優しげで――少し翳りのある、美しい笑顔。リリアは、微かな違和感を感じ取る。
「子供が生まれたら、遊んでやってくれよな。リリア」
「うん。それは勿論なんだけど……」
「ん? どうした、変な顔して。何か気になるのか?」
リリアの表情に、ノエルが眉を顰める。
その様子に気が付いたラクラは、しかし何を言うでもなく、ただ無言で弟子を見つめた。リリアは敏い娘だ。フローラが抱える『何か』を、弟子も感じ取ったのだろう。
おずおずと、リリアはフローラの手を取った。
「あの……もしかしたら、余計なお世話かもしれないけど」
「なあに?」
「フローラさん、思い悩んでる事とかありませんか?」
不躾な質問だったかもしれない、とリリアは考える。だが、フローラは手を振り払うことをせず、強く握り返してきた。
「リリアちゃん、鋭いのね。こういうところは師匠譲りだわ」
クスクスと笑う姿に、リリアは胸を撫で下ろす。
そして、自分が感じた翳りは、そこまでフローラを追い詰めていないのかもしれない――そう思い始めた矢先、
「ラクラさんに、お願いしたい事があります」
フローラはラクラへと向き直ると、こんな一言を口にした。
「私に治癒術を……『深層治癒術』を行ってほしいのです」
白魔術の力として最も人々に知られているのは、傷を癒す治癒術である。白魔術には他にも、リリアが調合で行っている呪いや、草木の成長を助ける術、高位になると天候を操る術など様々なものがあるが、治癒術に比べれば必要とされる頻度は低い。
人間本来の力で傷を癒すべき、という考えのラクラは別として、白魔術師の中には高額の報酬と引き換えに治癒術を行う者もいる。
たちどころに傷を癒す奇跡の力(ただし、ラクラはこの表現を嫌っている)は、いつの世も人々から敬意を集めていた。
その治癒術の一つとして存在しているのが、『深層治癒術』だ。長きに渡る魔術の歴史の中、密かに隠し伝えられてきた、最高位・最高難度の魔術。これを扱うのは、並の術者には出来ない。
だが、
「深層治癒術、ですか……」
「ええ。ラクラさんならば、出来るのではないかと思いまして」
「無理な事はありませんがね」
ラクラの口振りは、術の執行が可能な事を表していた。
「しかし、今の貴女の状態を見ると、術を使うほど切迫しているようには思えない。アレは禁忌の力です。そう簡単に使うわけには――」
「オイオイ、ちょっと待て。フローラは何を言っているんだ。その……ナントカ治癒術っつーのは、一体何だ?」
ラクラの話を遮って、ノエルが捲し立てる。そんな夫に、フローラは真っ直ぐな眼差しを向けて、困ったように微笑んだ。
「フローラ。もしかして子供ができた事、あんまり嬉しくないのか?」
「そんなことありません。嬉しいですし、この子を産みたいと思っています。でも、どうしても不安に思う事があるのです。逃げ出したくなるような……そんな不安が」
「……何がそんなに不安なんだ?」
「それが分からないのです。だから、私はそれを知りたい」
「どういうことだ?」
ノエルはその言葉を聞いて、しきりに首を捻っている。しかし、フローラ本人でさえも漠然とした様子なので、これ以上の事を聞き出すのは止めておいた。その代わりに、大きな掌で妻の頬を包むと、
「もう少し早く、お前の気持ちに気付いてやればよかった」
そう言って、慈しみ深い視線を向けた。
「そんな……私が話せなかっただけなの。貴方が気に病む事ではないわ」
「お前の不安っつーのは、そのナントカ治癒術でしか消せないのか?」
「消すと言うよりも、この不安の原因を知ることは出来るはずです。そういう魔術だと、聞いた事があります。原因を知ることが出来れば、こんな不安なんて……貴方と一緒なら、きっと乗り越えられます」
ノエルは健気に微笑むフローラを抱きしめようと、つい手を伸ばす。だが、事の成り行きを見守っていた師弟の姿が目に入り、軽く咳払いする。
「というわけでラクラ。ナントカ治癒術をやってくれ。頼む」
「深層治癒術ね。それに頼むって言われてもなぁ……あの術は、色々厄介でさ」
「禁忌の力とか言ってたが、ヤバいやつなのか?」
「深層治癒は、魔術師協会から禁術の判定を受けてるんです」
ノエルの疑問に答えたのは、リリアだ。
「お前ら、協会所属じゃねえよな?」
「はい。でも、協会からの判定が無くても、深層治癒は禁術にあたるんですよ。人の精神に作用するものですから」
「精神に作用!?」
驚くノエルに、今度はラクラが説明を重ねた。
曰く、魔術にはタブーとされる行いがある。
生贄を使っての魔術儀式、寿命に反する延命術、そして人の精神を覗き干渉する術の行使。古の偉大な魔術師達は、世の理を乱しかねないこれらの行為を禁忌として定めた。
深層治癒術は、精神に入り込み、潜められた過去や真実を見つけ出す事が出来る。相手にそれを認知させ、受け入れさせる事によって心の傷を癒す術だ。
しかしそれは、使い方一つで癒しにもなれば、人を操る悪魔の力にもなりえる。消し去りたい過去があるのなら忘却させ、見たくない真実を書き換える、そうした事が可能になる恐ろしさも孕んでいるのだ。
ラクラの説明を受けて、フローラは尋ねた。
「術を使う事によって、何か罰を与えられる事は?」
「ありませんよ。僕は協会に入っていませんし、禁忌として定められていると言っても、そんなものは昔の魔術師達が交わした口約束に過ぎない」
そこで一度言葉を切ると、ラクラは小さく息をついた。フローラの眼は揺るがない。
隣に座る弟子の顔を窺うと、彼女は不安げにこちらを見上げていた。安心させるよう笑いかけてみたが、話し疲れたせいか、頬の筋肉がうまく動かなかった。結果、弟子は気味が悪そうに眉を顰めると、顔を逸らしてしまう。
リリアの塩辛い対応に凹み掛けた気を取り直し、ラクラはフローラに言った。
「良識ある魔術師の立場からすると、この術を薦める事は出来ません。しかし……その様子じゃ、何を言っても心は決まってるんでしょうね」
「……我侭を言って申し訳ありません。厚かましい事も、十分に承知しておりますわ」
フローラは、ゆっくりとこうべを垂れた。美しい黒髪が肩から流れ落ちる。その隣に座るノエルも、深々と(テーブルに額を擦り付ける勢いで)頭を下げている。
「でも、どうかお願いします。そうでなければ……私は生まれてくるこの子を、いつか不幸にしてしまう。そんな予感がするのです」
ラクラは静かに目を閉じた。暫くの間無言で、身動ぎ一つせず座り込んできたが、やがて大きな深呼吸と共に目を開ける。ノエルとフローラは、ずっと頭を下げたままだった。
根負けして、観念する。そして、
「君達にそこまでされたら、断れないな」
白魔術師は、徐に立ち上がった。友人の願いを聞き届けるために。