9話 師匠と弟子③
ロマリアは、この地に聳えるマカル山の裾野に位置する街である。
街中を走る水路は、山から流れる清廉な川の水を引いたもので、布の染色をする際に欠かせない。
街の入り口から市場が並ぶ大通りを抜けると、緑溢れる公園がある。そこは街の中心部であり、人々の憩いの場所にもなっていた。居住区は、公園を始点とし扇状に広がっている。何本もの通りが伸び、間には家々が立ち並ぶ。
目的地であるノエルの家は、そんな居住区の東側に建っていた。
酒場や宿泊施設が数多く建つ中央部とは異なり、辺りを包む雰囲気は穏やかで落ち着いている。ゆったりとした時間が、水路のせせらぎと共に流れているような、長閑な街並み。
ノエルに案内され、師弟は街を歩く。リリアはオレンジが入った紙袋(フローラへの土産にと、市場で買った)を抱えなおすと、
「大変です、ノエルさん。師匠が死に掛けてます!!」
閑静な住宅地に、声を響かせた。
「何だよ、情けねぇな。普段から運動してねえからそうなるんだ」
前を行くノエルも、リリアにつられて歩みを止める。振り返ると、精根尽き果てたかのような面持ちで、足を引き摺るラクラが見えた。
「筋トレしろ、筋トレ。どうせ毎日暇してるんだろ」
「魔術書より重い物なんて持ちたくない」
「どこのお嬢様だ、オメーは」
「それに、僕はノエルと違って頭は鍛えてるから」
「ほー。俺の頭が軟弱だって言いてぇのか」
獣を思わせる鋭い瞳に獰猛な光を滾らせて、ノエルが唸る。男二人の間に不穏な空気が漂うが、リリアはそんな事にはお構いなしで、師匠に向かって言った。
「頭を鍛えたって、それを使う場所が無いじゃないですか」
「うっ……」
辛辣な言葉だが、核心を突いている。
「ノエルさんは、身体を鍛えて立派にお仕事してますよ。師匠だって、魔術の腕は良いんですから、頑張ってお仕事しましょう!!」
「仕事って……店があるだろ」
「師匠は隠居状態じゃないですか。たまに出てきたかと思えば、調合間違えて怪しい薬作ったりするし」
「苦手なんだよ、ああいう作業は」
「ここ最近じゃ、ほとんど私が店番してるんですからね」
「頼りになる弟子がいるからさ」
「……師匠はすぐそういう事言うー!!」
こんな時に出るラクラの言葉は、九割方胡散臭い、とリリアは考えている。だが、残り一割にでも本心が入っているのなら、素直に喜ばしくも思う。
リリアは胡乱な、それでいて嬉しそうな、相反する思いが混じる複雑な表情を浮かべつつ、師匠に寄り添った。
「頼りになる可愛い弟子が付いててあげますから、頑張って歩いてください」
「はいはい……心強いよ、まったく」
「じゃあ、師匠を応援したご褒美に、後でケーキ買ってくださいね」
「えっ、そんなご褒美なんて、初めて聞いたんだけど……」
師匠と弟子は、すっかり自分達のペースで話を続けている。先を行くノエルはそんな二人を呆れた眼差しで眺めながら、
「あれで師弟っつーんだからなぁ。あいつら、マジで理解できねぇ……」
などと漏らしている。
ノエルにしてみれば、この二人は師弟という関係より、もっと近しいものに感じられるのだ。どこか腑に落ちない思いを抱きつつも、
「おい、そこのバカ師弟――」
先を急ぐためノエルは声を張り上げた。放っておけば、いつまでだって戯れ合っている師弟だ。
「さっさと行くぞ!! イチャイチャすんなら森へ帰ってからにしろ!!」
その言葉に、師弟から揃って反論が飛んでくるが、ノエルはそれを軽く聞き流すと再び歩き出した。
ノエルの家に辿りつくと、すぐにフローラが出迎えてくれた。
腰まで伸びた黒髪が印象的な、たおやかで凛とした雰囲気を持つ女性だ。野生を感じさせるノエルとはまるで正反対だが、並び立つ二人の空気は夫婦そのものであった。お互いを思いやり、慈しむ――二人からは、そんな表情が見て取れる。
「ラクラさん、リリアちゃん、いらっしゃい。お久しぶりね」
「こんにちは、フローラさん」
「お久しぶりです。急にお邪魔してすいません」
「いいのよ、賑やかになって嬉しいわ。お茶を入れてくるから、ちょっと待ってて下さいな」
突然の来客にも関わらず、フローラは笑顔でそう言うと、台所のある奥へと消えていく。
「あ、お手伝いします、フローラさん」
リリアがその背を追って行くと、
「あら、リリアちゃんも休んでいて良いのよ。ここまで来るの、疲れたでしょう?」
「私は全然平気です。疲れてるのは、師匠だけですから」
「じゃあ、ちょっとだけお願いしようかしら」
そんな会話が奥から聞こえてきた。
リリアにとってフローラは、数少ない同性の話し相手だ。店の常連にも女性はいるが、それはあくまでお客様であり、楽しいお喋りをするには距離がある。
一方、フローラもリリアを可愛がっている様子で、傍から見れば仲の良い姉妹にも思える。
女二人の楽しそうな声に、ノエルは笑みを浮かべて頷く。
「リリアは良い子だな。お前の弟子にしておくのは、勿体無い」
「良い子だけど、たまに怖いよ。滅茶苦茶怒られたりする」
「それはお前のせいだろうが……」
肩を落とすラクラにそう言うと、ノエルは藪から棒に尋ねた。
「リリアは何歳になる?」
「何だよ、急に」
ラクラは胡乱げに目を細めるが、ノエルに促され渋々答える。
「確か、十七歳だったような」
「……これからが大変になるぞ」
「は……?」
「女の子の成長は早いって言うだろ。お前はずっと一緒にいるから、気付けないかもしれねえが……あの子はキレイになった。前よりずっと、な」
「それが、どう大変になるんだ?」
言葉の真意が分からず、疲れたように息をつくラクラ。そんな友人の姿に苦笑いを浮かべると、ノエルはそれきり何も言わなかった。
暫くすると、リリアとフローラがお茶を持って現れた。焼き色加工が施された大きめのダイニングテーブルに、人数分のお茶とお菓子。そしてお土産にと買ったオレンジも、カゴに入れられ早速並んでいた。
話が始まると、盛り上がるのはやはり女性達だ。
新作の洋服だったり、流行の髪型だったり、最近の出来事であったり――どの店のどんなケーキが美味しかった、なんて事も含め、話題は尽きない。
一言二言で済むような事でさえも、延々と話していたりする。男二人にとっては、理解しがたい部分だ。
これでは、本題へ入れそうに無い。ラクラはテーブルの下で、ノエルの足を軽く蹴った。話を切り出せ、と訴えているのだ。
ノエルは小さな咳払いをする。しかし、会話に夢中なリリア達に気付かれる事は無く、もう一度、大きく咳払いをして、
「あー、フローラ? その、最近、身体の具合はどうだ?」
燃えるような赤髪を掻きながら、どこかギクシャクした声音で尋ねた。
ヘタクソな芝居に、ラクラが吹き出す。リリアとフローラも話を止め、ノエルを見つめた。
様子のおかしい夫が何を考えているのか、フローラは読み取った。美しい顔に淑やかな笑みを浮かべると、
「ラクラさん達が来られたのは、私の身体の事ですね?」
そう言って、向かいに座る師弟を見つめた。
ラクラは手にしていたカップを置き、顔を上げる。珍しく真面目な表情だが、活気が無いため眠そうにも見える。師匠に倣い、リリアも居住まいを正した。
「ノエルから、お身体の調子が良くないと聞きました」
「この人は大袈裟なんです。もう少し経てば治まると言ったのですが」
フローラは答えながら、夫の逞しい腕に触れる。ノエルが心配そうに視線を向け、何かを言いかけるが、やんわりとした妻の笑顔に制されてしまう。
「この人からは、何と?」
「いくつか症状を聞きました。薬が欲しいという事でしたが……貴女には必要ないかと思いまして」
「大方、予想は付いてるのですね」
「ええ、まあ。多分そうだろうなーと」
ラクラとフローラの会話に、残る二人は首を傾げている。話が分からぬ者同士で顔を見合わせ、それから隣を見遣った。
リリアは師匠に、ノエルは妻に、「話が見えない」と視線で伝える。
「何だよ、フローラも分かってんのか?」
「自分の身体の事ですもの」
「師匠、フローラさんは病気じゃないって事ですか?」
「まぁ、そうだね」
ラクラは弟子の問いに答えると、フローラに向かい直る。
「これは、僕から話すべき事じゃありませんよね」
「ええ……そうですわね」
「貴女が何を不安に思っているか分かりませんが、そろそろ言うべきだと思いますよ。それに、ノエルはきっと喜んでくれます」
その言葉に、フローラは一瞬目を瞠った。そして暫く、夫の精悍な顔を見つめていたが、やがて肩の力を抜くと、
「貴方と、それからリリアちゃんにも、聞いて欲しいのだけれど――」
フローラは、凛とした確かな声で、ゆっくりと告げた。
「私、子供が出来たみたいなの」