プロローグ
命の危機というものは、唐突に、思いもしない形でやって来る。
例えば、朝から寝癖に悩まされる事もなく、朝食のパンは丁度良い焼き加減で、薬の調合も失敗することなく、干した洗濯物は気持ちよく乾いて、お茶を飲みながらゆっくりと読書に耽る。
そんな上出来な一日の締め括りとして、よもや人生まで締め括られる破目になるとは考えもしなかった。
往々にしてこんな時は、過去の記憶が走馬灯のように過ぎ去ってゆくと聞いた事がある。身に迫る危険をどうにか乗り切る方法はないか、記憶から脳が探している状態だという。
(ああ、駄目かな)
霞みかかる意識の中で、リリアはそんな事を思う。
いくら記憶を辿っても、こんな状況を乗り切る方法など思いつかない。脳裏に浮かぶのは、起き掛けに聞いた鳥の囀りであったり、髪を揺らす暖かな風の感触であったり、他愛もない日常の会話であったり、そんな事ばかりだ。
(もしかして、このまま死んじゃう?)
逃走は試みた。一通り暴れて、出来る限りの抵抗はした。だが、この首に纏わり付いた黒い靄は触れる事すら出来ず、呼吸を奪うかのように締め付けを強くする。
(私がいなくなったら……あの人、まともに生活できるのかなぁ)
命を脅かされている最中だというのに、他人の心配をしている自分に気付き、リリアは苦悶に歪めた唇を僅かに綻ばせた。
放っておけば数日は寝っぱなし、起きていてもいつだってボンヤリしていて覇気が無い、食事はまともに作れず、洗濯や掃除もろくに出来ない、日常生活における悉くが破綻している男の姿を思い浮かべて、声を振り絞った。
「私……まだ、死にたくない」
一人では何も出来ないあの人を――師匠を残して死んでいくなど、考えたくは無かった。